領主と吸血鬼10

 * * *

 午後12時。22番通りの一角で、マリアは地面とひたすらにらめっこをしていた。

 そこは昨日、ロアが吸血鬼と対峙した場所だ。

 何か相手の痕跡となるものが落ちていないか、石畳1枚1枚の隙間すら入念にチェックする。

 しかしながらマリア本人は夢中で気がついていない。

 傍から見たら声を掛けづらいほど地面に這いつくばる格好になっていることに。


「マリア。その体勢は流石にどうかと思うよ」


 ロアの声がして、マリアはふと顔を上げた。


「そっちこそ、またそんなお召し物を」


 コートを着込んでいても、やはりマリアにはお見通しらしい。

 ロアは軽く笑ってマリアの手をとり、立たせた。

 そんなロアの額に汗が浮かんでいるのを見て、マリアは言う。


「暑いなら無理して着込まなくても」

「え、いいの? それよりこれお土産。焼きたてだから、今食べる?」


 ロアから差し出された紙袋を受け取り、マリアは中身を覗く。

 中には大判のチョコチップクッキーが入っていた。

 袋を開いただけで、バターとチョコの甘く香ばしい香りが鼻腔に広がる。

 マリアは即座にこくりと頷いて、花壇の縁に座り込んだ。

 ロアも倣って隣に座り、マリアに手拭きを渡す。


「ミシェル嬢は満足されましたか」

「ふふ、まあ。あのジェフっていう執事、思ったより良い従者だったよ。マリアのほうは?」

「私のほうは、昨日貴女がここで会った悪魔祓いと支部で顔を合わせましたよ」

「それはそれは。誤解は解けた?」

「その点は副支部長のお陰でどうにか。ただ、個人的にそりが全く合わないというか、雌犬みたいな女でした」


 マリアがクッキーにかぶりついた横で、ロアが吹き出した。


「なんです?」

「いや、そんなに遊んでるような子には見えなかったけど」

「遊ぶ?」

「……いやごめん、忘れて。でも、どうして犬なの」


 ロアの問いに、マリアは少し答えを躊躇した。


『あんなのとっくに悪魔憑きの範疇を超えてるわよ!』


 エレン・テンダーの言葉が、午前からずっと頭を離れない。

 その言葉は、嘘ではないのだろう。

 ロアは普通の悪魔憑きよりも断然に、憑かれている時間が長いのだから。


「……鼻が利く女なんですよ」


 マリアの言葉に、ロアは「なるほどね」とただ頷いた。

 しかし不思議なのは、あれほどの感知能力を持ちながら、どうして件の吸血鬼を彼女は感知できないのかというところだ。

 実際に対峙したロアもはっきりとはわからないと言うし……などとマリアがクッキーを頬張りながら考えていると。


「ごめんマリア、ハンカチ貸して。ミシェル嬢に貸しちゃって」

「まさか泣かせたんですか?」

「やだな人聞きの悪い。私が泣かせたわけじゃないよ」


 マリアがハンカチを手渡すと、ロアは額の汗を拭き始めた。

 そんな横顔を見て、マリアはふと、ロアの額に手を伸ばす。


「! なに」


 驚いたのか、逃げるように身じろぐロアの手首をマリアはとっさに捕まえた。


「ちょっと、熱あるじゃないですか!」

「ないよ。普段外に出ないから、日光に慣れてなくて暑いだけ」


 マリアは食べかけのクッキーをさっと袋にしまって、再度ロアに向き合い、その額にしっかりと手を当てる。

 気温を考慮しても、明らかに温い。

 当のロアは渋い顔をしていた。


「こんなに熱いのにないわけないじゃないですか! 具合が悪いならどうしてもっと早く言わないんですか貴女は!」


 今朝、ロアの動きがどことなく緩慢だったことを思い返し、マリアは迂闊だったと歯噛みする。


「…………だって、これ以上マリアに迷惑かけたくなかったし……」


 ロアは火照った頬でふてくされた顔をしつつ、自らの左腕を右手でぎゅっと握る。


「とにかく早く休んでください、ホテルに戻りますよ」


 マリアはロアを立たせて、大通りに出て馬車をつかまえた。






  * * *

 事態はマリアの想像以上に深刻だった。

 ロアの熱の原因は、疲れでも風邪でもなく、昨日の怪我だったのだ。


 ホテルに戻ってベッドに横になったロアは急に大人しくなった。

 外出時は気を張っていたのだろう、それが解けたのか一気に顔色が悪くなる。

 昨日処置した左腕の包帯をマリアが急いでほどくと、3本の傷口は異様なほど青く腫れていた。まるで毒を注がれたような傷跡だ。

 恐らく昨日の刃の先に毒の類が塗られていたのだろう。

 いつからこんなに腫れていたのか分からないが、相当な痛みを伴っていたに違いなかった。


「馬鹿ですか貴女は」


 同時に気付けなかった自身を責めながらもマリアはてきぱきと氷水でタオルを濡らし、浅い息をしているロアの額にそっと乗せた。


「医者を呼びます」


 マリアが立とうとすると、ロアが小さな声で「だめ」と止めた。


「どうして」

「……さっきから、喉が渇いて……、満月の夜みたいに」


 ロアが言わんとしていることがマリアには分かった。

 今の状態で下手に部屋に人を入れるのは、満月の夜と同じでまずいというのだ。


「……血が、欲しい」


 うわごとのようにつぶやいたロアの言葉に


「なら、私の血を吸ってください」


 ベッドの脇でマリアは襟元のリボンを解き、首元をゆるめロアにその白い肌を差し出した。


 熱に浮かされた視線で、ロアはその肌を凝視する。


 少し触れただけで赤くなる、マリアの柔い白肌。

 抱きすくめれば折れそうなほど細い腰。

 舌を這わせれば感じる彼女の体温、汗の匂い、そして皮膚の下の甘い血。

 吸えば、唇から零れる微かな声。


 意識は朦朧としてきているというのに、マリアの肌を視認するだけで、脳裏に刻まれたそれらすべてが呼び起されて、喉が鳴る。


 それだけではない。


「ロア?」


 純粋に、真摯な眼差しを向けてくるマリアの瞳を、無性にどうにかしてしまいたくなる。

 彼女の肌に噛みついて、力任せに組み敷いて、そうすればこの綺麗な瞳は曇るのか。

 あるいはそのとき、彼女の唇は何を喘ぎ何と懇願するのだろう。


 見たい。

 彼女が乱れるさまを。

 知りたい。

 彼女の心の奥底を。

 食らいたい。

 彼女のすべてを。


 嗚呼。

 こんなにも、こんなにも、こんなにも!

 彼女が、欲しい。


「……っ、」


 ロアはおもむろに上体を起こし、マリアから距離を取った。

 ロアの瞳の色はこの時すでに、赤く変化していた。

 その変化にマリアが驚く暇もなく、ロアはそのまま自身の右腕に噛みついた。


「ロア! 何を、」


 皮膚を裂く音がするほど、まるで獣のようにロアは自らの右腕を強く噛み続ける。

 赤い血がベッドのシーツを汚していく。


「……加減、できない。早く、部屋を出なさい。鍵を、閉めて……!」


 自らの醜態を隠すように、ロアは壁のほうを向く。

 マリアとはもう目を合わせない。


「ですが、」

「――はやく!」


 鬼気迫る勢いで怒鳴られ、マリアは肩を震わせた。


「……どうにか、しますから」


 マリアはそれだけ言って、部屋を出て扉を閉めた。

 そして鍵をかけた後、その扉の前にしゃがみこんだ。

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