領主と吸血鬼6

 * * *

 バーの女主人が言っていた通り、繁華街である22番通りも吸血鬼騒動があってから店を畳む時間が早まっているらしい。

 喧騒もなく、不思議なほど静かなもので、ただガス灯が石畳をゆらゆらと照らしていた。


 ホテルへの帰路を急いでいたロアは、ふと足を止めた。

 前方に、黒い外套の人影を見たのだ。

 辺りには他に誰もいない。

 ロアは思わず自身の不遇さに笑んだ。


 その笑みに吸い寄せられるように、ソレはただ一度の跳躍で彼女の目前に迫る。


 その貌が眼前に広がった瞬間、ロアは腰のナイフを抜いた。


 抜き際の一閃を大きく跳ねて避けたその男は、ロアを見据え、薄い唇の端を上げて少し残念気に、上品に笑う。

 その顔はあたかも舞踏会でダンスの誘いを断られた紳士のようだった。


 目撃者の証言通り、男の髪は赤い。ロアの髪より数段明るい、完全なる赤毛だった。

 加えて面長の美顔で、肌は人形のように青白く、瞳は不思議な魅力を秘めた色をしていてこの世のものとは思えない。

 ただ、不思議なのは。


(匂いがしない)


 ロアがライア・ロビンソン手製の薬品を使って悪魔の匂いを消しているように、悪魔には独特の匂いがある。

 悪魔祓いの中でもその匂いに敏感な者、そうでない者がいる。

 四六時中悪魔や悪魔憑きと付き合っているマグナス神父やマリアなどは逆に匂いに慣れ過ぎて後者であったりするのだが、ロアは割と鼻が利くほうだと自負していた。

 それでも何も感じない。


(悪魔ですらない?)


 ロアが逡巡していると


「私が眼前に現れれば、女性は皆身を固め陶酔したのに、貴女は私に心奪われないのですね」


 まるで歌劇の台詞のような言葉を男は発した。

 テノールの、甘く優しい声。

 容姿もそうだが、まるでこの男は異性を虜にするために存在するのではないかと思えるほど、何もかもが精巧だった。

 しかし


「私には奪われる心がもうないからね」


 魔術めいた男の瞳の誘惑を跳ね除けて、ロアは再度ナイフを構える。

 男は「成程」と小さく頷き、


「とても残念です。貴女はとても美しいのに、その身を切り裂かれて後悔をすることになる」


 黒い外套から、三本の長い爪のような刃物を取り出した。


「!」


 男は獣のような動きでロアに再度接近する。

 下段からの容赦ない斬り上げに、ロアは思わず腕でそれをかばった。


「っ、その得物、ただの殺人鬼じゃないか」


 切り傷を負った左腕をかばいながら、ロアは後ろに跳ぶ。

 あの長い刃物相手に、護身用のナイフだけでは流石に役不足だ。


 しかし男はそれ以上仕掛けてこようとはせず、ただロアの言葉にかぶりを振った。


「私は『殺す』のではなく、『活かす』のです。美しいものを永遠にするために、時を止めるのです。呪われし貴女にならきっと分かるでしょう」


 男はそれだけ言い残し、そのまま闇夜に消えた。


「……」


 ぽたぽたと、血が石畳に零れ落ちる。

 深い傷ではないが、せめて止血してから帰ったほうがいいだろう。

 勝手にホテルを出て一杯引っかけた挙句標的と出くわして怪我をしたなんてマリアに知られたらどんな顔をされるか。


(……それはそれで見てみたいけど)


 そんなことを思ってしまった自分の馬鹿さ加減に薄笑いを浮かべ、ロアは街灯の鉄柱に寄りかかり、ハンカチを咥えて腕にきつく巻き付けた。


 ついでに、明るくなった時のことを考えて地面に点々と零してしまった血も処理しておこうとかと、ポケットをごそごそ漁っていた、ちょうどその時だ。

 パタパタと、深夜にも関わらず誰かが走ってくるような慌ただしい足音が迫って来た。


「?」


 足音が急に止んだので、ロアが音のした方向へ首を回すと、そこには見知らぬ女性が息を切らせて突っ立っていた。

 何を焦って来たのか、せっかくのプラチナブロンドの髪はボサボサ、寝間着に無理やりコートでも羽織ってきたかのような出で立ちで、よく見れば足元もサンダルだ。


 こんな夜中に若い女性がそんな恰好で出歩くとは。


「危ないよ」と声を掛けようとしたら、女性はビクリと肩を震わせ一歩後ずさった。

 そして震える唇で呟く。


「……きゅ、吸血鬼……!」

「へ?」


 女性は自らを奮い立たせるようにコートから銀の銃を取り出した。


「近寄るな! 撃つ、撃ちますよ!」


 震える声で威嚇する彼女に、ようやくロアは事態を理解した。

 銀の銃を持っているということは、この女性は『悪魔祓い』なのだ。それも飛び切り、鼻が利く体質なのだろう。


(……しくじったな)


 ライアから貰った匂い消しはあくまで外用薬だ。体表にバリアを張って匂いを誤魔化すものなので、血が零れれば当然効果は無効になる。


「まさか女だったなんて、……証言と違うけど、赤い髪、黒い外套、間違いない」


 自身を落ち着かせるためなのか、寝間着の女はそうひとりごちながらゆっくりとロアに近づいてくる。銃を持つ手は微かに震えていた。

 マリアほどではないがまだ年若い悪魔祓いだ。

 未熟なのだろう。熟練の悪魔祓いなら、声を掛ける前に容赦なく撃ってきたはずだ。


 不幸中の幸いに感謝しながら、ロアは彼女の間合いに入る。


「なっ!」


 驚く彼女の手首を払い、銃を落とし出来るだけ遠くに蹴飛ばす。

 その隙に、ロアは逃げた。


「ま、待ちなさい!」


 銃を拾うのに最低5秒、加えて相手はサンダルだ。

 ロアが逃げおおせるには十分な時間だった。

 あとはホテルに戻る前に、再度薬をふればいい。


(稀に見る災難な日だな、今日は)


 マリアの機嫌は損ねるし。

 あまつさえ彼女の裸体を見て赤面するという失態を重ねて。

 そしてこの様だ。


(……やっぱり怒られるかな)


 ロアは思わずため息を吐いた。

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