プレリュード ボルドウの女領主3

 * * *

 フレア・ハンベル記者が豚肉の葡萄ソース煮の取材を終えたのは、日もすっかり落ちた頃だった。

 取材先のバロン夫妻が大変お喋り好きで、料理以外の話題――都のオカルト話にまで発展し、会話が弾みすぎてこのザマだ。

 予定ではボルドウの隣町から出発する都行の最終汽車に乗って車中泊をして帰る予定だったのだが、この時間では間に合わない。


「今からでも宿取れるといいけど……」


 宿が確保できなかった場合、今朝会った領主に泣きついてみようと考えながら、彼女は市街の中心を目指す。


 都の夜も闇が深いが、田舎の夜は早い。

 まだ日が落ちて間もないというのに、商店はすべてのれんを降ろしており、人通りもない。

 葡萄酒の名産地なのだから、酒店ぐらいは開けておいてもいいと思うのだが、例に漏れず店を閉めている。


(人もいないし、なんだかまるで吸血鬼が登場する前触れみたい)


 彼女が興味本位で独自に吸血鬼騒動について調べたところ、吸血鬼に襲われた女性は皆人通りの少ない路地裏で死亡しており、目撃者は一人もいない。

 被害者の首筋に残る跡と死因から、犯人は吸血鬼だと騒がれているが、もしかしたら新種の吸血動物かもしれないし、ただの変質者かもしれない。

 ともかく、つまりこのような状況下でその「吸血鬼」は現れるということになる。


(でもどうせなら、イケメンの吸血鬼のほうが夢があるわね……)


 まだ見ぬ吸血鬼に思いを馳せながら歩を進めていると、再び酒店の前にやって来た。


「……え?」


 気のせいではない。先ほど前を通ったのと同じ店だ。

 ずっと直進をしているはずなのに、なぜか同じ場所へ戻ってきている。


(そんなバカな)


 首を振って再び歩けど、やはり景色が変わる気配はない。

 いよいよ心細くなってきた折、前方に人影が現れた。


 黒い外套、血のように赤い髪。

 ただそれだけで、彼女の脳裏には「吸血鬼」の文字が浮かぶ。


 声を出したくても出せなかった。

 叫んだところで誰にも聞こえない。


 ゆっくりと歩み寄るその人は、あまりにも美しい男性。

 まさしく空想小説で描かれたようなドラキュラ。

 この世のものではありえない美しい瞳に射抜かれて、フレアは動く気力すら奪われた。


 もうすぐ目の前。

 黒い外套が近づいてくる。

 そして


 銃声が轟いた。


「!?」


 目が覚めるようなその音に、フレアの足は驚きもつれ、その場にしりもちをついた。

 一方、吸血鬼は美しい顔をこわばらせ後退した。

 いや、すでに人型すら保っていない。

 吸血鬼と思われたそれは、ただの黒い靄もやになっている。


 何が起こっているのか理解できないフレアの背後から、カツカツと靴音が響いてくる。


 フレアの傍で、その人物は足を止めた。


「ミス・ハンベル。あれは吸血鬼じゃない。君の空想だよ」

「……りょ、領主様……!?」


 片手に銃を携えたボルドウ領主は、今朝の寝間着姿ではなく、かといって貴婦人のドレス姿でもなく、まるで紳士の礼服のような黒いスーツベストを着用していた。

 だがとてもよく似合っている。


「君の好奇心に惹かれてこんな田舎まで憑いてきてしまった、都の悪霊だ」

「あ、あくりょう!?」

「すぐ消すから、見ていて」


 領主は銃を腰のベルトにかけ直し、次に短剣を抜いて黒い靄に向かって走り出す。


「悪霊って刃物で切れないんじゃ!?」

 フレアのもっともなツッコミを無視して、ロアは短剣を振りかぶる。

 黒い靄は意外なことに、その一閃で霧散した。


「私なら斬れる」


 フレアはその様子を見て唖然とした。


「もしや貴女は……悪魔祓いなのですか?」


 若いながらも大陸各地を取材で巡った彼女は、その存在を知っている。

 悪魔祓いと呼ばれる者たちは、魔や霊、普通の人間ならば触れることのできないそれらに触れ、退治することができるという。

 教会に所属する者がほとんどと聞くが、稀にはぐれ者がいるとも聞く。


「いや、私は」


 領主の返答を聞く前に、フレアは背後から何者かに襲われた。


 首に手刀を打たれ、気絶したフレア。


「まさかこんな田舎に悪魔憑きが潜んでいるとは驚きだ」


 さも面白そうにそう言ったのは、年季の入ったコートを着た髭面の男だった。

 その不精な髭のせいで判別しづらいが、まだ若いらしい。コートを羽織っていても、肉体が鍛えられていることがわかる。


「都からのお客様を手刀で気絶させるような野蛮な男がこの街にいるなんて私も知らなかったよ」


 敵意をむき出しにするロアに、男は可笑しそうに一笑した。


「俺もお客様なんだけどな?」

「生憎男は嫌いでね」

「そりゃあ“勿体ない”」


 次の瞬間、二人は互いに短剣を抜いた。


 二人が銃を抜かなかったのは、床に転がっているフレアを気遣ってのことだ。


「えらく配慮ある悪魔憑きだな。悪魔の匂いには反吐が出るが、どうやって抑え込んでいるのか知りたいくらいだ」


 ロアの短剣をうまくさばきながら男は言う。


「黙れ髭面、遊ぶだけならさっさと失せろ!」


 ロアは男の手を短剣の柄で打ち、相手の武器を落とさせると、男の額に銃口を突きつけた。


  その状況下でも、男は不敵に笑っていた。


「撃てばいいじゃないか悪魔憑き。それとも撃ちたくない理由でもあるのか?」

「これ以上私を怒らせるな悪魔祓い。今すぐ消えろ」


 銃口を再度押し付けても、男は笑みを崩さない。むしろ


「甘ったれめ」


 男はかっと目を見開くと、目にも見えぬ速さでロアの腹部に拳を入れた。


「ッ」


 体勢を崩したロアに、容赦なく蹴りを入れる男。

 受け身もとれないままふっ飛ばされて、ロアは地面に転がった。


「――おい、はやく本性を表せよ」


 男は地に伏したまま動かないロアに近づいていく。


「見つけた獲物は全部祓ってきたんだ。俺はお前の中のものを殺すまで帰らないぜ」


「ロア様ッ!」


 路地に少女の声が響いた。マリアだ。

 主人の帰りが遅いので、心配になり見に来たらこの有様だ。


 マリアはロアの側に膝をつき、彼女を抱き起こす。


「……おいお前、教会の匂いがするぞ? まさか知っててそいつを匿ってんのか?」


 悪魔祓いの男は不機嫌そうにマリアを睨んだ。

 対するマリアも臆さず男をねめつける。


「いいえ、ミスター。この人は私の獲物です。横取りはやめていただきたい」


 男はマリアのその言葉を聞いて、狂気的に笑った。


「ハハハハハッ! 正気かよお嬢ちゃん!」


 男はひとしきり笑った後、


「だがこっちも譲れねえんだ。そいつみたいに人間の皮被った悪魔ほど面倒なもんはいねえ。邪魔するならお前も無事じゃすまないぜ」


 男は鋭い語気でそう言い放ち、マリアに手を伸ばそうとした。

 すると


「!」


 男の手を、ロアの手が振り払った。


「マリアに触れるな」


 そう告げた彼女の眼光は、魔的に赤く煌めいていた。


「ようやく出てきたか!」

 男は興奮気味に銃を抜いた。


「ロアさ」


 マリアが声を掛ける前に、ロアは彼女を抱えて銃弾を避けた。

 そのまま遮蔽物の後ろにマリアを隠すと、ロアは人間離れした脚力で悪魔祓いとの間合いを詰める。


「そうこなくっちゃなァ!」


 もともと戦闘狂なのか、男は鋭い眼を輝かせて予備の短剣で迎えうつ。

 が


「な、」


 一瞬で男の短剣は砕け散った。

 相手は武器など抜いていなかったはずだ。


(まさか、手刀で?)


 男が考える暇もなく


「がッ!」


 先刻のお返しと言わんばかりにロアは男の腹部を強打した。


 男の身体はその一撃で吹き飛び、壁に激突する。

 がくんと男の身体から力が抜けたのを確認し、ロアは気絶した男に近づく。


「私を殺していいのはマリアだけだ」


 ロアはそう呟いて、男の首に手をかける。

 少しでも力を入れれば、首の骨を折るなど造作もない。

 閾値を超えた今の状態の彼女は、その行為に対する罪悪感も薄れていた。


「待ってロア!」


 マリアが背後から抱き留めてそれを制止する。


「人間は殺さない約束でしょう」


 ロアの腰に回るマリアの腕が、ぎゅっと強張っている。


「でもこいつ、このまま生かしたらまた私を狙ってくるよ。ここにいられなくなってしまう」


 平穏な屋敷での生活が、領主と女中の生活がなくなってしまう。

 それが嫌だと、ロアは暗に言った。


「それは大丈夫。神父様に相談します。今夜の記憶程度なら、消す方法もありますから。どうか」

「…………わかった」


 マリアの懇願に、ロアはそっと男の首から手を離す。


 次の瞬間には、ロアの眼はすっかり元の色に戻り、表情もいつものぐうたら領主に戻っていた。


「……ただの悪霊退治かと思ったのに、とんでもないのが入って来た……」

「運が悪かったですね」

「……お腹も痛い」

「あとで診てあげますから」

「……ご褒美は」

「徹頭徹尾うまくやれたと言えますか?」

「…………マリアの意地悪」


 いじける主人を傍目に、マリアはいそいそと公衆電話で教会に連絡をとる。

 その夜は、男の後始末とフレア・ハンベル記者の介抱で大忙しだった。




 * * *

 まるで棺のようなベッドの中。

 ただひとりの少女の声だけが、眠りの底にいる彼女を目覚めさせる。


「ロア様、起きてください。いつまでぐうたら寝ているんですか」


 マリアの言葉遣いが日に日に女中らしくなくなってきていることは、ロアはあまり気にしていない。


「……だって昨日あんなことがあったし……今日は1日こうしていたい……」

「それを許せば今後ずっとベッドの上で生活されるおつもりでしょう? 私は介護はしませんよ。さあ」


 マリアが差し出す白い手を、ロアはそっと握って上体を起こす。

 いつも通りそのまま起きるのかと思いきや


「! ロア、」


 ロアはマリアの慎ましい胸に顔を埋めた。


「……ご褒美……昨日から待ってるんだけど」

「それは、」

「……あのクソ性格悪い悪魔祓いのせいで大分消耗したし……」

「確かに同業者と言えどあの戦闘狂ぶりはどうかと思いましたが」


 ご飯を待つ犬のような瞳で見つめられて、気丈なマリアも少しだけ頬を赤らめる。


「…………少しだけですよ。あまりとられると私の身がもちません」


 それを聞いて、ロアは嬉しそうにこくりと頷く。

 そして、マリアの柔らかな首筋にそっと牙を立てた。


 生まれつきの吸血種の悪魔憑きであるロアが、これまで自我を保っていられるのはマリアの血による鎮静効果が大きい。

 幼い頃から悪魔祓いとして育てられたマリアは、いつかロアが安らかに眠り、その身の悪魔を祓える日が来るまで、彼女に血を捧げる約束をした。ただし、ロアが悪魔祓いの仕事を手伝うことを条件に、だ。


 引きこもりの女領主と若い女中が、このような不思議な関係にあることをボルドウの地の人々は知る由もなく。

 今日も秋の空は広がっていた。

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