幕間 2

「急な来訪ですみません、商談で近くまで来たものですから」


 突然の来訪者は、ロンディヌスの豪商一族の三男、アルフレッド・ルクルスだった。


「お久しぶりです、ルクルス様」


 先ほどのリィの反応を思い出しながら、マリアは深々と会釈した。

 リィはサキュバスとしての性質からか、高潔な男性を嫌う。器量も良く、他人が羨む財を持ちながらしかし高潔という、絵に描いたような善人の彼はまさに、リィが逃げ出したくなるような潔白な人間なのだろう。


「以前お借りしたハンカチを返しに来たのです。それと、手土産をどうぞ」


 いつかそれを返しに来るだろうとは思っていたが、玄関先で用事を済ませようとする殊勝な彼に、マリアは思わず中に入るよう勧めた。


「いや、しかし……」


 アポイントをとらずにやって来たことを気にしているのか、彼は遠慮してなかなか足を踏み入れない。

 そこに


「やあ、ルクルス殿じゃないか。ちょうどいいところに」


 満面の笑みのロアが現れると、彼の顔はすぐに綻んだ。


 彼女に会いたいのなら最初からそう言えばいいのにと胸中で思いながらも、マリアが気になったのはそこではなく。


(……ちょうどいいところにって?)


「ミスター、少し時間をいただけるだろうか? 君に頼みたいことがあるんだ」


 進んで男性を屋敷に招き入れることなど滅多にないロアがそう言うのを聞いて、マリアは思わず不審げにロアの顔を見上げた。

 一方のロアは、いつもの微笑みをマリアに向けただけだった。






 * * *

「どうして貴女はそう思い付きで物事を進めるんですか」


 その日の晩、マリアは夕食づくりをストライキした。


「良い思い付きだったと思うんだけどなあ。上手くことも運んだし、ねえマリアー機嫌直してよー」


 お腹を空かせたロアは食堂のテーブルの上に顎を乗せて抗議する。


 ロアがアルフレッドに依頼した案件。それは、この屋敷を彼女たちが留守にする間の、屋敷の管理だった。


「確かにルクルス様は誠実な方ですが、一度しかお会いしたことのない間柄。唐突にこんなことを依頼するのは不躾だったのでは?」

「でもマリア、他に頼める人いる? この街の人には頼めないしさ」


 わけあって、ボルドウの領民たちはこの屋敷には近づきたがらない。

 屋敷の留守を任せるなら本来縁者か、駐在員を頼りにするところだが、クロワ家の縁者は既に皆無、ボルドウにいるロンディヌス警察の駐在員は新卒のもやしのような巡査なのであまりあてにならない。


「それにほら、彼、ものすごく張りきって引き受けてくれたじゃない?」


 今日の今日でいきなりそんなことを頼まれたにも関わらず、アルフレッドは嫌な顔ひとつせず、ほぼ二言返事で了承してくれた。


『ルクルスの名誉にかけて、信頼できるハウスキーパーを入れましょう。監督人には私が最も信頼している直属の部下を。ええ、勿論私も定期的に監督しに』


 あの張り切りようには、流石にマリアも驚いた。

 誰がどう見ても彼のロアに対する好意のたまものだというのに、それを全く分かっていない風ににこにこと話す鈍感なロアにマリアは思わず目を背ける。


「どうしたの?」

「……いえ、もういいです。私もこの件に関しては最悪、お師匠様に頼ろうと思っていましたが、そうならずに済んだことで良しとします」


 これ以上言っては野暮と、マリアは口を閉じた。


「なら、あとは私の問題だねぇ。どうやって悪魔祓いの目をかいくぐろうか。教会に根回しをお願いすることもこの際やぶさかではないんだけど」


 ロアが悪魔憑きであることを知っているのは、現状、教会の上層部だけだ。もともとは彼らからの要請なのだから、協力を求めることは可能だろう。

 しかし教会も一枚岩ではない上、当然のことながら悪魔祓いには悪魔を目の敵にしている者がほとんどだ。

 懸念しているリスクは避けられないだろう。


「ロア様。その件ですが」


 マリアがおもむろに、ロアに近づいた。

 マリアの手にはいつの間にか、香水のような小瓶が握られており


「わぷっ!?」


 それ何、と言おうとしたロアの顔のすぐそばで噴射する。

 まるで薬草をすりつぶしたかのような、独特の青い香りが広がった。

 香水にしては、最悪の匂いでもないが、決して良い匂いでもない。


「!? !? ちょっとマリア、どこからそんなの持ってきたの!? ていうかそれ何!?」


 ロアがぶんぶんと手で宙を仰ぐ。


「ミス・ロビンソンから受け取ったものです」

「ええ!?」


 ロアは血相を変えて慌てて立ち上がった。

 あまりのオーバーリアクションに、マリアが戸惑う。


「大丈夫、毒物でないことは確認しています」

「いや、そうじゃなくて! あの人から貰うものってロクなものじゃないよ!?」


 ロアの脳裏に浮かんだのは、ライアの置き土産である媚薬だった。

 ライアが屋敷を去った後、なぜかロアの寝室に件の小瓶が置かれてあるのを見つけて、ひとり叫んだのは記憶に浅い。

 それを捨てるに捨てられず、鍵のかかる引き出しにしまったことは、マリアには絶対の秘密だった。


「これはれっきとした薬です。これをふると、24時間、悪魔の匂いが消せると」

「ほ、ほんとに? 怪しい薬とかじゃなく……?」


 やたらと疑うロアに、マリアはため息を吐いた。


「そんな物騒なもの、あの方が私たちに渡すと思いますか?」

「マリアは無条件に人を信じすぎだよ! お願いだからちょっとは警戒してよ!」


 言いながら自己嫌悪に陥り、頭を抱えるロア。一方で彼女がそのように抗議する意味がマリアには理解できず、怪訝な顔をするばかりだった。


「ともかく、これで準備は整いましたね。他に懸案事項はありますか?」

「……」


 マリアの言葉に、ロアはもの言いたげにしながらも視線を逸らす。

 その仕草で、マリアにはロアの意図が伝わったが、引っかかるものがあった。


「どうしてそんなに遠慮してるんですか? 出立前に血が欲しいんですよね?」

「……マリア、分かってるなら最初からそう言ってよ」


 ロアの言葉に、マリアはハッとなり、自身を省みる。

 本格的に悪魔祓いをしに首都へ出かける前に、ロアに血を供給しなければならないことは想定済みだった。この屋敷の中ならともかく、誰の目があるとも限らない慣れない旅先で、その行為をするのは危険だからだ。

 ならどうして直接的にその提案をせず、あえてロアに尋ねたのか。


「すみません。意地が悪かったと思います」


 マリアは素直に自身の非を詫びた。

 ただし、どうしてそのような意地の悪い物言いになったのかは自身でも理解ができていない。


「ううん、ごめん。私の言い方も意地悪だったね。……いつもは勢いに任せて言ってたから、改まってお願いするのが照れ臭いだけなんだよ」


 あくまで優しく、はぐらかすような笑みを浮かべ謝罪するロアに、マリアの良心が痛む。


「いえ、言いだしにくいのは当然です。……本当に、すみません」

「待って待って!」


 深々と頭を下げるマリアに、ロアは慌ててその肩を両手で掴み顔を上げさせた。


「そんなに反省されてしんみりされたら余計にもらいにくくなるからやめよう? ね? ほら、いつもの感じでもっと罵ってくれていいから!」

「ロア様。私は普段からそんなに貴女を罵倒しているのでしょうか」


 より表情が沈んでいくマリアを見て、ロアは一層混乱する。


「違う、違う、そうじゃなくって! マリアの素直じゃないところとか私大好きだから、お願いだからいつも通りのマリアでいてよー!」


 ロアは思わずマリアをぎゅっと抱きしめ、その後頭部をぽんぽんと撫でる。

 顔を容赦なく覆う胸の感触、後頭部を包むその手のひらの温かさは、マリアが初めてロアに出会ったときを鮮明に思い出させる。


 マリアにとっては苦い思い出でもあるが、2人のファーストコンタクトはマリアの失態がきっかけだった。

 3年前、ロアの父の不審死をきっかけとして、師の命でクロワ家の疑惑を探るべくボルドウに赴いたマリアは、クロワ家屋敷内部を確認するため庭の樹に登ったのだが、窓越しに標的であるロアと鉢合わせした挙句足を滑らせて落下し、ロアが慌てて駆けおりてきたのが始まりだ。


 あの時も、ロアはマリアの無傷を確認するとひどく安堵して、彼女をこんな風に抱きしめた。


 物心ついたときには既に孤児となっていたマリアは、他人に抱きしめられた記憶もなく、抱擁の温かさをその時初めて知った。


 そんな、なんともいえない懐かしさを確かめるように、マリアは息を吸う。


「マリア?」


 黙り込んだ彼女を心配して、ロアが身体を離そうとすると、その服を掴んでマリアが止めた。

 恥ずかしいので顔は埋めたまま、マリアは小さな声で呟く。


「……あの時から、良い匂いがするなと思っていました。……これは世辞でも嫌味でもありませんので」

「……、」


 マリアのその言葉に、ロアは少しだけ戸惑い、そして照れた。

 同時に、心の奥にしまい込んである感情が焦がされて疼くのを感じ、きゅっと奥歯を噛みしめる。


「マリアの匂いも、私は好きだよ」


 出来るだけ優しい声でロアはそう言ってから、マリアの首筋にその唇を当てた。

 マリアの肩が一瞬震える。


「……もらっても?」


 ロアの確認に、マリアは小さくうなずいた。

 給仕服のブラウスの襟が邪魔で、ロアは片手でそっとそのボタンを外す。

 マリアは覚悟を決めたのか、身じろぎもしない。

 それを確認してから、ロアは遠慮がちにその柔肌に舌を乗せる。

 久しぶりの供給のせいか、ロアの舌遣いはまるで壊れ物を扱うような消極的な動きだった。

 遠慮が過ぎたせいで、それをくすぐったく感じたマリアは思わず小さな笑みをこぼす。


「ごめん、くすぐったかった?」


 思わず顔を離したロアに、マリアは空いた手をそっと彼女の背中に回し、再度引き寄せる。

 ロアが息を呑んだのが、マリアにははっきり伝わった。


「少し、強く噛んでも大丈夫ですよ。意地悪をしたお詫びです」


 今までになく積極的なマリアのその言葉に、いよいよ抑えが利かなくなったロアは、マリアの首筋に再度キスを落とし、牙でその肌を突き、裂いた。

 熱い舌が傷口を這い、唇がそれを愛撫する。


「ん、」


 先ほどまでの遠慮がちな動きとは一転した激しい動きに、マリアは思わず息をこぼす。その声すら飲み込むように、ロアは一層激しく吸血した。


 血の提供はこれまで何度もしてきたが、こんなに激しいのは間違いなく初めてだ。

 マリアは自らの言葉を少しだけ悔いた。


 何度も噛まれ、吸われるうちに、鋭い痛みは甘い痺れに変わっていく。

 傷口から熱いものが広がっていき、内側から蕩かされていくようだった。


 疎いマリアでもわかってしまうほど。

 この行為は、血の提供というよりは、もっと別の何かのようで。


「……ロア。ロア、」


 怖くなって、マリアは声を絞り出した。

 そのか細い声で、ロアはぴたりと動きを止める。


「……あまり吸われると、」

「ごめん」


 ロアに血を提供した後、マリアが貧血を起こす率は高い。

 だからこそロアは、今まで細心の注意を払っていたのだが。


 ロアが離れると、マリアはそっと襟を直した。

 上気した頬を隠すように、2人は顔を互いに背ける。


「……溜まってる書類、片づけてくるね。マリアは先にシャワーして寝て」


 それだけ言い残して、いつもより少しだけ足早に歩いていくロアを、マリアは何も返答できないまま見送ってしまった。


 首筋には、まだ彼女の唇の感触が残っている。

 あれだけ噛まれたというのに、不思議と痛みよりもその感触のほうが勝っていた。


 それはまるで春の夜闇が誘った、惑いのような出来事で。

 けれどマリアの心には、強く残る出来事だった。

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