最終章 領主と吸血鬼
領主と吸血鬼0
この唇に触れた彼女の涙の温かさを、私はきっと忘れないだろう。
「貴女はもっと利口な方だと思っていたのに、意外と無謀なことをする」
彼は血だまりに転がる私を見下ろし、嗤う。
『少しは足掻かないと、怒られるからね』
そう伝えようとして、喉からせり上がって来た血が邪魔をした。
どうやら身体はそろそろ限界のようだ。
「もう声も出ませんか? 安心して。貴女のことは最大限に活用させていただくので」
死がいよいよと近づく。
待ち焦がれていた終わりとは随分形が違ってしまったけれど、それも仕方がないと、この際になれば案外と落ち着いた。
あるいは、とうに約束を違えていたのは自分のほうだったのかもしれない。
だからこそ。
『ごめんね、マリア』
謝罪すら伝えられなかったことを後悔しながら、私は瞼を閉じた。
■ ■ ■
ロンディヌス市内において連続で起こった吸血鬼による所業と思しき事件について、以下の通り報告する。
××年4月15日時点において、被害者は5名。
××年10月15日 午前5時。
ロンディヌス市内15番通りにて、新聞配達員が被害者の遺体を発見。
被害者は市内在住のカーテン屋の娘、メアリ・ドートン18歳。
着衣等に乱れはなく、死因は頸部からの失血死。首元には牙で噛まれたような跡があった。
市警は当初、吸血鬼に見せかけた快楽殺人と見て、被害者の死因や首元の傷のことを公表しなかった。
××年10月27日 午前4時。
ロンディヌス市内22番通りにて、飲食店従業員が第2の被害者の遺体を発見。
被害者は市内在住、図書館司書の女性、シルビア・セレス22歳。
こちらも着衣等に乱れはなく、死因も、首筋の傷跡も第1の被害者とまったく同じだった。
ただし、失血量は第1被害者よりも多く、体内の血液のほとんどが抜き取られていた。
市警はいよいよ、本物の吸血鬼の存在を疑い、教会に調査を依頼。
同時に、新聞記者がこの不可解な事件を嗅ぎつけ、ロンディヌス市内で「吸血鬼出没」の噂が広まった。
警察の呼びかけもあり、市内の人々は深夜に出歩くのを避けはじめた。
××年11月12日 午前6時。
ロンディヌス市内3番通り路地裏にて、自営業の男性が被害者の遺体を発見。
被害者は郊外在住の酒造家の娘、エリス・ウォッカ19歳。市内の友人宅に1人で遊びに来ていた帰りだったとのこと。
遺体の状態は第2の被害者と酷似。
ロンディヌスを持ち場とする教会所属の悪魔祓い3名が調査するも、成果なし。吸血鬼の気配も感知できないとのこと。
××年1月30日 午前1時。
ロンディヌス市内22番通りにて、食事帰りの銀行員、トム・マークス氏が不審な人物を目撃。
その足元で第4の被害者、周辺パブの従業員の女性、マライア・ネイサン21歳が倒れていたため、マークス氏は声を上げた。
不審な男はマークス氏に気が付いたのち、すぐに姿を消したとのこと。
氏曰く、男は黒の外套をまとっており、細身。顔の特長や身長などは離れていてよく見えなかったとのこと。
××年3月24日 午前3時。
ロンディヌス市内5番通りにて、パン屋を営むダン・スミス氏が物音を聞きつけ店外に出ると、若い婦女を抱擁するような形で黒い外套の男が立っていた。街灯の灯りに照らされた男の髪の色は赤毛だったという。
スミス氏に気づいた男はそっと抱えていた女性を地面に下ろし、立ち去った。
スミス氏は女性に駆け寄ったがすでに血を吸われた後であり、この時すでに死亡していたとみられる。
被害者は家出中の市内公立高校に通う女生徒カロライナ・フェリー、17歳だった。
教会は本件の解決を、マリア・マグナスに一任する。
■ ■ ■
首都ロンディヌス行の汽車は、平日の昼間にも関わらずほぼ席が埋まっていた。
温かな春の日差しが車窓から降り注ぎ、程よい揺れも相まって、うつらうつらと舟をこいでいる乗客がほとんどだ。
ロンディヌスまでの道のりはまだ遠く、睡眠でもとらなければ間が持たない。
車両の最後尾。他の背広服姿の乗客とは一線を画し、凛と静かに向かい合わせに座る、若い婦人と令嬢がいた。
高貴な身分であることは、そのドレスから見て取れた。
貴婦人は黒基調のシックで上品なドレス、令嬢は木漏れ日のような淡いクリーム色のドレス。
どちらも色味こそ派手ではないが、流行のバッスルスタイルで、はた目からでも上等な品であることが十分に分かる。
黒の帽子のベールで顔を隠すその貴婦人は、手元の紙を丁寧に畳み、向かいの令嬢に返す。
「雑な報告書だね。裏面に続くのかと思ったよ」
「教会の文書はいつもこんなものですよ。……それにしても」
涼しい顔をしていた令嬢が、思わずふっと吹き出した。
「すみません、貴女がドレス姿で真面目に書類を読んでいるとなぜか笑ってしまいます。……しかし、私までこのような格好をする必要が本当にあったのでしょうか?」
対する赤毛の貴婦人はにこりと笑う。
いつもと違う、薔薇色の紅で彩った唇が華やかだった。
「勿論。商いを営む親戚のお招きに預かり首都に物見遊山に出かけるのだから、田舎者とはいえ身なりはそれなりにしておかないとね」
つまり、そういう設定なのである。
ボルドウ領主の身分を隠して首都へ赴くことになったロアは、アルフレッド・ルクルスの助力を得て、首都で多少融通が利く姓を借りることになった。
今の彼女は、豪商ルクルス家の親戚筋、ヴェルヌ家の名を借り、ロゼット・ヴェルヌを名乗っている。さらに言うと、マリアはその従妹のマリア・ロクサーヌと名乗ることになる。
「貴女はともかく、私は侍女のままでも良かったような」
「給仕服もいいけれど、着飾ったマリアを見てみたかったんだよ。とてもよく似合ってる」
ロアははにかみながらそう言った。
立場上、世辞の上手い彼女だが、そこに照れが入ることは決してない。
どんな恥ずかしい台詞も綺麗な笑みを浮かべてさらりと言ってのけるのをマリアは知っている。
逆に言えば、はにかむ時は本心なのだ。
マリアが初めてこのドレスに袖を通したときも、ロアは同じような顔で「似合っている」と言った。
そんな顔で、そんな言葉を二度も掛けられて、マリアの頬も自然と火照る。
それも二度目だ。
「マリアとこうして遠くへ出かけるのは初めてだね」
わきまえているのか、明確に言葉にはしなかったものの、言葉端には「楽しみだね」と言っているようなものだった。
「旅行じゃないんですよ」
マリアはあえてそう嗜める。そう言葉にしたのは少しだけ、旅行気分になってしまっている自身を戒めるためでもあった。
ちなみに、そんなマリアが長旅の途中で食べるつもりで、彼女の好物のチョコチップクッキーをこっそり持参しているのをロアは知っている。
それに合わせてロアがクッキーによく合う紅茶を保温ポットに準備してきたことは、まだマリアには秘密だった。
首都に着けば、落ち着く暇がないのは目に見えている。
それまで少しだけの間、この時間を楽しみたいと思うのだ。
「ところで、ロ……ゼットは、首都に最後に行ったのはいつですか?」
「父に無理やり連れられて社交界に行ったのが最後かな。私がマリアの歳の頃だから、5年は前になるね。そう言うマリアは、前は頻繁に行ってたの?」
「それほどは。もともと持ち場ではありませんし、二度ほど師に使いを頼まれて行ったぐらいです。首都の開発はめまぐるしいと聞きますし、きっと我々が知っている景色とは随分変わっているのでしょうね」
首都ロンディヌスには国王の居城をはじめ貴族の屋敷、政府機関、財閥、大企業が連なり、多くの人間が常に集まる。
人が集まれば自然と産業の技術力は向上し、文化も一層花開く。
田舎町の人間からすれば、首都は憧れの華々しい光の都であるが、実際足を踏み入れればすぐにその影に目が行くだろう。
共産主義から資本主義に傾倒した国の行く道としては仕方がないのかもしれないが、成功する者がいれば没落する者もいる。
ロアもマリアも既に確認済みだが、首都では奇怪な事件が多く、その要因となっているのは貧富の差からくる麻薬の横行と云われている。勿論原因はそれだけではないが、首都はならず者たちの巣窟でもあり、決して治安が良いとは言えない場所だった。
「夜にひとりで出歩いては駄目だよ」
「子供じゃないんですから、わきまえています。そちらこそ、ふらふらと盛り場に出ていかないでくださいね」
「行かないよ、先生じゃあるまいし。それにこの格好じゃあ、余計にね」
当初、ロアは動きやすさを重視していつものスタイルで出かける気でいたらしいのだが、それはマリアが止めておいた。
ボルドウの中ならまだしも、首都の街では女性が男装をしていれば逆に目立ってしまうのは明白だ。
彼女の見目なら、なおさらだろう。
今のドレス姿だって、不用意に目立たぬようにほぼ黒で纏めたにも関わらず、ありあまる胸囲と無駄に良い顔立ちのせいで女性としての色香を打ち消すことができなかった。むしろ、黒がより一層変な方向に妖しげな雰囲気を醸し出してしまい、見かねたマリアがベール付きの帽子を見繕って今の形に落ち着いている。
「……少しはご自身の容姿を自覚してください。流石にそこまでは私も面倒を見きれません」
「? 今日はだらしなくないでしょ? マリアが選んでくれたドレスだもの」
嬉しそうに言うロアに、マリアは目をしばたいた。
確かに普段のロアは寝間着のまま館内をうろついたりとだらしないところがあるが、今のはそういう意味ではない、と続けようとしても墓穴を掘りそうな気がして、マリアは顔を窓のほうに逸らした。
しばらく黙って窓の外を眺めていると、ロアは目を閉じて仮眠を取り始めたようだった。
「……」
こんな他愛のないやりとりも、彼女が居眠る顔も、いつも通り。
ただ、今回は任務の場所が少し変わるだけ。
血の補充もしているし、満月の夜もまだ遠い。
道具類の準備だって万全だ。
だというのに、何故か漠然とした不安がマリアの胸から離れない。
この任務を進んで受けようとしたのは自分のほうで、今更になって怖気づくなんてもってのほかだというのに、列車がボルドウから離れるごとに心細くなる。
そんな心を諫めるように、マリアは胸に手を当て深呼吸した。
「……そう気負わないで、マリア。紅茶でも飲む?」
寝ているものと思っていたロアの金色の目は、しっかりと開いてマリアを見ていた。
はぐらかすように、マリアは苦笑する。
「……紅茶なんていつの間に?」
「マリアがチョコチップクッキーを鞄に入れていた頃だよ」
「よく見ていますね」
「マリアのことだからね」
「本当に変態みたいでちょっと引きます」
「!?」
ショックで白目をむきかけたロアを見て、マリアは今度こそ盛大に吹き出した。
「……せっかく着飾っているのに、変な顔しないでください。可笑しな人ですね」
緊張がほぐれたマリアの笑顔を確認して、ロアも微笑んだ。
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