領主と満月の夜 1

 マリアが屋敷に帰り着いたころには、すっかり辺りは暗くなっていた。もう少しで紺碧の空に、満ちた月が昇るだろう。

 急いで彼女が玄関の扉を開けるや否や


「マリアぁ、おかえりー」


 やたらと葡萄酒臭い主人が彼女に絡みついてきた。


「ちょっと、ロア様! 何へべれけになってるんですか!」

「そんなことよりマリア、身体が冷たいよ? 温めてあげようかー」

「いりませ」


 ん、と言い切る前に問答無用でぎゅーっと腕に力を籠めるロアに、マリアは抗えずに硬直する。

 こういう時、無駄に豊満なロアの胸部は凶器である。

 マリアは本気で窒息しかねない。


 そこでマリアはその場でジャンプする。

 当然のように、ロアの顎にマリアの頭が激突した。


「ふぐ!」


 身長差を活かした物理攻撃なわけだが、マリアの頭は他人に自慢できるほどの石頭。

 ダメージを喰らったのはロアだけだ。


「いたい……」

「目は覚めましたか? まったく」


 赤い顔の主人を見上げ、マリアはため息を吐いた。

 一方、ロアはというと年上の威厳など皆無で、涙目になって訴えた。


「……酔ってないもん。今の間にマリアにいっぱい触りたかっただけだもん」

「いや、そんなこと言われても」


 流石のマリアもこれには面食らった。

 シラフの彼女なら、こんな台詞は絶対に言わないだろう。

 いや、言うかもしれないがこんな顔では絶対に言わない。


「とにかく、もう寝室に入ってください」


 マリアは急かすように言う。

 就寝するには随分早い時間だが、今夜だけは特別だ。


「……やだって言ったら?」


 酒が入っているせいで妙に色気を含んだ視線を投げてくるロアに、しかしマリアは屈さない。


「聞き分けのないロア様を嫌いになるかもしれません」

「それは勘弁してぇー」


 無駄に泣き上戸になっているロアは、よよよとばかりにマリアの腕にすがった。

 マリアは馴れた手つきでその腕を絡めとり、彼女を引っ張るようにして寝室に向かって歩き出す。


「眠ってしまえば一晩なんてあっという間に過ぎますよ。そのためにお酒を飲んだのでしょう?」

「……うん」


 ロアの寝室は2階の廊下の最奥だ。

 この部屋だけは特別で、他の部屋よりも扉が重厚に作られている。


 その扉の前で、ふたりは立ち止った。


「窓のほうは既に閉めてありますから」

「ありがとう。扉の鍵、よろしくね」


 ロアの寝室の鍵は、外からしかかけられない。加えて内側からは鍵を開けられない、ある意味監獄のような仕組みになっている。

 普段は勿論、そんな鍵などかけることはない。

 この部屋に鍵がかかるのは月に一度、満月の夜だけ。


 月が満ちるこの夜だけは、ロアの中の悪魔の血が人間のそれよりも上回り、吸血衝動に駆られてしまう。

 だから外部との交わりを完全に避けるため、窓を覆い、扉を厳重に閉ざすのだ。


 ロアは部屋の中に入り、マリアと向かい合う。

 少しだけ寂しそうにロアは微笑んだ。


「おやすみ、マリア」

「おやすみなさい」


 いつもの挨拶を交わして、ロアは扉を閉じる。

 そして、マリアは外から鍵をかけた。




 * * *

「ねえクレス、ボルドウの領主ってどんな人なの?」


 マグナス神父の契約魔、サキュバスのリィはソファーの背もたれに脚を乗せて行儀悪く寝そべりながら問いかけた。

 神父はそんな彼女の美脚には目もくれず、分厚い歴史書を読みながら答える。


「綺麗な人だよ、とても。君に負けず劣らずグラマラスだしね」

「何それ。貴方それでも神に仕える神父?」

「君に言われるとつらいね。領主様に興味でも沸いたのかい?」


 マグナス神父は本に目を落としたまま、半笑いで問う。


「あのマリアがあそこまで執心する女ってどんなもんなのかしらって」

「君はなんだかんだでマリアのことがお気に入りだからねえ」

「特別お気に入りというわけではないわ。性格は可愛くないけど、顔は好みなの。私、童貞は遠慮するけど処女は大歓迎❤」


 最後の一言は聞かなかったことにして、マグナス神父は言った。


「マリアがあの領主様に執心するのは、多分似た者同士だからじゃないかな」


 天涯孤独の身の上や、ともに平凡ならざる素性といい、同情し合うのは道理だとマグナス神父は考える。


「ふうん」


 ならばより一層興味が沸くものだと、リィはソファーから立ち上がった。


「こんな時間からどこに行くんだい、リィ」

「それを訊くのは野暮ってものよ、クレス」


 上機嫌なのか、妙に古臭いセリフを残して、リィは部屋の壁を抜けていった。


「余計なことをしなければいいけど。怒られるのは私だからね」


 神父はわりと他人事のようにそう呟いて、また本に目を落とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る