領主と満月の夜 2

 悪魔は普段、霊体である。

 ある種の素質のある人間――悪魔祓いなどには霊体の状態でも姿を感知されてしまうが、一般人になら、悪魔は顕現しない限りその姿は見えない。

 霊体である以上、悪魔はどんな壁をもすり抜けられる。


 よって、リィがクロワ家の屋敷、厳重に鍵を掛けられた領主の寝室に忍び込むことは容易かった。


「ふん、領主のお屋敷っていうからどんなものかと思ったけど、案外しけた部屋ね」


 リィは入り込むや否や、無遠慮に辺りを見回した。

 領主の部屋はこれといって飾り気はない。

 落ち着いた感じの必要最低限の家具しかなく、リィの目に留まる煌びやかなものも特にない。


「まあ別に泥棒をしにきたわけじゃないけど」


 彼女はそうひとりごちて、ベッドに近づく。

 ベッドには一人の女性が仰向けに横たわっていた。


「ふうん」


 リィは品定めをするように、上から下まで、じっくりと彼女を観察する。


 大地の色に近い赤い髪は長く、寝台の上に美しく広がっている。

 人形のように眠るその顔は、静かだが凛としていて、少女にはない、匂い立つような若い女性の魅力を感じさせる。瞼が閉じられているのが口惜しいほどだ。

 呼吸で穏やかに上下する胸元は、マグナス神父の言った通り、確かに見事な山である。


「悪くない。悪くないわ。ふふ」


 悦に入ったリィは、そっとその手を眠れる女性の顔に伸ばし――

 触れそうになったところで、その瞼が開いた。


 閉じた瞼の先にあったのは、赤。

 髪の色よりも真紅の、ガーネットのような赤色だった。


 赤い眼のその人は、リィの手を払い上体を起こした。


「何用だ」


 領主は寝室への侵入者に対し、驚きなどは特に見せていない。


「貴様のせいで穏やかな一夜が台無しだ。償う覚悟はあるのか」


 言葉の通り、ただただ眠りを妨げられたことに対する不満がその眼からは感じられた。

 ただそれだけの理由だというのに、相手を射殺すようなその冷たい視線に、リィは背筋をすくませる。


(――良い。良いじゃないの!)


 リィは怖気とともに興奮を禁じえなかった。

 彼女は嗜虐趣味であり、被虐体質なのだ。


「ボルドウの領主様、いえ、今宵はルナの引力でより同胞に近づいていらっしゃるのかしら? その顔、その眼差し、とっても素敵。満月の夜の眠りを妨げたことは謝罪しますわ。どうぞ罪深き私を屠ってくださいまし‼」


 さあ、と両手を広げるリィに対し、ロアは一層眉をひそめた。

 いくら被虐体質とはいえ自ら的になる馬鹿もそうはいない。普通、誰しもがそう考えて手を出さないのだが、理性的な判断をする余裕は今のロアにはなく。


「煩い女だ」


 ロアはベッドから降りると、リィの細い首を手でつかんだ。

 すると。


「!」


 リィの身体が半ば液体のように溶けて、ロアの身体にまとわりついた。

 そして


「ああ、素敵。素敵な眺め」


 次の瞬間にはなぜか、ロアはベッドの上でリィに組み敷かれていた。

 文字通り、ロアに馬乗りなっているリィは蕩けるような笑みを浮かべて言う。


「名乗るのが遅れて申し訳ないわ、領主様。私はサキュバスのリィ。好きなものは男の欲望と乙女の恥じらい。本来得意なのは人間の夢に潜り込むことだけれど、こうして生身で遊ぶのも大好きよ」


 対するロアは非常に冷静に横たわっていた。

 ただし、リィに向ける視線は相変わらず冷たく鋭い。


「そんな眼で見ないで、ゾクゾクしちゃう。今夜は貴女がどんな人なのか、夢を覗くだけのつもりだったんだけど、貴女が想像以上に素敵だったからつい手が出ちゃった❤」


 リィはそう言って、つ、と人差し指でロアの喉元をなぞる。

 ロアの喉は微かに震え、鳴っていた。


「貴女が今、どれだけ血に飢えてるか私には分かるわ。その冷たい表情で押し隠しているけれど、本当は血を吸いたくてしょうがないんでしょう?」


 リィの言う通りだった。

 目が覚めた時からロアの喉はカラカラで、魔としての本能が生き血をこれ以上ないほど欲している。

 今夜の状態だけで言えば、その吸血欲求は人間の三大欲求にも匹敵する。逆に言うと睡眠欲で抑え込んでしまえば、比較的楽に一晩を過ごせたはずだった。

 だからこそ眠りを妨げたリィに対してここまで冷たい視線を送るのだ。


 リィはその刃物のような視線すらも愉しむ。


「可哀想な領主様。私の血で良ければ差し上げるわよ? ほーら」


 リィはロアに顔を近づけて、自らの首元を彼女に寄せる。

 柔らかそうな肌が、透ける血管がロアの視界に広がった。


「やん!?」


 ロアは再びリィの首を捕まえて、自分の身体から引きずり下ろした。

 そして逆に馬乗りになり、彼女を押さえつける。

 その表情は既に冷たいものではなく、赤い眼には血への欲求のみが映し出されていた。


「本当に素敵。まるで獣みたいね領主様」

「黙れ」


 ロアがそうして、リィの首に顔を寄せたその時。


「――ロア様」


 朝にならない限り開かないはずの扉が勢いよく開いた。

 開けたのは勿論、鍵を預けられたこの屋敷でただひとりの女中だ。


「そのような不純物、口に含まないほうがよろしいかと」

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