第2幕 領主と満月の夜
領主と満月の夜 0
冬の訪れを感じさせる風の中、少女は宵闇に忍ぶようにその建物の扉を開けた。
屋内に入るや否や、少女はそこにあるものに敬意を払うようにローブを脱ぐ。
ランプの灯りを受けてぼんやりと輝き浮かぶ、慈悲深い表情の聖母のステンドグラス。
片田舎の古びた礼拝堂だが、その美しさには毎回目を奪われるものがあった。
その真下、祭壇の前には当然のように黒のカソックを纏う男が立っていた。
細身で、無駄のない優美な立ち姿のその人こそ、この礼拝堂の主だ。
「やあマリア、呼び出してすまないね」
すらりとした立ち姿とは相反して、男の声は少し幼くも聞こえる、優しい声だ。
いかにも人畜無害そうな、丸眼鏡をかけたその男はまだ年若い。
「謝るぐらいならわざわざ呼び出さないでください、お師匠様」
マリアは少しだけ不機嫌そうに彼を見た。
「相変わらず師に対しても辛辣だね。だって君は日中、女中業で忙しいだろう? 私もいろいろと忙しい毎日だしね」
そう言って彼――クレセント・J・マグナス神父は手近な椅子に腰かけた。
マリアも倣って近くの椅子に座る。
「わざわざ呼び立てたのは言うまでもない。君達に依頼があってね」
「依頼? 教会本部からということですか?」
教会とは、マグナス、マリアら悪魔祓いを統率する組織の俗称だ。
正式な組織の名称はもっと厳かで長いのだが、誰もが「教会」と呼ぶ。この国の悪魔祓いのほとんどがこの教会に属しており、本部は首都ロンディヌス領の離島にある。
「首都の吸血鬼の噂は知っているかい?」
「……既に複数の婦女の血を吸いつくしている悪鬼と存じていますが。それが何か」
「うんうん、冷ややかな視線ありがとう」
視線のみならず、マリアの言葉には「犠牲者が複数出ているというのに首都の悪魔祓いは何をしているのか」という棘があった。
さらに。
「まさかとは思いますが、首都の吸血鬼退治を私たちにやれと仰るのですか? 無理ですよ、自殺行為です。ただでさえ人の多いところは彼女にとって面倒なのに」
「言うと思ったなー、マリアちゃんはそう言うと思ったなー」
「でしたら無駄な依頼など引き受けないでください。お師匠様が行けばいいじゃないですか、そこで覗き見している悪趣味な悪魔と一緒に」
マリアはちらりと祭壇の上に視線をやる。
そこには、先ほどまでは姿を見せていなかったものが堂々と座っていた。
女性的というより蠱惑的な体躯。羞恥心など存在しないかのように、まるで下着のような、もっと言ってしまえば局部しか隠していない――ごく僅かの布面積の衣服を纏う女。
彼女は藍色の長い髪と黒い尾を持っていた。
「相変わらず小さいのに威勢の良いコト。これは覗き見じゃなくて立ち合いよぉ、だって私は貴女のお師匠様の、契約魔だもの」
わざと舌を巻いてねっとりと喋る女の声に、マリアは不快感をあらわにする。
彼女とは古い知り合いにはなるが、どうもマリアは好きになれないでいた。
さもありなん、彼女はまさに悪魔祓いが敵対すべき悪魔――それも潔癖な人間ほど忌み嫌うサキュバスなのだから。
「お師匠様、まだあの女と手を切っていなかったのですか。物好きにも程があります」
「まあそう言わないでくれよ、マリア。これでもよく働いてくれる良い子なんだよ」
「そうよぉー、クレスの数いる契約魔の中でも私は古株中の古株なの。信頼は厚いの☆」
くね、と腰のあたりを曲げて、無駄にウインクとピースサインを投げてくるサキュバス。
マグナス神父には彼女のほかにも多数、契約している悪魔がいる。
勿論それはかなりの偉業であり、同時にひどい異端でもある。
小さな動物の使い魔ならともかく、完全な悪魔と主従契約を結ぶ悪魔祓いはそうはいない。それもここまで複数となれば、変わり者の多い同業者にすら気味悪がられるのは当然だ。
教会の中でも彼は随分と浮いた存在で、だからこそこんな片田舎に派遣、もとい隔離されている。
「とにかく、その依頼は受けません。そもそも私たちはボルドウを動けません。領主が領を空けるなんてできませんから」
「詭弁ねマリア。数日くらいなら問題ないでしょうに。そんなにその領主様が大事なのぉ?」
「無論です。でなければ私が今もあの屋敷にいる必要はないのですから」
「やだやだ、惚気? クレス、彼女はこんなだし諦めたら?」
「うーん、まあ、今のところは前振りの段階でね。本部は吸血鬼には吸血種をぶつけたい意向らしいんで、君たちに白羽の矢が立ちかけているところなんだけど」
「お師匠様の力でどうにかしてください。私はもう帰ります」
マリアはそっけなくそう言って、来訪したばかりだというのに早速踵を返した。
その小さな背中に神父は声を掛ける。
「マリア、お茶ぐらい飲んでいきなよ」
「結構です。今夜は満月なので、はやく戻らなければ」
ああ、そうだったね、と神父は呟き、
「もう慣れているだろうけど、気をつけなさい。吸血種は特に、ルナの引力には抗えないからね」
去っていく彼女に、神父はあくまで優しい声でそう忠告した。
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