第23話

 暫くの間、ホンファは魂を奪われたように全く動かなかった。が、突然、


「ごめんなさい。殺さないで。何でもするから」


 と、泣きそうな声で呟いて、中断していた行為の続きをしようとし始めた。触れている彼女の体から震えが伝わった。もうそんな雰囲気であるはずもないのに、彼女は俺に奉仕しようと必死だった。


 漸く事情が飲み込めてきた。俺は一度大きく深呼吸すると、努めて冷静を装って優しく言った。


「俺じゃないよ、ホンファ」


 その一言を聞いて、ホンファは突然春先の驟雨のように激しく泣き出した。そうして皮肉なことに俺はやっと、雑念に囚われずに彼女を純粋に抱きしめることができた。その肩幅の小ささに改めて驚きつつ、さっきまで気にも留めていなかったホンファの髪の、いつか友達の誰かが俺に自慢げに見せてきたアジアの土産物の香木のような甘い香りが俺の鼻をくすぐるのを心地良く感じた。子供を抱きつつ母親に抱かれているような、奇妙で尊い時間だった。ホンファにとってもまたそれは同じだっただろう。俺たちは互いの温もりと呼吸だけで会話をして、この死と絶望を運ぶ船の中で最も得難い、相手への、そして相手からの真の信頼を得たのだった。


 ひとしきり泣き終えると、頬を拭ってホンファは言った。


「ごめんなさい。あなたしか犯人はいないと思ったの」

「俺もついさっき君が犯人だと思ったよ」

「そうね。私でもそう思うわ」


 俺たちは笑い合った。おかしさよりも安堵がそうさせた。そのあと急に真面目な顔になると、ホンファは言った。


「知って欲しいことがあるの。説明するより見たほうが早いわ」


 起き上がって服を着ようとして、彼女は止まった。


「やっぱり続きをしましょうか。緊急事態には違いないけど、命より大事な時間だってあるわ」


 十秒ぐらい考えていただろうか。人生で一番悩んだ十秒だったかもしれない。


「……とてもそんな気分じゃないよ」

「私ってそんなに魅力がないしら。それとも、まだデイジーを愛しているの?」


 そう言ってホンファは俺に背を向けて服を着出した。俺は何も答えなかった。



 エラディオの部屋で、シェーンが血塗れで倒れて死んでいた。首が大きく切られており、死因は失血死だろう。エラディオの死体に刺さっていた金属片が彼のそばに落ちていて、それで首が切られたのだと思う、ホンファと言った。彼女はそれ以上言わなかったが、俺に向けられた金属片に血が付いていなかったことから察するに、一度洗面所にでも行って洗ったのだろう。血塗れの凶器は隠しにくいとはいえ、俺を殺すために二人の命を奪った凶器を洗う彼女の姿を想像すると、複雑な気持ちになる。


 遺体の左側に、Fで始まる四文字の血文字が残されていた。シェーンの左手の人差し指にはちゃんと血も付いており、いかにも彼が死に際に書いたように見えた。


「自殺に見えなくもない……な」

「ええ。でもこの状況でそれはあり得ない。だから最後に残ったあなたが犯人――そう思ったの」


 ドアを調べたが鍵が壊されたり細工されたりしたような形跡はなかった。次にシェーンの死体をくまなく調べたが、特に不審な点は見つからなかった。最後にエラディオの死体も調べて、腹の切創以外、エラディオの死体が綺麗なままだということに気付いた。


「食えなかったんだ」


 まだ食べていなかっただけ、ということも可能性として考えられたが、直感的にそうではないと思った。


「初めは本当に死体を食べるつもりだったのかもしれないけれど、いざ人の死体を目の前にして、どうしても食べられなかったんだ。そして彼の精神は追い詰められていったのかもしれない。ドアは開けたくない、隣には死体。その状態で一週間。彼はそれを想像して耐えられなくなった」

「でも、死ぬくらいなら、ドアを開けたほうがましじゃない?」

「彼は人一倍臆病だった。いつ次の犠牲者になるかと怯えながら一週間過ごすより、いっそ自分で命を断った方が楽だと思ったんじゃないかな。そもそもこれが他殺なら、この状況で自殺に見えるような偽装工作なんて必要ない。それに鍵が壊されずに開けられていたのも不自然だ。あんなに頑なだったシェーンが自ら鍵を開けて、それで犯人にまんまと殺されてしまったなんて考え辛い。闘った形跡も見当たらない。これは自殺だよ、ホンファ。シェーンが死ぬ前に自ら部屋の鍵を開けたのは、きっとこのダイイングメッセージを犯人に見せるためだよ」


 ホンファは何も言わなかったが、悲しそうにシェーンに向けられた目は、俺の推理に同意したことを示していた。


「いつかアンドロイドが言っていた。感情は最適な選択をするための障害にしかならないって。確かにそうなのかもな」


 そのとき、地面が揺れた。地面じゃない、船だ。立っていられないほどの勢いで船は動いた。船は加速していた。


「緊急事態です! 共有スペースに!」


 驚くほど大きなライアンの声が共有スペースの方から響いた。彼もまた生体であるがために休息をとっていたが、人間には致命的なほどの勢いで覚醒したらしい。足場の加速と格闘しながら、俺たちは共有スペースへ急いだ。


「シェーンは自殺していたよ」


 俺がライアンに告げると、ライアンは短く作り物の弔意を表し、そのあとに語った。


「モノリス号が針路から外れています。私の頭の中のセンサーによるとあと一時間この加速を続けると火星にも地球にも帰れず宇宙空間を漂流することになってしまいます。この船は減速用の燃料の他にあまり余分な燃料は搭載していないんです」


 ライアンは先ほどの大声とは打って変わって落ち着いた表情になっていた。それはどこか緊急時に人間が人間だからこそ持ち得る泰然さに似ていて、親しみすら覚えた。


「なぜ船が現在加速しているのかは分かりませんが、船の加減速は操縦室でしかできません。これも一連の事件の犯人の仕業かもしれませんが、とにかく我々が生存するためには操縦室に行くより他ありません」

「全員で走る……しかないか。しかし、この状況じゃ、もし誰かがロボットに襲われても、助けようとしないで船長室に行くくらいの覚悟でないといけない」


 その俺の言葉はホンファ一人に向けられたものだと気付いて彼女は苦い顔をしたが、反論はしなかった。


 ライアンが言う。「ええ、加えて言えば、私が最大限囮になりますが、万が一お二人のどちらかがロボットに襲われた場合、襲われた方を見捨てます。その方がより確実に生存者が出る確率を上げられるからです。それともう一つ厄介なことがあります。船の加減速は船長代理にしかできないため、承認を得るためにに火星との通信が必要です。それに更に約四分かかります」

「また通信か。そりゃ一般人が勝手に船を動かせたらまずいよな」

「それでは、操縦室までの道のりを、簡単ですが覚えてください。一分間で」


 ライアンがオムニポーターでモノリス号のホログラムを映し出した。かつて食料庫への道のりが示されたのと同じように赤の動線が操縦室までの道のりを映し出す。途中までは前と変わらず直進で、今度は階段を二階上に上がる。そのまま、また直進したら操縦室のドアに辿り着く。ライアンの言う通り簡単だが、何度も脳内でイメージトレーニングを繰り返す。暫くしてライアンはホログラムを消した。


「シャッターを上げて二つのドアの電子ロックを解除したら走ります。操縦室と船長室は直結しており、水は船長室で確保できるので、ここに帰ることは放棄して再度の電子ロックは掛けないことにします。電子ロックを掛ける数秒でも危険度が上がりますから。それから、最後になりますが、操縦室のドアにも電子ロックがかかっており、四桁の数字で開きます。7901。7901。命に関わる数字です。絶対に忘れないで下さい」


 電子ロックの解錠コードを最後に俺たちに教えたのは人間の忘れっぽさを考慮してのものだろう。7901。絶対に忘れてはいけない。ふと、解錠コードが変えられている可能性が頭が過ぎったが、言うのを止めた。そうしたら、もう為す術はない。


「7901。そろそろ行きましょう。残された猶予時間については誤差がある可能性があります。早ければ早いほど良い」


 俺たちは再びあの、居住区域と船内を隔てたドアの前に集まった。そこら中に撒かれたエラディオの血はまだ完全に乾いてはいなかった。幾つもの血の衣擦れ跡が、俺たちの悲しみの残滓をまだそこに留めていた。


 ライアンが操作盤を操作してシャッターを上げ、二つのドアを続けて解錠する。

 目の前にロボットが居ないことに安堵して、俺たちは走った。相変わらず続いている船の加速のせいで足場が悪く全力疾走はできないが、慣れればエスカレーターを逆走するよりは簡単だ。――人生で一回しかしたことはないけど。

 俺が停止したロボットは廊下に転がったままだった。そのまま突き進む。階段を上りきって操縦室のドアが見えてもロボットは見えない。俺たちはまた全力疾走する。ドアにたどり着き、俺は電子ロックのパッドを操作して、7901を押した。ドアが開いた!


 ホンファが通ったあと、ライアンはドアを閉めて念の為に解錠コードを変えた。新しい数字は1199。一時的なもので、すぐにまた複雑なものに変えると彼は言った。


 俺の全身が脈を打っていた。命の危機は去ったというのに体はまだ生き延びようと必死だった。落ち着こうと俺がフウっと大きく深呼吸をすると、ライアンが叫んだ。


「安心するのはまだです、クリアリングをしてから!」


 操縦室は十メートル四方はあるかもしれない広い部屋で、深呼吸をしたくらいだからもちろん敵は見当たらず、敵の隠れられそうな場所もない。だが右手に階段があって、ライアンはその階段を慎重に降りていった。帰りを待っていた時間はかなり長く感じたが、実際は数十秒といったところだろう、ライアンは再び階段を上がってきて、笑顔を作った。


「問題ありませんでした。火星との通信を開始しましょう。船長代理はどちらがなりますか?」

「私は柄じゃないから、ロビンにお願いするわ」

「そうかい? おそらくもう一生こんなチャンスないぜ?」

「興味ないもの」

「まあ、譲り合ってても仕方ないな。じゃあ、俺がなるよ。と言うか、操縦室に来る前に決めておけば良かったんじゃないか、ライアン?」

「そうしたら生き延びたあとの楽しみが減ってしまいますから」

「なるほど。意外と電子頭脳の方が最後までジョークを忘れないもんなんだな」


 俺たち三人は大いに笑った。

 船長代理を事前に決めることの無意味さに気付いたのはそのあとだった。

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