第22話
子供のデイジーが、俺の隣に居た。俺は一度も経験したことのないはずの学校の教室に居るのだった。
算数の授業をしていた。先生が足し算のやり方を教えているのに、俺は酷い空腹を感じて勉強どころじゃなく、ついには腹が鳴り出した。
「あら、ロビン、お腹が空いているのね、可哀想」
デイジーは俺の腹の音を聞いていたらしい。
「お料理作ってあげるわ、何がいい? ステーキと、栄養バランスを考えてコンソメベースの野菜スープはどうかしら」
いつの間にか教室は台所に変わっていて、デイジーが料理をし始める。そんなデイジーを見て、周りの奴らは意地悪くからかった。
「デイジーはロビンと結婚するつもりだぞ! あのロビンなんかと!」
俺はクラスの中でも最底辺、落ちこぼれの中の落ちこぼれ、対してデイジーは美人でクラスのマドンナ的存在だ。釣り合うわけがない。しかしデイジーは気丈に宣言する。
「できれば結婚したいわ。私はロビンを愛しているもの」
周りの奴らが笑う。
「嘘だろ、あのロビンを! まだ犬と結婚した方がましだ!」
そのうちの、特に底意地の悪そうな一人がにやにやと俺に向かって尋ねる。
「おい、ロビン、お前はどうなんだ? 二人はもうキスしたのか?」
俺は子供ながらに俺のせいでデイジーがからかわれていることを申し訳なく思い、わざと冷たい言葉で言い放つ。
「誰がこんな女なんかと。俺は嫌いだ!」
デイジーはそれを聞いて悲しさを押し隠すように苦笑いをした。
いきなり場面が変わって、俺はバーにいる。一緒に飲んでいるのは見たことがない顔だが、どうも昔からの友人らしい。俺たちは誰それが結婚しただの、誰それに子供ができただのと、身内話で盛り上がっている。
「そういえばデイジーはどうなったかな」
「デイジー? ああいたな、そんな娘。お前を好きだっていつも言ってたな」
「何か聞いてないか?」
「何かも何も――、本当に知らないのか、お前」
「何だよ、もったいぶって」
「彼女は自殺したよ。詳しくは聞いていないが、夫が酷い男だったらしい」
俺はそれを聞いて目の前が真っ暗になるほどに深く強く後悔する。
気付くと何故か俺は子供に戻っていた。不思議な現象だが今はそれにかかずらっている暇はない! 俺は過ちを正さなければならない!
目の前にあった鉄くずと変わらないようなボロの自転車に乗って、俺はデイジーの家に向かう。昔から知っている、あの愛しのデイジーの家!
息を切らして、俺はデイジーの家の玄関のドアをノックした。
コンコンコン。
それは、俺の部屋のドアがノックされた音だった。
「私です。チョウです」
どれくらい寝ていただろう。ブランドンのことがあって精神的に限界を迎えた俺たちは、自室に戻って鍵を掛けて休むことにした。疑念や不安が絶えず頭を巡って苦しんでいたはずなのに、いつの間にか恐ろしいほどぐっすりと寝ていた。腹は相変わらず減っていたが、睡眠のおかげで気力はいくらか回復した感じがする。見ていた夢はもう思い出せなくなっていた。
ドアの鍵を開けようとして、手が止まった。もし万が一、ホンファが犯人だったとしたら。ロボットと一緒に俺を殺そうとドアの前に立っていたとしたら――。念のため、俺はドア越しに聞いた。
「何かあった?」
「ちょっと会って話がしたいの。……一人じゃ落ち着かなくて」
「……俺が犯人かもしれない」
「まともな話し相手が、もうあなたしか居ないのよ」
確かにシェーンは食人を厭わないような人間だし、ライアンはアンドロイドだ。それに直前に彼女と少しだけ打ち明けた話をしたことも考えると、会話をしたいという彼女の言葉がそれほど不自然とも思わない。
ドア越しで構わないか、と言おうとも思ったが、仮に彼女が無実ならそれは冷たすぎる対応だし、それに冷静に考えてみれば俺を襲うなら会って話したいなんて警戒されそうなことを言うよりも、悲鳴を上げて俺を部屋の外に出させるとか、もっといくらでも良い手はあるはずだ。思い切ってドアを開けると、はたしてホンファが一人で立っていた。
「ありがとう。入ってもいい?」
「いいけど……」
ホンファはすっと部屋に入ってきて、まるで巣に帰る蜜蜂のように自然に俺のベッドの上に座った。
「念のため鍵をかけたいのだけど、いいかい?」
ホンファが頷いたので、俺はドアの鍵をかけた。このシチュエーションなら彼女の隣に座るべきかと思ったが、一定の距離を保ったほうがいろいろな意味で安全だろうと考え直して、部屋に一つだけある椅子に座った。
「この椅子、固いけど軽くて良いよな。火星に入ったら同じ椅子買おうかな……」
当たり障りなく会話を始めようとする俺に構う様子もなく、ホンファはいきなり服を脱ぎだした。
「おい、一体……」
「こんなときだから、楽しみましょう。もういつ死ぬかも分からないんだから」
みるみるうちにホンファが裸になっていく。おれは呆気にとられて絶句していた。
「私を怪しんでるのね。大丈夫よ。文字通り丸腰。何かあっても男のあなたなら力で勝てるでしょ」
「だけど……」
「ストレスを解消するには結局これが一番なのよ。アフターピルを持っているから大丈夫。愛について悩むあなたを見ていて、なんだか慰めてあげたい気持ちになったの。母性本能なのかしらね」
ホンファは寄ってきて俺に優しくキスをした。そして俺の膝に座って俺の右手を自分の胸にあてがった。柔らかい感触がじわりと理性をとろけさせる。
もう流されてしまおうと思った。二人でベッドに移って、二度目のキスをした。ホンファは積極的だった。まるで獣のように俺の上着を脱がして今度は俺の首筋に何度もキスをしてきた。
精神的に病むほど性欲が強くなるという噂がある。ホンファがちらりとしかけた自身の不幸が彼女が病むに十分なものだとしたら、彼女の行為は見かけより自然なのかもしれない。いや、順序が逆で、彼女のこの破滅的な積極性が不幸を呼んでいるのかも。この船の乗客は地球に居場所がないのではないかというエラディオの言葉を思い出して、悲哀と同情を感じながら俺は彼女の髪を撫ぜた。
ふと、失禁を恥じていたホンファの姿がフラッシュバックしてきて、彼女の性格の二面性に激しい性的興奮を覚えた。今の彼女にはなんの恥じらいもない。船長の死体に怯え、震えていたことが嘘のようだ。……。
俺はホンファにお返しのキスをしながら、彼女の行動を思い返していた。彼女は”不幸なことに”どの乗客より先に船長の死体を見るはめになった。そして同じく”不幸なことに”彼女が転んで立てなくなったため、ロボットに襲われてエラディオが死んだ。
ホンファは俺のズボンと下着を脱がし、俺に馬乗りになった。性欲に邪魔をされながら、俺は必死に考える。エラディオに金属片が刺さったのは、ホンファがロボットの腕を掴んで止めてからだ。それは一見、自然に見える行動だった。だが、もし犯人がロボットの『人を殺してはいけない』という絶対的な規則まで書き換えることができなかったとしたら。自分でとどめを刺すしかないのではないか。
馬乗り――、その行為に虫の知らせのような、妙な恐怖を覚える。なぜだ? そうだ、エラディオの話だ。エラディオが息子のように可愛がっていたルカは、彼の元妻アンバーに、馬乗りになられて殺されたのだ。性行為のあとだった。その、まだ幼い小さな肉体に、肉切り包丁を振り下ろされて――。
すんでのところで、俺は振り下ろされるホンファの右腕を掴むことができた。彼女の右手にはエラディオの命を奪った金属片が握られていた。おそらく衣服のどこかに隠していたのだろう。いきなり服を脱ぎ出したのは、そのことを悟られないためだったのかもしれない。
とにかく俺は夢中でホンファから金属片を奪い取った。
ホンファは暴れはしなかった。俺の顔を見て、驚いたような不思議そうな顔をした。
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