第21話
ライアンが一人で帰ってきた。
「到着しました」ライアンが手に持ったオムニポーターに囁くと、機械からブランドンの声がした。
「やあ、全員揃っているか? 声を聞かせてくれ」
「チョウです」
「ロビンだ。シェーンはまだ篭っている」
「だろうな。これから作業を開始するが、全員お互いを見張って、そこから動かないようにしてくれないか。ドアをロックされたり船体と宇宙服を繋ぐワイヤーを切られたりしたら帰って来られなくなるから」
「分かった」
「では、船外に出る」
ゴウ、というハッチを開けて空気が勢いよく真空に逃げる音がしたあとに、暫くフウフウというブランドンの吐息だけがスピーカーから響いた。次にスラスターの音らしきノイズがしたあと、ブランドンは急に笑い出した。
「すげえよ、これは。言葉で何と表現して良いか分からない。全面が宇宙だ。まるで神に包まれているみたいだ。感動だよ。宇宙旅行には必ず宇宙遊泳のオプションを付けるべきだ。少しの命の危険なんてどうでもいいくらい、この景色は価値が有るよ」
童心に返ったよう、というより、彼の心の片隅に眠っていた童心が、ガバリと飛び起きて彼の心の全てを包んで飲み込んでしまったようだった。
スピーカーから聞こえる彼の声が野太くなかったら、俺はその笑い声の主を少年だと思ってしまうだろう。そしてその声は外の世界をあまり体験できない少年時代を過ごした俺の心を悲しいくらいに擽った。
「宇宙。ずっと夢見てたんだよ。嘘みたいだ。俺、子供の頃は弱っちくて泣き虫で情けないガキだったんだよ。だけど、宇宙のことを考えるときだけそれが忘れられた。この無限の奥行きの闇の前では、どんな存在も平等に無価値になっちまう。それに怖れ、憧れていたんだ。どんなに科学技術が進んでも、この宇宙遊泳だけはまだ限られた人間にしか経験できないって、半ば諦めていたことだった。だから火星行きのチケットを買って、少しでも宇宙を体感できればって……。くそ、こればっかりは、犯人に感謝だな」
ブランドンが奇策を思い付いたのはきっと偶然ではないのだろう。彼の抱いていた少年時代の夢は、無意識下で彼に何かを囁いたに違いない。
「個人の自由だから楽しむのは止めないけど、酸素の残量は見てくれよ」
「そうだな、すまない。はしゃぐのは火星との通信が終わってからにしよう」
ガガ、とスラスターの大きな音がした。
「やっべえ!」
「どうした?」
「いや、スラスターを噴射しすぎたんだ。案外使い方が難しいな」
今度はガ、ガ、ガ、と小刻みにスラスターの音がする。姿勢と進行方向を調節しているようだ。
「大丈夫そうか?」
「問題ない」
ふと横を見ると、ホンファが顔の前に手を合わせて祈っていた。それはまるで皮肉のようにすら俺には映った。スピーカーから聞こえるブランドンの息の変則的なリズムは、彼が明らかに滅多に体験できないアトラクションを楽しんでいることを示していたのだから。暫く経って、ブランドンが言った。
「アンテナに到着した。中継機は……これだな。よし。これから火星と通信を開始する。チャンネルを切り替えるぞ」
スピーカーがプツリと途切れた。
「うまくいきそうだな」
俺の言葉に、ホンファがこくりと頷く。ホンファには笑顔が戻っていた。ホンファだけではなく、俺も、ライアンでさえ笑顔を作っていた。それは気の遠くなるように長かったこの何時間の中で初めて見えた仄かな希望だった。
やがてチャンネルが元に戻り、ブランドンが俺たちに話しかけた。
「送信したぞ。あとは数分待つだけだ。おっと、しまった」
「どうした?」
「ワイヤーが俺の体を一周している。ん? 何かに引っかかっているのか? いや、大したことないんだ。腕は動くし、気持ちが悪いというぐらいなんだが。ああそうか。一度ワイヤージョイントを外せば良いのか」
「おい、無茶はするな」
「大丈夫さ。ちょっと外して付け直すだけだ」
次の瞬間、爆発音に近い音がした。ブランドンが叫ぶ。
「スラスターが暴発した! どうなっているんだ? くそ、スラスターが反応しない!」
あり得ないタイミングだ。遠隔操作なのか? とにかくそれが細工されたものに疑いの予知はなかった。
「落ち着け、ブランドン! 状況を教えてくれ。ワイヤーは外してしまったのか?」
「どんどん船から離れていく! ワイヤーは外してしまった。景色が回っている、激しく回転しているんだ。馬鹿なことをした、ちくしょう!」
「ライアン、何か手は? そうか、宇宙服はもう一つあったな。彼を助けに行かなくては!」
ライアンが冷静に答える。
「ハッチがまだ空いているはずです。外に出るためには一度閉め直して空気を再充填しないといけませんが、それに数十秒はかかります。それでスラスターを全開にして助けに行っても、おそらくもう間に合いません。何よりスラスターの暴走は事故ではなく意図的な工作によるものの可能性が高いです。もう一つの宇宙服にも同じ仕掛けをしてあると考えるのが妥当です」
「助からないってことだな」
オムニポーターから、ブランドンの悟った声が聞こえた。
「もうモノリス号がかなり小さくなっている。そっちから見ればきっと俺は砂粒みたいに小さいだろう。探すだけでも一苦労なのに、助けるとなると絶望だよ。残念だ、空気はあと一時間近く保つのに」
「空気が保つならなんとかなるかもしれない。ライアン、可能性が低くても試すんだ! アンドロイドは人間のために存在しているんだろ? それとも、こんなところで命を捨ててはいけないと犯人にプログラムされてるのか?」
「いいや、来るな。ライアン」
距離が離れて電波が弱くなっているせいで、ブランドンの声にはノイズが多くなっていた。
「理解してくれ、ロビン。ホンファもな。ライアンが無実のアンドロイドなら、こんなところで失っちゃいけない。反対にライアンが裏切り者なら、俺の救出は絶対に成功しない。どっちにしても終わりだ。まあ、俺らしいと言えばらしい最期だ。良い死に方だよ。ぐるぐる回っていなければもっと良かったんだが」
「諦めるな、もしかしたらまだ何か手が――」
「やめてくれ、希望を持たせないでくれ。ノイズがどんどん酷くなっている。もうすぐ通信できなくなるだろう。皆、生き延びろよ。こんな仕打ちを俺にした犯人は憎いが、半分は俺の馬鹿が原因だし、死に方も悪くない。とにかくお前らは生きろよ。通信はこれで切らせてくれ。どんどんノイズが大きくなるのがじわじわと首を絞められているみたいで耐えられない。じゃあな」
通信が途絶えた。呆気無くて嘘みたいだった。それからブランドンと通信をすることは二度となかった。
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