第3章 混乱の中で
第20話
ホンファの言葉を聞いて、ブランドンは「なるほど」と言った。目から鱗が落ちたように、そして、暗闇の中に一筋の光明が見えたというように嬉しそうに。
急に目の前の空間が歪んだ気がした。ついさっきまで、俺たちは猟奇殺人事件に立ち向かっている同士のような気がしていた。
それが。
「冗談、だよな」
もちろん、冗談でないことは分かっている。口から出た俺の声は驚くほど震えていた。
ホンファが真顔で答える。「冗談? どうして? 生で食べるのは確かに抵抗があるけど、この状況では仕方がないでしょう?」
「生体型アンドロイドの肉は人間と同じなんだぞ」
「そうだけど、でも人間じゃないですよ?」
ホンファが、おかしなことを言っている人間を見る目で俺を見つめる。
俺はあの刑務所での精神科医とのやりとりを思い出していた。この未来では、生体型アンドロイドを食うこと自体は嗜好の範疇――。
「ホンファ、こいつはデイジーを失うと思っているんだよ」
ブランドンが横から割って入った。
「そしてそれは正しい。ライアンはエラディオが襲われたとき必死で抵抗していた。もちろんそれが演技だという可能性も捨てきれないが、いざというときに文字通り身を挺して俺たちを守ってくれるかもしれないということを考えると、まだ生かしておきたい。対して、足を折られたデイジーはもう戦力にカウントできない。食べるなら役立たずのデイジーからだ」
「私もそう思います。男性の肉より女性の肉の方が柔らかそうだし」
「決まったな。多数決。民主主義だ」
身震いが止まらなかった。激しい嫌悪感で吐き気がした。
目の前のこいつらは、こいつらは、何だ?
俺はデイジーの方を見た。
デイジーはもちろん生身の女みたいに自分の命を守ろうとはしない。彼女は、人間の命を救うどころか、人間の身勝手な欲望を叶えるためにすら喜んで命を差し出す。そう創られた存在だし、それが彼女の存在意義だ。だが、俺を見つめ返す彼女の目に、”生きたい”という思いがこもっているように感じるのは気のせいだろうか?
「待て。誓う。俺は犯人じゃない。だからデイジーも操られてはいない。操られているかもしれないライアンを残すより、怪我をしていても信用できるデイジーを残した方が有益だ。デイジーの人工知能は使える」
「残念だが、同意しかねるな」
ブランドンの言葉に、ホンファも頷く。
「私も。デイジー本人はどう?」
「私の中では私の信頼度が高いため、私を生かした方が良いと結論しています。ですがライアンを生かすことの危険度は皆さんの決定を拒否するほど高くはないと考えるため、私は皆さんの決定に従います」
デイジーは俺の方を向いて、俺だけに語りかけた。
「いつもならロビンの意見を優先したいんだけど、この緊急時ではそれは無理なの。だから聞いて、ロビン。体が死んでも、私の人工知能は予備電源で72時間は生き続ける。それが過ぎれば記憶がリセットされてしまうけれど、その間私は確かに生きているのよ。額のルビーには簡易カメラとマイクも付いてるから、あなたの行動も分かる。ちゃんと見てるから。だからあなたも食べてね、私のこと。そうすることで生き残る確率が高まるのだから」
デイジーは途中から涙を流しながら必死に俺に訴えていた。魂の叫びだった。アンドロイドらしくない、人間めいた、愛の遺言だった。
この場の人間たちへの怒りがふつふつと沸いてきたが、刑務所でアンドロイドを守るために人を殺してしまった男のことを思い出して、その怒りを押さえ込んだ。苦悩と躊躇と諦念の混沌の中で、俺は言うしかなかった。
「分かった。だが俺の見えないところでしてくれ。頼むから」
ブランドンが頷いて、俺に感謝の意を示す。「辛い決断をさせてすまなかったな。……シェーンの部屋が空いているから、あいつの部屋を使おう。あんたも気持ちの整理がついたら来てくれ、ロビン。デイジーもそれを望んだのだから」
「あの、私も食べてよろしいでしょうか?」
ライアンが尋ねると、ブランドンとホンファは顔を見合わせて頷いた。
そうして足が折れているデイジーはまるで獣みたいに四つん這いになって、三人の後ろについて通路の向こうに消えていった。
殺されて、食われるために。
ぐちゅぐちゅ。がつがつ。
デイジーを食べる音が聞こえる。俺の居る共有スペースからシェーンの部屋までの距離を考えると幻聴かもしれない。だが確かに聞こえる。気が狂いそうだった。ずっと叫んでいたかった。トイレに行って何度か吐いたが、それでも耳の傍で肉を食う音が止まなかった。
やがて三人が帰ってきた。彼らは揃って不気味に何も語らなかったが、その表情からは食欲が満たされたことによる満足感が漂っていた。それが憎らしくて怖ろしくていたたまれず、自分の部屋に帰ろうとしたら、ブランドンが俺を呼び止めた。
「話したいことがある。あんたのデイジーとは関係ないから安心して聞いて欲しい」
俺は渋々ソファに戻った。
「発想を柔軟にするって考えていて思い付いたんだ。ライアンは船内の通信に船長か船長代理の許可が要る、って言ってただろ。で、船長代理になるには船長室に行って地球か火星と通信しなきゃいけない――と、思い込んでいたが、他にも手段があることに気が付いたんだ。居住区域の奥に非常用の宇宙服が二つあるのを知っているか? あれで船外に出て、船外のアンテナと宇宙服のマイクを直接繋いで使えばいい。船長室の機材も結局はそのアンテナを使って外部と通信しているんだ」
「……なるほど。だが、規格が違うとかそういう問題はないのか?」
「それについてはライアンに聞いて問題ないことが分かっている。もちろんリスクはある。何らかのミスでそのまま宇宙空間をずっと彷徨うことになりかねないし、マイクの音声だけで管制官に信用されるかどうかも分からない。ロボットの頭の中の通信機が破壊されていれば、全くの無駄骨に終わるしな」
「私もブランドンさんの案を選択肢として考えてはいたのですが、リスクに比べて得るものが少ないと思い却下していたのです。選択肢を提示しなかったのは人間の思考の非合理性を考慮してのものでした。おそらくデイジーも同じだったでしょう」
デイジー、という名前を出したことで他の二人がライアンを睨んだが、俺自身は動揺せずに聞いていられた。彼らはきっと一生俺の心の中を理解できないのだろう。名前を出そうが出すまいが、俺の気分は変わらずに最悪に決まっているじゃないか。
「いろいろ考えて、言い出しっぺの俺が行くことにした。ホンファとライアンには既に話していて、同意を得ている。ロビン、お前はどうだ?」
「俺は別に構わないよ」
「待ってください。チョウ様にも説明したのですが、もし――失礼ですが、フォックス様がこの事件の犯人だった場合、この作戦は全く逆に作用します。そのことのリスクを考慮して、慎重に決断してください」
なるほど、ライアンとデイジーが提案しないわけだ。詰まるところ、俺個人に対してのリスクはその一点にかかっているということだ。
ブランドンの顎から、汗が一滴ぽたりと落ちた。よくみると、彼のスキンヘッドの頭には小さな鱗のように汗がにじみ出ていた。それは常識に囚われないアイデアを思い付いた興奮のせいか、俺に疑われている緊張のせいか、これから宇宙空間に行く恐怖のせいかは分からなかったが、その人間らしい生理反応を、俺は信じることにした。
「俺の答えは変わらない。頼んだよ、ブランドン」
「そうか。ありがとな。じゃあ善は急げだ。ライアン付いて来てくれ。宇宙服の使い方を教えて欲しい」
ブランドンはこれから戦争にでも行くように意気込んで、ライアンと通路の奥へ消えていった。
「彼、何かしないと、気が済まないそうです」と、二人きりになったあとにホンファが言った。「私がロボットに襲われたとき、彼は遠くから見ているだけだったから」
「……」
「エラディオの死にも責任を感じているみたい。自分も行っていたら、助かってたかもしれないって。彼は良い人だと思います。ときどき騒がしいけど」
「そうだな」
ホンファが何とか俺と会話をしようとしている雰囲気を察しつつ、俺はそれに応じられないでいた。
「……まだデイジーのこと、考えているのね」
グサリと胸に刺さる言葉を言われ俺はホンファを睨んだが、彼女は怯まずに言葉を続けた。
「ごめんなさい。でも、ブランドンが言っていたんです。もしあなたがくだらない理屈なんか並べずに、ストレートにデイジーに対する愛情を語っていれば、引き下がっていたかもしれないって。私もそうだったかもしれない」
「……」
「結局あなたにとってデイジーはその程度の存在だったのよ。厳しいことを言うようだけど。だから意地にならずにあなたもデイジーを食べるべきよ。どっちにしろデイジーはもう生き返らないのだし」
「……デイジーにそう言うように言われたのかい?」
「いいえ。私がそう思ったの」
ホンファはそう言ったあと躊躇うように暫く黙っていたが、やがて決心したように俺に聞いた。
「人間を愛したことはあるの?」
質問をしていながら、ホンファの方が答えを怖れているようだった。
「……、プライベートなことについて詮索するつもりはないんです。ただ、このままではあなたにとって良くないように思って。私、不幸の匂いが何となく分かるんです。雨上がりの匂いを嗅ぐと父親と公園で遊んだ過去を思い出すように、その匂いを嗅ぐと暗い未来が待っていることが分かるの。誰でも少なからずは持っている勘が、私は鋭いんだと思う。その匂いのおかげで私の身に不幸が降り掛かってくるのを何度も察知できていたけど、私は何も変わらずに、変えられずに、ただ不幸を受け入れてしまった。だから他人にはお節介なの。私みたいになって欲しくないから」
『自分みたいになるな』、エラディオ――ほんの短い間だけ僕と友達もだった男もそう言っていたのを思い出して、急に目頭が熱くなった。ホンファの言うとおりかもしれない。『素直になれ』、彼はまたそうも俺に言い遺してくれたのではなかったか。
「人間を愛したことはあるよ……ちょっと話が長くなるんだ、それでもいいかい?」
「もちろん」
ホンファは笑顔を作った。人工的に造られたデイジーの容姿には敵うはずもなかったが、こうして笑うとなかなかの愛らしい顔立ちだった。
「俺は百三十年近く頭だけ冷凍されていて、最近蘇生されたんだ。つまり過去の世界から来た時間旅行者みたいなもんだ」
もっと気の利いた言い回しもあったはずだろうに。自分の素性を告白し慣れていないせいで陳腐な文句しか出てこなかったことに我ながら少し呆れた。
「それは……嘘みたいだから、きっと本当の話なのね」
「そう、非現実さという点では、この事件には敵わないけどね。蘇生される前は難病で体の抵抗力が弱くて満足に外も歩けなかった。学校には行かず、勉強は家でやったよ。でも、だからって特別寂しい少年時代を送っていたわけじゃない。親やボランティアが頑張って同年代の子供を家に呼んでくれた。平日の夕方や休日は、家に友人が居なかった方が少ないかもしれない。だけど、歪んだ環境ではあったから、子供ながら違和感に気付くんだ。家に来る友人には三種類いるって」
「義務的に来る子、あなたを本当に好きで来る子……、あとは、あなたを嫌いだけど来る子ってのは、義務に含まれるかしら」
「そうだね……。最後は、自分を好きで来る子、つまり、俺に哀れみや優越感を抱いて来るようなタイプさ。一回遊べば大体分かるんだけど、分からないこともある。それで裏切られる場合も、逆に罪悪感を覚えることもあるから、いつからか俺はそれを考えないようにしていた。それが一番傷付かない方法だったからね。だから俺は耐性がなかった」
「恋して……そして、傷付いたのね」
「月並みな話だけど、人の善意というものがある分、俺の恋はぼやけていて、複雑だったんだ」
「……これからは?」
「分からない。人間は残酷だから」
それは現代の人間についての俺の印象だったが、ホンファは俺の昔の恋愛を想像して俺の心の傷が手に負えないほど深いと思ったのか、それきり黙りこくってしまった。
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