第5話

 次の朝、起きてリビングに行くと、デイジーはソファに横になって胎児のように膝を抱えて丸まって寝ていて、俺の気配に気付いて慌てて飛び起きた。


「電気羊の夢でも見てたかい?」


 俺が言うと、デイジーは眠たそうに目を瞬いて首を振った。


「そのジョークは古典過ぎてアンドロイド以外には使えないわよ。アンドロイド以外に使う必要もないけど。人工知能に休息は必要ないけど、体は休む必要があるの」

「生身の苦労を共有できるのは何よりだ。シャワーを浴びようと思うけど、着替え、届いてたかな。あ、あれがそう?」


 俺が部屋の隅のダンボールを指差すと、デイジーは頷いた。


「ええ。レイジー・スーツが十着。あと沢山の下着と靴も。待って、今取り出すわ」

「いや、いい、自分でやる」


 レイジー・スーツとは、ズボンと上着が一体となった着ぐるみのような格好の服で、この時代の普段着の一つである。裏地は特殊なファー生地になっており、見た目に反して通気性が良く、着心地が良いらしい。

 本来、怠惰に過ごす部屋着として流行したのだが、いつの間にかそのまま外出する人が増えて、外出着としても通用するようになったそうだ。昨日家に着いたあとネットでこの時代の服装について調べすぎて面倒になった俺は、レイジー・スーツを俺のデフォルトの服装とすることに決めたのだった。

 用をたす時に全部脱ぐ必要があること以外は、一日中これで過ごすことに文句はない。どうせなら下着類も一切要らない究極のレイジー・スーツがないかと探したのだが、これは残念ながら見つからず、仕方なく安物の下着を大量に購入した。俺の根性はどうも未来人より怠惰らしい。


 俺は紺のレイジー・スーツと黒のトランクスと靴下、それから何より靴を履き替えたかったので(そう、俺はまだ黄色のスニーカーを履いている!)灰色のスニーカーをダンボールから取り出した。


「バスルームのタオルも新品に代えておいたわ。体洗いましょうか?」


 彼女の扇情的な言い方はまるでコールガールのようであまり好きじゃなかった。俺は無言で首を振り、浴室に向かった。


 浴室にはボディソープ、シャンプー、コンディショナーが揃っていた。少しだけ毛が生えてきた頭をシャンプーで洗ってから髭剃りがないことに気付いてデイジーに大声で聞いてみると、洗面所にある脱毛剤を使うのが一般的だと言われた。口の上に塗って数秒すると、氷の世界から目覚めて以来剃っていなかった俺の消しゴムのカスのような髭がポロポロと抜けた。


 俺がシャワーから出ると、デイジーもシャワーを浴びた。リビングに戻ってきた彼女(電子ドライヤーで彼女の長い髪は完全に乾いていた)は新しい服を着ていた。灰色のパーカーに黒のスキニージーンズで、俺の生きていた時代でも通用するカジュアルな服装だ。


「それも買ったのか?」

「いいえ、衣服も配布制よ。もし好みに合わないようなら新しいのをオーダーすれば今日中に来るわ」

「その服の選択は君が?」

「ええ。あなたの時代の服装データを参考に選んだの。気に入らなかったかしら?」

「いや、そんなことはないんだけど……、何と言うか、すごく……、普通だったから。ということは、退院の時にアンドロイドの公務員から貰った服……さっきまで俺が着ていた服が変だったのは、あれは人工知能のミスではないんだな?」

「あれは現代風のコーディネートなの。ダッキースタイルよ」


 デイジーは、自分の胸、脚、つま先を順に指して、青、白、黄色と言った。ああ、なるほど。あのうるさいアヒルのキャラクターは、今でもまだ有名らしい。なぜそれを人間のファッションにするのか、未来人――現代人の感性には甚だ理解に苦しむが。


 それから俺たちは朝食にパウチ加工されたゼリードリンクのような見た目の完全栄養食を食べた。味は塩分の少ない鼻水を食べているようで、軽食に使えるかもしれないと内心けち臭く期待していたのを無残に裏切られた。


 それから軽くネット検索をして今日の予定を決めた。まずペットショップに行って、それからトルコ料理。この時代ではタクシーを使うことが普通らしいが、どちらも近場だったので歩いて行くことにした。今まで外で歩けなかった分、これからは思う存分歩きたい。そのために昔は必要でなかったせいであまり持っていなかった靴も沢山買った。生体化で運動で疲労するようになったデイジーには悪いが、ここは主人の特権を利用して付き合ってもらうぞ。


 早速出かけようと玄関に行くと、隅にいつの間にか木製の簡素な傘立てが置いてあって、デイジーがそこから傘を二つ取り出した。


「もしかしたら帰りに雨が振るかもしれないわ」

「未来社会は天気の制御くらい出来ていると思っていたが」

「もう少し寝ていた方が良かったかもね」

「氷漬けはもうごめんだよ」


 俺は彼女が持っている傘を奪った。


「だめよ、私が持つわ」

「アンドロイドとはいえ、女性に傘を持たせるのは俺の主義に反するよ」

「変な目で見られるわよ」

「構わないさ」


 玄関を出て高速エレベーターを使って下に降りて、マンションの高層ビルの外に出た。空を見ると、なるほど、鈍色の雲はいかにも雨が振りそうな顔をしていた。

 オムニポーターでペットショップへ行く道を確認して、俺たちは歩き出した。


「トルコ料理、楽しみだわ。初めて食べるの」


 デイジーはさながら人間の女のように目を輝かせていて、その足取りといったら、もう少しでタンゴを踊り出してしまいそうなくらいだった。


「はは、まるで本当に楽しみなように見える」

「あら、本当に楽しみよ。生体化されてあなたの家に来ることになって、人間に近い感情が持てるようにチューニングされたの」


 ああ、なるほど、男の欲望を満たすためにはそっちの方が良いのか。


「でも安心して。人間のように感情のせいで変なミスをすることはないわ。無駄な買い物はしないし、仮にあなたがここで車に轢かれても最適な対処ができる」

「そうならないよう祈るよ。じゃあ君は、今まで笑う振りしかしてこなかったのが、今は実際に笑えるわけだね?」

「振りってわけじゃなかったのだけれど……。でもそうとも言えるかもね。とにかく今は人間と同じように笑えるわ。あなたのジョークがつまらなくなければね」

「そのジョークは面白くない」


 俺たちは笑い合った。それはまるで恋人同士が笑い合うように自然で、俺の心の中でむず痒い感情が蠢いた。彼女がもし人間なら、俺は間違いなく恋に落ちていただろう。彼女は(当然)誰よりも知的で、美しく、それでいて謙虚で、欲がない。彼女は完璧だ。人間の本能に従えば、本来惹かれるべき存在ではないか?


「ねえ、一つ聞いても良い?」デイジーは言った。

「もちろん」

「なぜ私を選んだの?」


 デイジーはそう言って俺の目を数瞬じっと見つめると、まるで答えを聞くのが怖いといった様子でぷいっと前の方を向いた。それはきっと彼女にとって根源的な質問なのだろう。人間が神に自分たちの存在意義を問うように、彼女は俺に自分の存在意義を問うているのだ。

 人間と違うのは、彼女には答えがあることだ。そしてそれは下らないものかもしれない。好きな女優の顔に似ていたからだとか、食べていた紫色のゼリービーンズの香りが彼女の髪の香りを思い出させたからだとか。

 いや、もしかしたら人間の存在理由だって同じようなものかもしれない。ウォッカを飲んで猿を作っていたら、失敗して毛がなく二足歩行しかできない出来損ないになってしまったとか――。神が俺たちの前に現れないところを見ると、案外俺の推測は当たっていたりして。


 彼女の履いている低めのヒールの靴音が、まるで俺の返答を急かすかのように規則的に鳴り響いていた。俺は我に返って口を開いた。


「ゴム手袋の話をしただろ?」

「……あれが?」


 デイジーは頷く俺を見て眉を顰めて驚いたような呆れたような顔をした。


 俺が解凍された日の夜のことだった。精密検査が終わってから、俺は病院から貸し出されたパソコン(俺の時代の感覚ではそれはキーボード単体に見える代物だ)を使ってこの時代の知識を得ようと必死にいろいろと検索していた。スライドドアをノックして、病室にデイジー(その時は名前がなかったが)が入ってきた。


「花の水を替えようと思いまして」


 俺は作業を中断して、空色から桜色の陶器の花瓶にサイネリアを移し替えるのを暫く黙って眺めていた。


「君がアンドロイドだとは驚いたよ。アンドロイドも花を慈しむんだな」


 彼女が空色の花瓶を持って病室から出ていこうとしたとき、俺の方からそう彼女に話しかけた。ずっとパソコンに向かっていたので、俺は話し相手が欲しかったのだ。


「慈しむ……、と、言えるのかどうか。私の行為は結局、人間の、花を慈しむ行為を真似しているだけです。人間のように、自発的な、心の伴った行為とは異なります」

「つまり、人工知能は愛を理解できない?」

「さあ、どうでしょうか……。愛は、例えるならゴム手袋です」

「ゴム手袋?」


 俺は一瞬、彼女の人工知能が壊れたのかと思った。サイエンス・フィクションの世界では、脈絡のない言葉を言い出したロボットは、故障、いや、暴走し始める。俺は本能的にがばりとベッドから上半身を起こしていつでも逃げられるようにした。デイジーはそんな俺を不思議そうに見たあと柔らかく微笑んで語り出した。


「1889年から1890年の間の冬のこと。当時、外科手術は素手で行われていました。消毒は塩化第二水銀――昇汞とも呼ばれるけど――と石炭酸を使った手洗いです。ジョン・ホプキンス病院のある看護婦はそのせいで手の皮膚炎に苦しんでいました。同病院の医師ウィリアム・スチュワート・ハルステッドはそれを見かねて、手術にゴム手袋を使うことを思い付きました。そして彼は看護婦に世界で最初の手術用ゴム手袋をプレゼントしたのです――後のキャロライン・ハンプトン・ハルステッドに。これが愛……違いますか?」

「驚いた。君の頭の中のデータベースはロマンチックだな」

「そう言っていただけるなら光栄です。でも私は愛を経験したことがありません。経験していないことを理解していると言うのは、おこがましいのではないでしょうか」


 デイジーは目を伏せて悲しく自身を憫笑した。


 それから退院までに何度か彼女と会話をしたが、別に彼女に何か特別な感情を持っていたわけではない。

 アンドロイド看護婦に容姿以外の個体差はない。俺も彼女たちの患者の一人でしかない。人間的な好悪の感情がない彼女たちは誰とも分け隔てなく接する。ちらりと見た他の患者の病室の花瓶に花は飾られていなかったことが少し気になってはいたが、それはおそらく患者の趣味に合わせていただけだろう。ゴム手袋の話も俺とデイジーの間の特別な会話というわけではなく、話し手がデイジーでなく他のアンドロイド看護婦であったとしても頭脳が同じなのだから同じような会話になっただろうし、聞き手が俺でなく誰にでもゴム手袋の話をするのかもしれない。

 ただ、あのアンドロイド公務員が自分が返品されたアンドロイドであると認めて悲しそうに空笑いをしたとき、俺の頭のどこか隅の方に残っていたデイジーの憫笑が不意にフラッシュバックしてきて、気付いたら俺はデイジーを俺のアンドロイドにと言っていたのだ。



 俺がそう説明すると、デイジーは少しがっかりしたように肩を竦めた。


「それは偶然と同義だわ。あなたが他のアンドロイドともっと素敵な会話をしていた可能性も充分ある」

「人間の言葉で、それは運命と言う」


 俺が得意気に言うと、デイジーは自分の頭を指差して言った。


「データベースを更新しなくちゃ」

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