第4話 山村 作治【後編】「偶然」

 海面に頭だけ出し、次から次へと襲ってくる波に顔を濡らしながら、作治は無人で揺れる船を眺めていた。

 釣り上げたばかりのマグロの頭が、船体の横で波の隙間に見え隠れしている。何とか近づこうと泳いでみるが、船は離れていくばかりだった。冷たい海水が作治の身体を強張らせた。

(終わりだ)

 後は誰かが船を見つけ、あの巨大なマグロを無事に市場にかけ、収入を家族に渡してくれることを祈るだけだ。

 しかし、釣れないよりはマシだと思った。少なくとも、漁師としての面目は立った。ただ不運なだけだ。不運ならば仕方がない。納得はできないが、自分にできることはもうない。せいぜい沈まないように泳ぎ続けることくらいだが、それも長くは続かないだろう。

 作治は心の中で妻と息子に詫びた。帰れないことに対してではなく、こんな自分を夫や父に持ったことに対する罪悪感だった。


 巨大マグロとの格闘は、作治の体力を完全に奪っていた。船の操舵くらいならできたかもしれないが、さすがに泳いで船に近づくことはできそうにない。海上に顔を出すのもそろそろ苦痛になってきて、作治は手足を止めた。できるだけ息を吸い込み、身体の浮力を得ようとした。

 雲は相変わらず低空に垂れこみ、吹きすさぶ風と冷たい雨を撒き散らしていた。吸い込んだ息のおかげで、身体はひとまず海面に浮かばせることができたが、波までは制御できず容赦なく作治の顔に飛び込んできた。少なからず海水を飲み、息苦しくなってくる。辺りを見回すと、船はもう完全に作治の手の届かないところまで離れていた。


 作治は溜息をついて視線を戻した。海面の揺れに身を任せ、上空を見た。雲の向こうにうっすらと太陽の姿が見える。もしかしたら、嵐は弱まっているのかもしれない。

 上空には黒い鳥が一羽だけ飛んでいる。カラスか何かのようだが、なぜこんな天気の中を飛んでいるのか。まさか、奴も食べるものに窮し、決死の覚悟で沖まで出てきたのだろうか。

 作治はカラスに親近感を覚え、笑顔を作って手を振った。

 すると、そのカラスは突然作治に向かって急降下を始めた。姿はみるみる大きくなり、それがカラスではなく人間であることに気づいたが、彼が近づくに従って「人間」という印象も吹き飛んだ。

 最初は黒い服を着ているのかと思ったが、それは服ではなく身体そのものだった。全身真っ黒で、まるで人間の筋肉を機械で摸倣したような、大小様々な部品で覆われていた。それが時々風に飛ばされながらも、まっすぐ作治に向かって下りてくる。


 それはあまりに非現実的な存在で、作治を驚愕と混乱が入り混じったような興奮が襲ったが、不思議と恐怖心は沸かなかった。まるで子供の頃に憧れたスーパーヒーローを見ているような気分だった。

 男は作治の真上まで降りてくると、そこに浮かんだまま作治を見下ろした。

 作治は無我夢中で男に向かって手を伸ばした。男は少しだけ海面へ下降し、作治のわきの下に両腕を差し込むと、そのままゆっくり上昇した。

 作治は荒れ狂う海から引き揚げられながら、真っ先に自分の船を探した。船は遠くで波にもまれていたが、マグロが無事かどうかまではわからなかった。

 男は船のことなど気にも留めず、上空を目指して飛行していく。

 作治は叫んだ。

「待ってくれ! あの船に下ろしてくれ!」

 男は作治を見下ろした。しかし無表情のままでなんの反応もない。

 日本語が理解できないのか、それ以前に会話する能力を持ち合わせていないのか。

 作治は船を指差して繰り返し叫んだ。

「あれだ! 船だ! あそこにおろしてくれ!」

 男が作治の指の先にある船を確認すると、再び男に向き直った。

「あなたはあの船も必要としているのですか?」

 ようやく喋った。妙な言い回しの日本語だが、スーパーやコンビニでみかけるレジ・ロボットに比べれば流暢な方だ。

「あぁ! そうだ!」

「わかりました」

 男は上昇をやめ、作治をぶら下げたまま船に向かって飛んだ。


 デッキに降り立った作治は真っ先に船縁へ走り、そこにいるはずのマグロを探した。

 顔だけを海面から出して、マグロはそこにいた。見開かれた黒い目が、何かを伝えたそうに作治をじっと見据えている。

「オレとしてはこの上なく不本意だが、オレの重さで船は転覆せずに済んだんだ。ありがたく思え」

 マグロの不機嫌そうな声が聞こえるようだった。

 作治は「ありがとよ」と、マグロに言った。

 後ろを振り向くと、男は作治に背を向けて立ち、船の周囲を見回している。作治はどう声をかけていいかわからず、男の様子を見守った。

 男はおもむろに両腕を天に向かって伸ばしたかと思うと、その腕をゆっくり左右に開いた。

 すると、かすかな光が突然現れ、船の周囲を包むように球体の膜を作った。球体の内部は完全に凪で、雨どころか風も波もおさまっていた。


 作治が周囲の空間に目を凝らして見ると、まるで見えない壁でもあるかのように、外から来る雨が何かに当たってはじけていた。

「これはなんだ?」

 作治は周囲を見回しながら声を上げた。

 男は作治へ振り返り、「これはバリヤーです」と答えた。

「バリヤー? あんた、いったい何者だ? ロボットなのか?」

「いいえ」

「でも、さっき空飛んでただろ」

「あれは非公開のテクノロジーなので、誰にも言わないでください」

 男は文字通り赤色に光る目を作治に向けて言った。見た目はどう見ても機械だ。金属かプラスティックかわからないが、真っ黒な艶のない部品がパズルのように組み合わされ、動くたび伸びたり縮んだり形を変えたりする。

 地元から出たことのない作治にとっては、少々荷の重い現実だった。作治は何を考えればいいのかもわからないまま、目の前の男を呆然と見つめた。

 彼はその間も周囲を観察したり、一点を見つめて考え込んだりしていたが、突然身をかがめたかと思うと、そのままデッキの上に寝転んだ。

「どうした!」

 作治が駆け寄ってタイカの顔を覗き込んだ。身体は自由にならないようだが、真っ赤な瞳が動いて作治を見た。

「少しの間ここで休ませてください」

「動けないのか?」

「私は緊急用の予備エネルギーを持っています。しかし、それもなくなると気を失います」

「バリヤーのせいか?」

「はい。しかし、バリヤーは港につくまでは維持できるので安心してください。エネルギーが復活すれば、また旅を続けることができますので、どうぞお気になさらずに」


 一〇年以上に渡って、作治はこのデッキの上でマグロと格闘してきた。いってみれば、この船のデッキは作治の人生を象徴するものだった。自分は何も変わっていないはずなのに、まるでタンスの引き出しを入れ替えられたような非現実感に戸惑っている。

 思えば今日は様々な感情が入り乱れた日だった。自分の境遇を呪ったり、嵐の中で充実感を感じたり、死を完全に受け止めたり、今までの人生とは比べ物にならないほど濃密な時間を過ごしたものだ。

 しかし、最後は幸運で締めくくられたのだ。天はまだ自分を見捨てていない。進む道は間違っていない。そう感じることができた。

「気を失われる前に言っておくが、あんたのおかげで運が向いてきたよ。ありがとう」

 作治は身動き一つしない彼に向かってそう言うと、普段は絶対言わないようなセリフに照れ笑いを浮かべた。

 男は視線だけ動かして無表情に見つめていた。まるで作治の言っていることが解せないかのように、じっと作治を見ていた。

「なんだ、礼を言われても嬉しくないのか?」

「いえ、役に立てたことは嬉しいです。ですが、わからないことがあります」

「わからないこと?」

「『運が向く』とはどういうことですか?」


 作治はてっきり自分がなぜ嵐の海に出たのか聞かれると思ったので、予想外の質問に答えにつまった。

「あんた日本語が得意じゃないのか? 英語でも『ラッキー』とか言うだろう。それだよ」

「いえ、『運』の意味はわかります。わからないのは、私と『運』にどういう関係があるのかということです」

 人と運の関係など考えたこともない。いや、そもそも考える類のものではなく、そう感じるものだ。

 作治はそのような意味のことを語ったが、男から返ってきたのはさらなる質問だった。

「しかし、私は偶然ここを通りかかっただけで、あなたの運不運にはなんの関係もないです」

「偶然が生んだ奇跡こそ、運が向いてきた証拠だろ?」

「しかし、どんな偶然でもそれは単なる偶然です」

 助けてもらった相手とはいえ、作治はいい加減うんざりしてきた。

 彼が何を言いたいのかさっぱりわからない。あの状況で命が助かったのは、幸運と呼ばないのか。しかも、相手は空から来たのだ。幸運を通り越して奇跡と言っても過言ではないはずだ。

「いったい何が気になるんだ?」

 作治が無意識に男の顔を覗き込みながら言った。

「出来事に意味を求める理由を知りたいのです」と男が答えた。

「例えば、あなたが再度危険を冒して嵐の海に出なきゃならなくなった時、奇跡を当てにしますか?」

 作治は首を横に振った。博打でもなければ、そんなリスクは侵さない。

「でも必要であればまた出ますか?」

「まぁ、出るだろうなぁ」

「ということは、あなたの行動原理に運不運は関係ないと思いますが…」

 作治には彼が何を言おうとしているのかわからない。どこが腑に落ちないのかもわからない。しかし、身体が自由に動かないにもかかわらず、一生懸命伝えようとする男の姿は、まるで自分の潜在意識下にある疑問を代弁されているような錯覚をもたらした。


 自分の人生は何に左右されながら進んでいるのか。妻か息子の存在か、それとも自分のエゴか。

 どこからともなく期待が生まれ、生まれる度に現実によって砕け散り、現実は無情だと嘆く。しかし、生活がかかっている以上歩みを止めることはできない。納得も好転もしていないのに、歩み続ける過程でなぜか再び期待が生まれ、それに望みを託しながら次の一歩を踏み出していく。

 その原動力はいったい何なのだろう。理由を求め続ければ、そのうち答えにたどり着けるのだろうか。

(いや)と作治は思う。

 一歩を踏み出すために必要な要素は、理由ではなく状況だ。

 今回得た状況は「死ななかった」こと。理由はわからないが、生きている以上は次の一歩を踏み出さなければならない。

 ではどこへ向かうのか。

 まず港に戻ってマグロを売り、その金で息子の授業料を払う。

 金が余ったらちょっとだけ高価な食べ物を買い、妻の病室でお祝いをする。そして、次の日も再び漁に出るわけだが、今までと同じように漁へ出れば、またスランプに陥るかもしれない。

 では、どうするか。

 方法を考えれば良い。さっきまではライバルと呼んでいた漁師たちは、同時に同じ土地で暮らす仲間でもある。彼らに包み隠さず話をして、知恵を借りればいい。

(なるほど)

 作治は笑みを浮かべて男に答えた。

「確かに関係ないな」

 男は動かなかった。


 ずいぶん沖まで出ていたようで、港に戻るのに一時間近くもかかった。風はその勢力を弱め、雨はやんでいた。

 港が見えてきた時、男の予備エネルギーも尽きたのか、バリヤーは消えていた。

 この男を人前に晒すとまたややこしいことになると思い、作治はキャビンの中から大漁旗を引っ張りだし、それで男を覆った。

 港に入ると、岸壁に立つ人々の姿が波打っていた。大声で作治の名を呼び、船に向かって手を振っている。作治は恥ずかしさと嬉しさの入り混じった苦笑いを浮かべ、遠慮がちに手を振り返した。

 仲間の漁師たちは、作治の船が接岸すると同時に我先にと飛び乗ってきた。彼等は操舵席へ向かい、両手で作治の髪の毛をぐしゃぐしゃにしたり、抱きついて喜んだり、ただひたすら笑ったりした。 

 作治は船を降りて港に立った。女たちが作治を笑顔で迎えた。

 作治は頭を深く下げて言った。

「騒がせてしまってすまない」

 しかし皆は何も言わず、入れ替わり作治の肩に手を置いた。


 その時、一人の漁師の奇声が響いた。その漁師は船縁から身を乗り出していた。他の漁師が船縁に集まり、海面を見下ろして同じような奇声を上げた。

 作治はあの男が見つかったのかと思い焦ったが、仲間たちの様子を見るとどうやら違うようだった。

 女たちも「なんだなんだ」と騒ぎだす。

 漁師の一人が小型のクレーンに飛び乗り、船に寄せてワイヤーを垂らした。別の漁師たちがワイヤーの金具を船縁のマグロにかけ、クレーンに向かって合図をする。クレーンの漁師はレバーを操作してゆっくりマグロを吊り上げ始めた。

 人々の視線が注がれる中、マグロが岸壁の向こうからゆっくりと姿を現す。あまりの巨体にどよめきと歓声が沸き起こるが、それが(そろそろ尾が見えるはず)という予想を超え始めると、人々から歓声を消えていった。

 みんな息をのんで、巨大なマグロを見つめた。


 後日、町の漁業協同組合では、集団で行う有機的な漁の方法と、それに伴う公平な利益分配が議論された。

 作治は漁協に雇われて、若手漁師の指導者になった。

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アナザーサイド・オブ・エイリマン 藤田 夏生 @natsuo

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