第3話 山村 作治【前編】「必然」

 突然鳴り響くアラームの音で、作治は目を覚ました。枕元に目をやると、目覚まし時計のデジタル文字が淡い緑色の光を放ちながら、午前三時を示していた。

作治はだるそうに手を伸ばしてアラームを止め、天井から伸びた紐を引っ張って部屋の明かりを灯した。

 現在、この家には作治以外に誰もいない。自慢の一人息子は東京の大学に入学し、今都内で一人暮らしをしている。

 妻は身体を壊して隣町の病院に入院中だが、病状はおもわしくなく退院の目途すらたっていない。作治が一人で寝起きするようになって、すでに半年が過ぎていた。


 彼は漁師だったが、ここ数カ月はまとまった水揚げがなかった。

 手持ちの貯金で死なない程度に生活できてはいるものの、貧困に疲れ、身体も心も昨日より更に重い。

 しかし、今日は特別な日だった。疲れた身体にムチ打ってでも、動かなければならない日だ。


 作治にはまとまった金が必要だった。今週中に息子の授業料を払えなければ、彼は大学を追われてしまう。しかし、授業料を払ってしまうと妻の入院費が工面できなくなる。

 息子が必死にアルバイトをしても、彼の生活費を維持するだけで底をついた。都会の生活費は、田舎の小さな漁村に住む漁師にとって破格ともいえる額だった。

 それでも息子は文句を言わず、バイトのかけもちをしようとしたが、それを止めたのは作治だった。

 電話口で息子から別の仕事を探していると聞かされた時、作治は心中で動揺した。息子の生活がそれほど逼迫しているとは思ってもみなかった。

「なんとかするから、もう少し待て」

 作治がそう返すと、息子はしばらく沈黙した。

 返す言葉が見つからず沈黙する息子の不憫さ。息子の心情が、父親には手に取るようにわかった。

「いや、ちゃんと目星がついてるんだ」

 作治はなるべく自信たっぷりに、声に力を込めて言った。

 この歳になると、人生に対する淡い理想は崩れ去り、後には現実に取り込まれた無様な自分がいるだけだ。だが、それでも歩みを止めることは許されない。自分の意志で舞台から降りない限り、演じることを止めることはできないのだ。


 思えば作治の幼少期は、テレビや漫画の影響からか、自分は必ず正義の側にいると信じていた。正しいことをしていればその努力は必ず報われ、いざとなれば正義の味方がこの世の不条理を正してくれると…。

 しかし時を重ねるに従って、自分が常に正義の側にいるとは限らないことを知り、時には正義すら負けることがあると悟る。人生に法則はなく、無力感に苛まれながら、限られた選択肢を探し求める。たとえ、その選択肢が最善でないことがわかっていても。

 今の自分に残された唯一の選択肢が漁だった。今から他の職種に転職しても、マグロ一本釣り上げた時と同等の収入を得ることは難しい。ましてや金はすぐに必要なのだ。方法を選んでいる余裕はない。少し無理をしてでも、自信のある方法をとるしか道はなかった。


 スランプの原因は明白だった。自分の腕が鈍ったのではなく、船のハイテク化に原因がある。ハイテク船のアドバンテージはすさまじく、作治には見えない魚の群れを、ハイテク船は的確に見つけていった。昔ながらの漁法を駆逐する勢いで漁場を駆け抜ける。

 しかし、元々裕福ではない上に妻の治療費などで出費がかさみ、作治には船に資金をつぎ込む余裕などなかった。


 作治は襖を開けて壁のスイッチを入れた。蛍光灯が灯り、物であふれ返る狭いリビングを照らし出した。

 ダイニング・テーブルや食器棚などの雑多な生活用品に囲まれて、本来の広さより一回り小さくなった板の間は、冷たい空気に凍りついていた。

 テーブルの上に置かれたテレビのリモコンを手に取ると、電源ボタンを押す。画面には天気予報が映し出され、アナウンサーが嵐の接近を告げている。

 作治はそれを聞きながら着替えを済ませると、洗面所で顔を洗い、熱いお茶を入れて昨日の晩御飯を温め直す。それらをお盆に乗せてテーブルに座り、テレビを見ながら朝食を済ませる。

 湯気のたつお茶をゆっくりと飲み、飲み終わって食器を流しに下げると、玄関の衣紋掛にぶら下がっている、色あせた赤い野球帽をかぶり、同じく色あせた深緑のウィンド・ブレーカーを羽織って家を出た。


 作治にとって半年続けてきた一人きりの日課だが、それが今後も続くかどうかは、今日の水揚げにかかっている。

 彼は粛然とその事実を受け止めていた。嵐が迫る海に出てライバルの漁師を出し抜かない限り、今の生活を変えることはできない。

(自分がここで死んだところで、死亡保険もない現状では悪化する余地すらない。負けてもゼロのままであるなら、戦う意義は十分にある)

 それが、昨夜眠りに就く前にたどり着いた結論だった。


 闇夜に包まれた港町は、まだ誰も動き始めていなかった。普段ならライバル達も港へ向かう時間だが、作治の思惑通り、漁に出る気配がまるでない。

 港にたどり着いた作治は、音を響かせて吹く風と、波に揺られる船の列を見た。一瞬だけ出港への躊躇がよぎるが、やめたところで引き返す場所はない。作治は諦めに近い覚悟を決め、自分の小さな船で漆黒の海へ出た。

 高性能ソナーがなくても、鳥が飛んでいなくても、昔からの漁場は経験でわかる。作治は波に煽られながらも、的確な舵さばきで船を進めた。古いがまだ現役の魚群探知機が、海中の様子を映し出している。ライバルの船がいないとなれば、探知範囲の狭い魚探でも、時間をかけて探すことができる。船の燃料は十分積んでいるので、状況の許す限り船を走らせるつもりだった。


 そろそろ太陽が昇る時間だが、上空は厚い雲に覆われてその光を拝むことはできなかった。

 しかし、確実に朝は近づいている。漆黒だった闇は消え失せ、目指す漁場にたどり着いた頃には、視界が効くほどに明るくなっていた。風は相変わらず強かったが、雨はまだ降っていない。

 作治は船を止めて一本釣りの準備を始めた。揺れる船の中で餌となる小魚を仕掛けにつけ、それを海に垂らした。船縁に腰かけ、当たりが来るのを待つ。

 海の上での完全な孤独が、自分のいる世界をより一層強烈に感じさせた。マグロとの戦いに必要なもの以外、無駄なものは一切ない。シンプルな戦場だった。不思議と恐ろしさは感じない。やるべきことに集中しているからだろう。

 海は脈打つように作治の身体を揺さぶっている。白波が船縁を飛び越えて、海面を見つめる作治に襲いかかる。作治は足を踏ん張り身体のバランスをとると、仕掛けの引き具合に神経を集中した。

 マグロを釣り上げる感覚が指先に蘇る。マグロの重さ、釣られまいと暴れる力の強さ、一本釣りを生業にしている者だけが感じる、後には引けない真剣勝負。最後に釣り上げてからずいぶん時間が過ぎてしまったが、手の感覚だけは今でも鮮明に蘇る。仕掛けと海が、自分とマグロを繋げている。まるで自分の下心が、マグロに通じてしまうかのように。


 仕掛けを垂らして数十分経った頃、作治の心の深いところで直感がよぎった。海の表情と経過した時間が(ここにマグロはいない)と言っていた。作治は仕掛けを引き上げ、操舵席に戻って船を移動させた。

 直感と魚群探知機を頼りに、作治は海をさまよった。場所を変えては仕掛けを垂らし、当たりが来そうにないと悟っては、再び船を走らせる。時には魚群探知機に見入ったまま船を操舵して、少しでも魚の影らしいものが映ると、操舵席を飛び出して再び仕掛けを投げ入れた。

 しかし、何度やってもマグロの感触はなかった。

(まさか、マグロたちは嵐を避けるために、この海域からいなくなってしまったのだろうか)

 同じ作業を繰り返す作治の脳裏に、悲観がよぎり始めた。

 運に見放されたと感じた途端、そこで負けを認めることになる。

 なぜなら、それは天に見放されたと同義だからだ。運は努力で補完できるものではないし、努力が必ず報われるとは限らない。


 作治は今まで自分の不運を認めてこなかった。船のハイテク化に乗り遅れたことも、妻の病気も、その結果訪れた現在の貧困も、人生の出来事の一部だと考えるようにしていた。浮き沈みのある人生の、今は沈んでいる時期なのだ…と。

 しかし、今回の強行軍は船のハイテクも妻の病気も関係ない。ライバルはいないし、漁に妻の病気は影響しない。浮き沈みの問題ではなく、自分の漁師としての才能が問われている。それでも目的を達せられないのは、何かが自分の行く手を阻んでいるからではないのか。自分の限界を認めたくないから、言い訳の矛先をハイテク船に向けていただけではないのか。

(進む道がそもそも間違っているのなら、人事を尽くしたところで無駄骨だとは思わないか?)

 そんな台詞が、仕掛けをたぐり寄せる作治の脳裏に、しつこいくらい湧き上がる。作治はそれを無視して仕掛けをたぐる。無視する以外、悲観と闘う術がない。ここで漁を諦めて港に戻っても、何も解決しないのだ。

(何でもいい。小さな光でいい。無駄ではないと思わせる何かを感じさせてくれ!)

 作治は思考を振り払うかのように、心の中で絶叫した。しかし、やはりマグロの手ごたえはなく、作治は別の魚場を目指すため、操舵席に入って陀輪を握った。


 その時、ふと手首の時計が視界に入った。午後一二時を指していた。

(そうか、もう昼か)と思った瞬間、作治はひらめきを得た。

 たとえこんな嵐の中でも、マグロだって腹が減るだろう。もしこの海域にマグロたちが留まっているとしたら、餌を求めているはずだ。しかも、こんなに広範囲に仕掛けを垂らして当たりがないということは、どこか一か所に集まっているのではないか。だとしたら、それはどこか。嵐の影響を受けない場所。それは、もっと水深の深い場所ではないのか。つまり更なる沖だ。

 嵐の中を外洋へ出るのは自殺行為だ。船が沈む可能性が飛躍的に高まる。

(まるで誘われているようだな)

 作治は笑った。これが光か。

(上等だ)

 作治は沖へ船を向けた。


 沖まで来ると、垂れこんだ雲と高い波の影響で、陸地は全く見えなくなった。船上は立っていられないほどの揺れで、操舵中は陀輪にしがみつき、仕掛けを垂らしている時はデッキに座り込んだ。

 嵐が更に勢力を増し、大粒の雨が真横から飛んできて、作治の顔面を叩く。出港してから九時間を超えても、作治はけして諦めることなく、漁と操船を交互に繰り返した。

 やがて、彼は妙な充実感を感じるようになった。まるで生まれて初めて漁に出た時のような、一心不乱の中で感じる「やりがい」のようなものだ。

 自分の死や家族との別れといった未確定な悲壮感は消え失せ、魚との純粋な戦いを楽しんでいる。

 作治はふと、自分の顔がほころんでいることに気づいた。

(やはりオレは漁が好きなんだ)

 しかも、漁以外に現状を打開する術もない。自分の生き方と現実が、今一つに重なっているのだ。

「よっしゃ!」

 作治は全身に力を込めて叫んだ。こうなったら最期までやってやる。マグロを釣り上げるのが先か、船が沈むのが先か。二つに一つだ。結果はどっちでもいい。今はとにかく、自分にできることを全力でやるだけだ。

 作治は垂らしていた仕掛けを巻き取り、次の場所へ移動するため、操舵席に視線を向けた。ところが視界が通り過ぎる途中の景色に違和感を感じ、少しだけ視線を戻した。そこには魚群探知機があり、今までとは違う色をモニター上に映しだしている。その色は四角い画面の右上から中央に広がっていた。

(魚の群れがこっちに向かってくる?)

 作治は慌てて先程巻き取った仕掛けを海中に戻した。

 体制を整え、両手の手袋を引っ張って、手袋の先の方まで指をしっかりと押し込んだ。仕掛けを握りしめた手元の感触に注意しながら、魚探にも視線を配る。魚の群れを示す色の広がりは、すでに船の周囲にまで及んでいる。

 勝ち戦の手ごたえが目の前まで来ているが、作治の意識は漁に集中していて、その脳裏には雑念の欠片もない。船縁に取りつけてあるモリを目視で確認すると、再び海中に神経を集中した。

 突然、仕掛けの糸がものすごい勢いで海の方へ引っ張られていった。作治は反射的に糸を持つ手を握りしめたが、それでも糸は繰り出され両方の手袋から摩擦熱による煙が上がった。

 作治はその勢いに逆らわず獲物が落ち着くまで待ち、引きの力が弱まったところで、一気に仕掛けを手繰り寄せた。獲物が抵抗して暴れまわり、海中に伸びる糸が前後左右に激しく揺れた。作治はその動きと同調しながらも、仕掛けを引く動作を続けた。


 30分以上の格闘の末、突然目の前の海から巨大なマグロが飛び跳ねた。作治は目を見張った。その巨体は、作治が初めて目にするほどの大きさだった。

 作治は仕掛けを持つ腕に力を込めた。波で濁った海水だが、今ではマグロの姿が見えるほど海面まで浮上していた。

 マグロは船体に身体がぶつかるのもお構いなしで、仕掛けから逃れようと暴れまわった。作治はマグロの身が痛む前に、モリを取ってマグロにトドメを刺した。

 (この巨体で、しかも水揚げは自分一人だ。今日市場に出したら、一体いくらの値がつくのだろう)

 作治はモリを引き抜いて船に戻すと、デッキ上のロープを手に取った。この巨体では重すぎて船に引き上げられない。作治はマグロを船尾に固定するため、身を乗り出してマグロを引き寄せ、エラにロープを通した。

 今や巨大マグロは、頭だけを水面に出して力なく波に漂っている。

 作治はロープを船にくくりつけながら、急展開した自分の人生を思った。やはり天に見捨てられたわけじゃなかったのか。運不運の収支を合わせるために、こんな嵐の中で巨大なマグロを吊り上げることができたのだろうか。

 しかし、運の収支を合わせるだけならば、別に不運は必要ないのでは? 最初からプラスマイナスゼロであれば、生活自体はなんの憂いもなく穏やかに過ごせるのに、一体どんな理由があって、人生の浮き沈みはあるのだろう。こんな巨大なマグロじゃなくても、普段小さなマグロを定期的に釣り上げていれば、それだけで生活は滞りなく送れるのに…。

(まぁいい。とりあえず当初の目的は達したんだ)

 作治はそう思い直して現実に戻った。今一度ロープの固定具合を確認すると、船縁に両手をついて立ち上がろうとした。それは身体の体勢も重心も一番不安定な瞬間だったが、まるで何か意図でもあるかのようなタイミングで大きな波が船を煽り、作治を海に投げこんだ。

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