好きにして
大村あたる
好きに、して
本当は、そんなに大きな音じゃなかったんだと思う。だけど私にはその、ばつり、という断絶の音が、なぜだかとてもはっきり聞こえた。同時に私の頭はさっきまでより少しだけ軽くなって。目の前の計算問題に集中していた私の意識は、ふっと現実世界へと引き戻された。
最初はだれも気付かなかった。私と佐藤くんの席が教室の一番後ろ、それも一番角の席だったからだろうか。いや、あまりに突然の出来事すぎて、だれも反応できなかっだけかもしれない。とにかくどちらの理由にせよ、最初に声を上げたのは、教壇に立っていた先生だった。
「佐藤君! なにしてるの!」
その声に反応して、みんなが一斉に私のほうを向く。一瞬間をおいて、教室の中が爆発したようにに騒がしくなる。女子の不安そうな声、男子の驚きの声、佐藤くんへの暴言、私を心配する声。そのどれもが教室内を飛び交った。先生が教壇から降り、かつかつとヒールの音を響かせながらこちらに向かってくる。なぐさめられるなんてまっぴらごめんだ、なんて思っていることに先生が気づいたかどうかは分からないけれど、先生は私の横を通り過ぎ、私の後ろの席、つまりは佐藤くんの席でぴたりと止まった。
「なんでこんなことしたの!」
そうやってぷりぷりと怒りながら問い詰める先生に、佐藤くんはいつもどおりのつまらなそうな顔でこう返していた。
「やりたかったから」
私と佐藤くんの席の間には、私から切り取られた後ろ髪が降り積もっていた。
女の子にとって髪は命よりも大切なものなんて私は信じてはいないけれど、クラスのみんなは私とは違うみたいで。いつもよりちょっと早めの帰りの会が終わって、先生が佐藤くんを連れて教室を出て行ったあと、女子のみんなは私の席を取り囲んで口々になぐさめの言葉をくれた。
「ねえ、佐藤くんってこどもっぽくない?」
クラスの中心人物である東条さんがそう言うと、みんな口々に佐藤くんの悪口を言いだす。大人ぶりたいのは分かるけれど、中学二年生なんてまだみんなこどもだろう。少し笑ってしまいそうになる。
「佐藤くんってなにするか分からないところあるよね」
厚底メガネの鈴木さんがそうやって訳知り顔で話す。佐藤くんの何を知っているのだと、思わずつかみかかりそうになる。
「ねえ田中さん、本当に大丈夫なの?」
心配そうに話しかけてくるのは金髪のマリアさん。いつだって誰にだって優しく接する彼女らしい反応だと感心してしまった。
「大丈夫、髪なんてすぐ伸びるから」
そしてそれに少し悲しそうな顔をしながら返すのが私、田中。本当はあんまり気にしてないのだけれど、それでも気にしてるように返さないといけないのが女子の面倒なところだとつねづね思う。東条さんも、鈴木さんも、マリアさんだって、本当は私の髪にさほど興味なんてないはずだ。だけどそうやってふるまうのは、自分がのけ者になるのが怖いから。与えられた役をきちんとこなしていないと、この小さな学校の中ではすぐに一人ぼっちになってしまう。
「たしかに伸びるけれど、でも時間がかかるでしょう?」
「あの髪型、可愛かったのに」
「男子ってホント荒っぽいんだから」
みんな決められた役の決められたセリフを吐き出していく。いつだってどこだって、きっと大人になったって、この風景は変わらないのだろうと思うと少しだけどんよりとしてしまう。
「ごめんね、お手洗い」
そんな空気に耐えられなくなって、思わず言い訳をしながら席を立つ。いつもなら仲良く一緒にお手洗いに行くところだけれど、今はだれもついてこない。もちろんそういう空気ではないからだ。
この空気がつまらないな、と思っているのは、きっとみんな同じだろう。
第二校舎の一階、古くて誰も近寄らないトイレに入り、くすんだ鏡に自分の姿をうつす。背中まで伸びている黒髪は今朝のようにきっちりと整ってはおらず、ところどころが短くなっていた。鏡に背中を向ければ切られた髪が何本か背中にへばりついている。腕を後ろに回しその一本を摘み取り、まじまじと見つめる。馴染みの美容室ではらはら落ちる髪となんら違いはないはずなのに、なぜだか少しだけ嬉しくなった。この感情が間違っていないかと、もう何本か摘み取ってみる。一本一本は少しずつ長さが違って、だけどその嬉しさは少しも変わることはなかった。
切られて教室の床に積もった私の髪は、クラスメイトが箒とちりとりで丁寧にゴミ箱へと運ばれていた。もったいなかったな、と少しだけ思う。あそこで自分の髪を拾い集めれば、もしかしたら私も佐藤くんのようになれたのだろうか。
そんな想像に意味がないのは分かっている。私はクラスのみんなやお父さんお母さんや先生と一緒で、周りの空気に逆らう度胸なんて持ち合わせていない。ついていくのが精いっぱいなのもあるけれど、それ以上に怖いのだ。空気を壊した私自身が、そして周りが、その後どうなってしまうかが想像もつかないから。責任と罰が、重くのしかかるから。自分の手で動かすことなんてできやしない。周りの人たちと同じように。
私はつまんでいた髪の毛を、そっとハンカチに包み込んだ。
トイレを出て左にある、いつもはだれも使っていない階段を昇る。本当ならクラスメイトが待つ教室に戻らなきゃいけないのだろうけど、髪を切られた女の子という立場の私なら、きっとあの娘たちもそこまでおせっかいをかけたりしないだろう。私が戻らなかったところで、きっとそのまま、私に気を使ったような態度で家へと帰るのだ。そこにある気づかいが嘘だなんて言うつもりはない。彼女たちのルールがそこにあって、私も同じルールがあるという、ただそれだけ。
階段に足をかけるたび、うっすら積もったホコリが舞い上がり、淡い太陽の光に反射してキラキラと輝く。なんて素敵なんだろう。いつだって用務員さんによって清潔に保たれ、舞い散るホコリなんてほとんど見られない第一校舎では、絶対に見られない光景。上へに行くにつれてそのきらめきは輝きを増していく。三階、図工室から木材と金属と木工用ボンドの匂いがする。四階、パソコン室からは涼しげな風が漏れてきている。いつもならクラブ活動の楽しげな声が聞こえてくるところだけれど、私のクラスは早めに終わっただけで、他のクラスはまだ帰りの会の最中なのだ。そう考えるとますます楽しくなってきて、階段を上る私の足はどんどん軽やかになっていく。タンッ、と私が足を置くたび、きらめきは空中へ舞い上がる。
そうして屋上への扉にたどり着く。日に焼けて色あせた緑の扉は私が入学した時する前から、ずっと開かずの扉として知られている。聞いた話だと二十年くらい前にこの屋上から飛び降りた生徒がいたらしくて、以来この扉は用務員さんか先生じゃないと開けられないようになっているそうだ。そういう理由があるから、ここは学校の中でも特にホコリが溜まっていて、鼻の奥が少しだけムズムズする。
逃げ場のない感情が息詰まったとき、いつも私はここに来る。誰にだってある、一人になれる場所。私は踊り場に座り込み、扉に背中を預ける。体重をかけられた扉は、ギィ、と少しだけ鳴いた。
佐藤くんの評判は、ありていに言えば「問題児」だ。授業中の居眠りや先生への口ごたえなんかはしょっちゅうで、他の生徒ともめ事を起こしてはよくとっくみあいの喧嘩をしている。うちの学校はどっちかっていうと大人しい子が多くて、佐藤くんみたいな暴れん坊は少ない。そんな暴れん坊の中でも、佐藤くんは人一倍騒ぎを起こしていた。
そして佐藤くんは、先生たちや親御さんに何故こんなことをしたのかと聞かれると、決まって「やりたかったから」と返すのだ。
佐藤くんがそれ以上の答えを返したところを、私は見たことがなかったし、時折耳に入ってくる先生たちの井戸端会議の中でも、やっぱり佐藤くんはそれ以外の受け答えをしないそうだ。
扉に背中を預けたまま、低くなった夕日にあてられしばらくうつらうつらとしていると、階段の下のほうから足音が聞こえた。こつり、こつり、とゆっくりとのぼるその音は大きな身体の大人のものではなかった。私が上がってくる時とは違う、ゆっくりと、少し湿り気と粘り気を含んだ音。座り込んでおさまっていたはずの鼓動が、また少しずつ熱を帯び始める。こつり、こつり。少しずつ、音が大きくなる。頬が熱くなっていくのが分かる。手にはじんわりと汗がにじみ、それを拭うようにしてポケットの中のハンカチを握りしめる。こつり、こつり。そうして足音は、私の目の前で止まった。
ゆっくりと、伏せていた顔を上げる。そうやって目の前に現れたのは丸眼鏡の似合う顔と、ひょろっとした小さな身体。その身体に走る小さな震えを見れば、佐藤くんが今日どのくらい怖い思いをしたのかは読み取れる。もう始まって一年も経つけれど、今日のはまた一段と酷い。
私が何も言わずにっこりと笑いかけると、佐藤くんは不器用に顔を歪ませて笑った。
「おかえり。お疲れ様」
「……ただいま」
もっとも佐藤くんの返した言葉は、涙混じりのそれだったけれど。
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始まったのは一年生の時の冬。今日とおんなじでとっても寒い日のことだった。外には降り積もった雪が溜まっていて、なおもその雪はかさを増していた。
当時の教室は、ありていに言って刑務所のようだった。先生もクラスメイトも、だれもかれもが他人の目を気にして、上っ面だけのつまらない日々。聞こえのいい言葉とお上品なふるまい。家にいるときと同じ、誰かの望む形に嵌められたお人形たち。私もその一員だったし、この時は佐藤くんもその一員だったように思う。曖昧な表現になってしまったのは、その時の彼はそんな記憶に残らないくらい、影の薄い男の子だったからだ。
その日はそれが特にひどかった。外が寒いのでみんなで身を寄せ合って温まろう、そんな雰囲気でいつもより明るく朗らかな会話をクラスのみんなと楽しんでいたけれど、心の芯はどんどん冷えていくばかりだった。耳から、鼻から、口から。私の体は次第に冷たい空気に侵され、しまいには喉の奥から吐き気がこみあげてきた。気分が悪くなった私は、思わず、彼らに断りを入れずに教室から抜け出した。
ただ遠くに、教室から逃げるように歩を進めると、いつの間にか第二校舎屋上手前の踊り場に立っていた。私は、膝を抱えて座り込んだ。吐き気を無理やり抑え込む。頭の中に後悔が渦巻く。なぜ我慢できなかったのか。いつもなら留まれたはずだった。私が教室を出ていくときの態度は正しくないものだった。教室に戻ったら、いったいどんな目で見られるのだろうか。いや、あのクラスメイトたちのことだ、きっと笑顔で迎えてくれる。大丈夫だよ、気分悪が悪かったんだよね、しょうがないよ。そうやって迎えてくれるだろう。だけど、裏では違うはずだ。あそこは異端を受け付けない。私がそうであるように、彼らもきっと同じなはずだ。溢れる涙を止められない。今だって私のおかしさをみんなで話して、そういう子なんだよ、そっとしてあげよう、なんて、いやだ、なんでわたしが、みんなだって。いやだ、いやだ、嫌だ!
「あの」
ビクリ、と身体が跳ねた。話しかけられた? なんでこんなところに人が、いやそれより誰に? こんな小さくてみじめな私を、誰に、誰かに。
視線を、感じた。
見られた。
私は膝を抱えた姿勢のまま、吐いた。
自分の身体が酸っぱい匂いで包まれる。腕や足はドロドロの気持ちの悪い感触を適切に私に伝えてくる。頭の中がいっぱいで、真っ白になる。自然と口角が上がる。目じりが下がる。涙が流れているのに、顔は笑うことをやめようとしない。気持ち悪い、気持ち悪い。気持ち悪い、私。
私に話しかけた誰かは、まだそこにいるようだった。恥ずかしい。死んでしまいたい。どうか、どうかこれ以上見ないでほしかった。だから、精一杯の強がりで、私はそこにいた彼にこう聞いたのだ。
「何の、用」
「……えっと、その」
少しだけ、彼は言いよどんで、数秒おいて、そして。
「好きです」
どうやったって場違いな、そんな告白をした。
そんな彼はどう考えたって、その時の私よりも気持ち悪くて。
だから私はそれを聞いて、やっと顔を上げることができた。
「きもちわるい」
それが、佐藤くんとの最初の出会い。
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「やっと手、出してくれたね」
「一年経ったから」
彼も、覚えていてくれていた。それだけでたまらなく嬉しくなってしまう。恥ずかしいのか、佐藤くんは視線を反らしそっぽを向いているようだった。
断定できないのは、私も彼を直視できていないから。
いつもなら、二人でここに座りこんで、少しだけ話して、それで終わり。でも、今日は違う。
「今日はね。プレゼントがあるの。記念日だから」
そう言って私は佐藤くんの手をとり、開かないはずの扉に鍵を差し込んだ。彼の肩が大げさにビクリと跳ねた気がした。しばらくぶりに口を開ける扉は、ぎぎぎと音を立てながら、ゆっくりと外向きに開いた。
冬の寒気が容赦なく流れ込み、私と佐藤くんの体に突き刺さる。けれど私には、その寒気はむしろ心地よく感じられた。
彼の手を引く形で屋上へと一歩、また一歩と踏み出す。初めて見る第二校舎の屋上は、第一校舎とほとんど変わらなかった。変わってるのは少し低いフェンスだけ。本当は給水塔の上に上るつもりだったのだけれど、残念なことにそちらには手が届かなかった。来年なら、届くようになっているのかな。仕方がないので屋上の中央まで移動する。彼の手を離し、やっと向き合う。頬の暑さはまだとれず、心臓の鼓動は加速するばかり。それを外の寒気で押し殺して、やっと彼を正面から見ることができた。
しばらくの静寂ののち、口を開いたのは彼からだった。
「……プレゼントって、これか? 開かずの屋上への入場券?」
そう言った顔が、教室でしかられたときに見せたのと同じくつまらなそうに見えたのは、きっと気のせいじゃないと思う。だからわたしは「もちろん」と、精一杯の笑顔で返した。
「もちろん、そんなわけないでしょ? これはただのオマケ。一年がんばってくれた佐藤くんには、こんなんじゃ足りないよ」
彼は不器用に少しだけ笑った。
「それで? じゃあ、一体なにをくれるっていうんだよ?」
彼が精一杯格好付けているのが分かる。ひょろっとして、厚底メガネで、本当なら教室の隅にうずくまっているような彼。そんな彼に、私は一拍だけ置いて返す。
「わたし」
……再びの静寂。でもさっきとは違って、私の頬には焼け焦げてしまいそうな熱気が漂っている。外の寒気は、もう気にならない。
「……それは」
「私を、好きにしていいよ、って言ったの。分からなかった?」
そんなわけないのに、私はいじわるでそう聞いてしまった。彼は首をぶんぶんと横に振った。
「本当に?」
「本当に。」
「記念日、だから?」
「……それもある、けどね」
ポケットの中からハンカチを取り出し、包んであった髪をつまむ。お互いの視線がぶつかる場所へと持ち上げる。彼と私の視線が、私の髪を通して、やっと合った。
「私ね、嬉しかったんだ」
一歩、踏み出す。
「約束。本当は、守れてないよね?」
もう一歩、踏み出す。佐藤くんは動かない。私が指からぶら下げた髪に、もしかしたらその先の私に、視線を釘付けにされ、その眼はゆっくりと見開かれていく。
「でも、ほら、だから。今日は、ね? 記念日でしょ? 初めての」
踏み出す。佐藤くんの息づかいが聞こえる。彼の瞳に写った私は、まるで私じゃないみたいに、不安そうな表情をしていた。
あの時の、膝を抱えていたときと同じ。
でもあの時と違うのは、瞳にはかすかな希望と期待が浮かんでいるということ。それだけで、今は満足だった。
彼の手首を、今度は離さないようにぎゅっと握る。私の後頭部へと誘い、彼が切り落とした箇所へと触れさせる。
「ねえ、"好きにして"?」
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出会ったあの日。服を吐しゃ物でどろどろに汚した私と、そんな私に告白した彼が出会ったあの日。
私がやっとのことで顔を上げたあと、彼は我に返ったように私の吐しゃ物を処理してくれた。彼のカバンに入っていたプリントで固形のものは包み、液体は同じく彼のタオルで。私の体に触れる際、彼は少しだけためらったけれど、私が無言で頷くと、彼はそのままタオルでふき取っていった。
「染みは……、水道までいかないと……」
「いいよ、大丈夫。ありがと」
未だに酸っぱい臭いはとれなかった。
「少し、話さない?」
じゃあ、と言って去ろうとする彼の背中に言葉を投げる。彼はびくり、と大きく震えてから、おそるおそるといった様子で、私の横に腰を下ろした。
「ねえ、どうしてここに来たの?」
「心配、だったから」
「心配だと告白するの?」
「……えっと、その、それは」
告白したときはあんなに堂々としていた彼が、今は私よりも小さく見える。私も、こんな風に見られていたのだろうか。
「……弱そうに、見えたから?」
彼はしばらく眼をあちらこちらに滑らせたけれど、私が彼をじっと見つめ続けると、やがて観念したように、小さくこくり、と頷いた。
「いいよ、責めない。ここには私と君しかいないから。私と君が許せば、誰も責めない。……それとも、自分が許せない?」
もう一度、頷く。
「じゃあ、私も許さない。君が許さないことを、私は許さない。これでどう?」
佐藤くんは泣きそうな顔になる。どうしてこんなにも自責の強い彼が、弱みに漬け込むようなことをしてしまったのか。
「ねえ、好きって、そんなに強いの?」
「……うん。とっても、強い」
三度目の首肯で、彼はようやく口を開いた。私には彼の気持ちは理解することはできなかったけれど、けれどそれが踏み外すことのできる力なのは、理解できた。
だから、少しだけ試してみたくなったのだ。はじまりは、そんな出来心。
「私はね、そんなに好きじゃないよ」
「……」
「でも、好きになってくれたのは嬉しい。私も、好きになってみたい。だから、私が好きになるために。……少しだけお願い、聞いてくれる?」
今度は短く一拍だけ置いて、四度目の首肯。私は自然と笑顔になってしまう。
「ねえ、"好きにして"?」
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彼に髪を切られながら、初めて出会ったときのことを思い出していた。
あのとき約束したのは一つだけ。「学校内で我慢をせず、"好きに"振る舞うこと」。それまで日陰にいるのがお似合いだった彼は、その日を境に学校一の問題児になった。最初はその変わりようにクラスメイトも先生も驚いていたけれど、一年経った今となっては彼の評価はすっかり裏返ってしまった。
悪いことをした、なんて気持ちはない。むしろ彼が羨ましいくらいだ。人形だらけの教室で、一人だけ人間として振る舞う彼。そしてそんな彼に引っ張られるように、クラスメイトも少しだけ、人間になることができた。もっとも、ほとんどの時間はさっきのような人形劇なのだけど。
どうしてあんなことを言ったのだろう、とは最近になってよく考える。佐藤くんに話した表の理由は佐藤くんを好きになるため、裏の理由は、つまらない学校を少しでも面白くしたかったから。でも本当は、もしかしたら、私はどうすれば佐藤くんみたいになれるのかを知りたかったのかもしれない。
好きになれば、好きにできる。彼を見ているとそう思えてくる。私も、誰かを好きになれば、彼のように踏み外せるのだろうか。人間に、なれるんだろうか。
好きにして、と私が問うたあと、彼は「じゃあ、続きがしたい」と言って、カバンの中から家庭科の授業で使う大きな裁ち鋏をとりだした。寒々しい空の下で、ぺたりと座り込んだ私の髪を、佐藤くんが少しづつ、ゆっくり、ざくり、ざくりと切っていく。はらはらと落ちていく私ではなくなった髪が、背中を流れていくのが伝わる。
「佐藤くんはさー、私のどこが好きなのー?」
後ろの佐藤くんに話しかける。鋏は一瞬動きを止めて、けれどそのまま元のリズムで動き出した。
「全部」
「髪も?」
「そう」
「ゲロも?」
今度は、完全に鋏が止まった。
「……気づいてたのか?」
「うん。言わなかっただけ」
あの時の彼の、私の吐しゃ物を拭ったそれらを見る目は、どこか愛おしそうで、それは告白をしたあの時の目と、芯の部分で似ていた。だから「捨てておくから」と言った彼の言葉を、あまり信じてはいなかった。
「結局どうしたの、あれ」
「正直に話したら引くだろ」
「うん、引く。だけど、私は聞きたいな」
普段は、あまり込み入った話はしない。彼はあの時から踏み外せているけれど、私はまだ、踏み外せていないから。
あの一時、佐藤くんと初めて話したあの日は、私は間違いなく踏み外していた。そして、今も。
好きになった、のだろうか。佐藤くんのことを。だから彼になら、踏み外せる?
私はまだ、分からない。
「……持って帰って、匂いをかいだ」
「それだけ?」
「……舐めた」
「それだけ?」
「…………口に含んだ。あ、勘違いするなよ食べてはいないからな、ちゃんと出したからな」
「ほとんど変わんないじゃん。で、それだけ?」
「それだけ。本当に」
「今は?」
「流石に捨てたよ。乾いたら、その、あんまりだったし」
「ふーん。で、今日の髪も持って帰るんだ」
「していいなら」
「ゲロの時は許可なんてとらなかったのに?」
「うっさい」
自分でもなにが面白いか分からないのに、口元がにやにやと歪んでしまうのを抑えられない。彼がこんなにも堂々と喋れるようになった変化にかもしれないし、彼の戸惑った声だったのかもしれないし、彼の私に対する執着だったのかもしれないし、あるいは彼が、踏み外したことを普通のことのように喋ってくれているからかもしれない。
「さっき嘘だって言ったの、あれ、なんだよ」
「んー? 自分で分かってるんじゃないのー?」
「……分かると言えば分かるし、分からないと言えば分からない」
いまいち要領を得ない答え。どういうこと、と私が問うと、彼はポツポツと語りだした。
「たぶん、お前が言ってるのは、俺が、お前に、手を出さなかった話……、だろ?」
「うん、そう」
「俺はそれが嘘だか分からないんだ。ずっと、お前にちょっかいを出したいとは思ってた。髪を切りたいとは思ってた。けど、じゃあ、今日までにしたいタイミングがあったかというと、そうじゃない……、と思うんだ。だから、そういう意味じゃ嘘じゃない。俺は今日、あの時にしたいと思った」
「一年だから」
「多分。でも、もう一つは」
お前がつまらなそうだったから。佐藤くんはたしかにそう言った。
心底、驚いた。私は、そんなにつまらなそうだったのだろうか。佐藤くんがあの約束をして以来、私は学校生活を、少なくとも以前より楽しんでいると思っていたし、その気持ちに嘘偽りはない。だけど、佐藤くんからは、あの時の私はたしかにつまらなそうに見えたのだ。
疑問は、考える前に口から吐き出された。
「ずっと?」
「ずっと、っていつからだ」
「会ってから」
「んー……。いや、そうじゃなかった。俺がやりたいようにやりだしてからしばらくは楽しそうだった」
「いつから?」
「いつから、ってわけじゃない。けど、最近だんだんとつまらなそうな顔になっていったと思う」
「今も?」
「ん?」
「今も、そう見える?」
気になった。どうしようもなく。彼と私だけの今、私はどういう表情をしているのか。
「いや、楽しそうだよ。今まで見てきたので一番」
……それを聞いて沸き上がった感情は、今まで感じたことのないもので、どうしようもなく熱くて、苦しかった。
「……鋏、貸してくれる?」
「なんで」
「いいから」
振り返り、佐藤くんからなかば無理矢理裁ち鋏を奪う。切れ味を確認するように、開いて、閉じる。開いて、閉じる。シャキン、シャキン。うん、大丈夫。
頭の後ろに手を回し、半端に残った髪を左手でまとめてつかむ。鋏を握った右手も後ろに回し。そして。
シャキン。
その音一つで、私の手の中に握ったものは、私ではなくなった。目の前には驚いた佐藤くんの顔。
「ごめんね、楽しみ、奪っちゃって」
「あ、いや、そんなことより、お前」
「んー、と、さ」
今まで踏み外してこなかったから、こういうときの台詞は用意できできていない。それでも、舞台から降りた私は、私の言葉で語るしかない。
「佐藤くんばっかりやりたいことしてるの、ずるくない?」
「……自分の髪、切りたかったのか?」
「んー、そうじゃないと思う。でも、今はずるいなって思って、切りたいなって思った。佐藤くんがしたいことを、私も、したいなって」
恥ずかしい。けれど、それはあの日とは違う、どこか暖かさを感じる恥ずかしさで、こんなのもいいなって、そう思えた。
「だから、今からすることも、本当はどうか分んないけど、でも、許してね?」
佐藤くんの返事を待たず、私は左手につかんだ自分だったものを、少しだけ口に含み、そして顔を近づけ。
キスを、した。
自分の髪の味がして、それから、佐藤くんの口の味がして、それから、ゆっくりと唇を離す。苦くて、しょっぱくて、でも甘い。佐藤くんの口の周りには、さっきまで左手に握っていた髪が張り付いていた。
「な、にを」
「やりかったから」
彼がいつも使っている台詞を、そのまま彼に返す。
私が佐藤くんを好きなのか分からない。私が髪を食べたかったのか分からない。私が、私が彼とキスをしたかったのか分からない。
でも。
「やりたかったから。それだけじゃ、理由は足りない?」
もう、自分でも分かる。私の顔は今きっと、満開の笑顔だ。
「ねえ、佐藤くん。私きっと、これから好きにできそうなの。君みたいに、やりたいように。ね、だから」
「好きにしてくれて、ありがとう」
不安がないわけじゃない。だけど、今なら、今からなら、きっとそんな不安を消しとばして、踏み外せる気がした。
彼となら。
いつの間にか空からは真っ白な雪がちらちらと降り、屋上には薄く雪が積もっていた。
好きにして 大村あたる @oomuraataru
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