日常的な風景で、幻想的な体験を

旅ガラス

日常的な風景で、幻想的な体験を

「疲れた…………」


 仕事帰り。


 今の会社に就職することができて1年、仕事には慣れ始めてきたのだが、毎日必ず残業させられているので身体がボロボロだ。

 今日も1番最後まで残っていた。

 同僚は次々と辞めていく中、俺は3年間頑張れば次の転職も可能性が広がるという話を聞いて、何とか頑張っている。

 まぁ実際のところ、その話自体も眉唾と思ってもいいかもしれないが。

 中には早いうちに転職した方が良いという人もいる。

 結果どうなるかは自分次第ということだ。


 それでも明日は無理矢理有給を勝ち取った。

 上司は相変わらず嫌味ったらしいことを愚痴愚痴とこぼしていたが、流石に1年も一緒にいたら右から左に聞き流すスルースキルが身に付いてくる。

 明日はどうしても外せない用事があるんだよクソが。


 俺は残業で疲れた体をなんとか動かしながら、ギリギリ終電に乗り込んだ。


 車内には誰もおらず、俺1人の貸切と言っても同義であろう。


 マナーとしては最低に悪いが、誰もいないということ、この時間帯に駅から乗り込む人の量が極少であることを知っていた俺は、席に倒れこむようにして寝っ転がった。

 もちろんベッドに寝っ転がるように横になったわけではなく、上半身のみを席に倒れこんだ形だ。

 それでも人が見ればだらしないことには変わりないしこのご時世だ、ネットに晒される可能性もあるが、今の俺はそんなの気にしないほどに疲れている。

 最寄り駅に着くまでの1時間、寝かさせてもらおう。


 目を閉じると電車の揺れに合わせるかのように意識が遠のいていく。

 カタン、カタンと心地よく鳴る音と全自動の振動機。

 気付けば静寂と無振動の世界に落ちていた。



 ーーーーーーーーーーーー



 どれくらい経ったのだろうか。


 ふと目が覚めた俺は、頭のほうに変な違和感があるのを感じた。

 なんというか…………座席の柔らかさとは違う…………そう。

 人肌のようなプニプニとした感触だ。


「あら、起きました?」


 女性の声だ。

 プニプニとする感触とは反対側の耳から女性の声がする。

 下になっているのが右耳だから、聴こえてくるのは上になっている左耳。

 チラリと目線を下にすると、本来であれば座席の緑色が見えるはずなのに、視界に映るのは肌色。


 カタン、カタンと揺れるたびに俺の頭には至福の感触が脳に直接伝わってくる。

 俺が少し頭を動かして声の方向を見てみると、そこには女性の顔があった。

 そりゃ女性の声で男性だったらどえらいことだが、女性の顔があるのもどえらいことだ。


 寝起きの混乱している頭で今の状況を整理しよう。


 つまりこれはあれだ。


 膝枕だ。


「す、すいません!」


 俺は勢いよく飛び上がり、危うく女性と頭をぶつけてしまうところだった。


「だいぶお疲れだったようですね。私が頭を動かしても全然起きませんでしたから」

「これはどういう…………」


 辺りを見回す。


 まだここは電車の中だ。


 変わらず人は他におらず、いるのは俺とお姉さんだけ。


 そして、一目見て分かったのは彼女が車掌であるということだ。


 制服を着て帽子を被っている彼女はとても似合っていて、だけどどこか制服に着させられているような、着慣れていない感じがまた初々しかった。


「なんで……なにが……は?」

「ふふ。戸惑ってますね。別にどうこうするわけじゃないんですけど、車内を回ってたらあなたが気持ち良さそうに眠ってたので、つい膝枕してしまいました」


 どうなったらそんな結論になるんだ?

 いや、別に悪いってわけじゃないし、むしろありがとうございますとお礼言ってもいいんだけど、まだ頭が追いつかない。


「降りる駅はどこですか?」

「まだ先だと思うけど…………」


 周りの景色は暗くて分からないが、腕時計を見る限り、まだ最寄り駅に着くまでは時間があるだろう。


「じゃあどうぞ」

「え、何が?」

「膝枕ですよ。疲れているのでしょう? あなただけに特別なんですからね」


 お姉さんがはにかむ。


 なんだこれは。


 夢か。


 夢なのか。


 明晰夢か。


 こんな状況が現実にあるわけがないからな。


 夢で間違いないだろう。


 だったらやりたいようにやっても問題ないよな。


 お姉さんに膝枕してあげると言われて断る男がいるのかよ?


 いないよな。


 例えのちほど怖いおじさんが鬼のような形相で入ってきたとしても、俺は後悔なんてしないだろう。


「それじゃあ失礼をば」

「ええどうぞ。あ、靴を脱いでいただければ足も座席に乗せて構いませんよ」


 至れり尽くせりかよ。


 俺はお姉さんの膝に頭を載せ、足を座席の上に乗せた。

 完全に実家のようなくつろぎ加減だ。


「どうですか? 心地良いですか?」

「もう最高だね。疲れなんか吹っ飛ぶよ」

「それは良かったです」


 お姉さんは俺の髪を優しく手でいた。

 その力加減はまるで、小さな子を相手にしているかと思うほど優しく、思いやりが込められているかと錯覚してしまうほどだった。


 それから5分近く、電車の移動音のみが響いた。

 何処かの駅に停車することなく、俺達が喋ることなく、ただただ移動音のみが。

 その静寂を破ったのは彼女だった。


「…………実はですね、私には弟がいたんですよ。結構歳の差もあったんです。6つぐらい離れてたんですかね」

「へぇ…………。いた、というのは?」

「…………それが、とある日にはなばなれになってしまいまして……。これから先、もう一度会えるかも分からないんです」

「それは…………なんていうか、切ない話だな」

「それで、ここで寝ていたあなたを見て、ついその弟に似ていたので思わず昔に弟にしていたように膝枕してしまったんです」


 彼女がエヘヘと笑う。


 なるほどね。

 ただそこらへんに転がってる男を誰かれ構わずこうしてるわけじゃないってことか。


「そんなに似てるのか?」

「それはもう。あの子が成長したらこんな感じになるんじゃないかって思うほどです」

「へぇ、さぞかしイケメンな弟さんなんだろうね」

「そりゃあもう!」

「肯定するのかよ……」


 フフッと彼女が笑う。


 俺も思わず笑みがこぼれた。


 この笑みは決してお姉さんの膝枕が良くてこぼれた変態的な笑みではなく、この雰囲気が心地良かったためにこぼれた笑みであると明言しておこう。


「ただ一つ……心残りがあるんです」

「どんな?」

「その…………最後に弟と離れ離れになる直前、弟と喧嘩してしまったんです」

「喧嘩ねぇ」

「今まで弟とずっと仲良かったんですけど、その時だけ些細なことで喧嘩になってしまって…………そのまま弟とは仲直りすることができずに別れてしまったんです」


 横目で彼女の顔をチラリと見ると、彼女の目が潤んでいた。

 恐らくその時の事を思い出してしまっているのだろう。


「些細なことって…………どんな内容?」

「本当に小さなことなんです。弟が学校で描いてきた絵を、嬉しそうに私に見せにきた時、私は受験勉強でピリピリしていて、邪魔だから向こう行ってって怒鳴ってしまったんです。ハッと気付いた時には弟が家から飛び出していってしまって…………私も直ぐに後を追ったんですけど…………」

「……………………」

「私があの時怒鳴らなければ……今でも弟と一緒に……」



 彼女の声は震えていた。


 自分が怒鳴ってしまったせいで、弟と会えなくなり、それからずっと自責の念に駆られていると。

 そういうことなんだろう。


「なぁ……弟と離れ離れになったっていっても、弟は別に死んだわけじゃないんだろう?」

「え? ええ、そうですね。たぶん今でもどこかで元気にしていると思います。でももう会うのは難しいのかなと。それなのに私は弟と仲直りすることもできないまま別れてしまったんです。それが心残りで…………あの子はもう、私のことなんて嫌いで忘れてしまっているのかもしれません」

「そんなことはないと思うけどな」

「え?」


 思わず俺は言葉を口に出してしまっていた。

 ほぼ無意識だ。


 俺は頭を起こし、彼女の隣に座り直した。


「だって、その弟とお姉さんはそれまでずっと仲良かったんだろ? たった一度の喧嘩ぐらいで嫌いになるなんて思えないけどな」

「でもそれぐらい酷いことを言ったんですよ?」

「だとしてもだよ。そんなん一日でも頭を冷やせば忘れるさ。だってさ、そいつまだ子供だったんだろ? それに、お姉さんが今でもそんなに弟のことを想ってるんだ。そいつもきっと今、同じようにお姉さんを想ってるよ」


 俺はまるで自分に言い聞かせるように彼女に言った。


「そう……なんでしょうか」

「そうだって。俺が保証するよ。俺が保証したからなんだって思うかもしれないけど、保証する」

「フフ……可笑おかしな人ですね」


 彼女は宝石のような涙をこぼしながら、俺に微笑みかけた。

 その表情に思わずドキリとする。

 人並みな言葉しか言えなかったが、どうやら彼女の心には響いたようだ。


「元気付けるつもりが、逆に元気付けられてしまいましたね」

「充分俺も元気貰えたからさ、おあいこだって」


 俺達はお互いに笑い合った。


 そして突然電車のアナウンスが鳴り、俺の最寄り駅にまもなく着く放送がかかった。

 この時間も無限ではない。

 終わりが近づいているということだ。


「お、もう降りる駅だ」

「なんだか丁度いいタイミングでしたね」

「ありがとう。明日からも頑張れそうだ」

「こちらこそです。とても楽しかったですよ」


 電車は止まり、自動ドアが音を立てて開く。

 俺は後ろ髪を引かれる思いで電車から降りた。

 まだ夢は覚めていない。

 振り向くと、車掌のお姉さんが笑顔で手を振っていた。

 俺はそれに恥ずかしくなりながらも小さく手を振った。


「さようなら!」

「ああ……」


 自動ドアが再度音を立てて閉まる。

 電車は動き出し、彼女の姿は電車と共に消えてゆく。


 ホームに残された俺は一言、見えなくなってしまった彼女に向けて呟く。


「さよなら……姉さん」


 俺は寒さのせいか、目元を赤くしながら鼻をすすり、自宅へと最寄駅から歩いて帰った。



 ーーーーーーーーーーーーーーーー



「あんた久しぶりじゃないのさー! そんなに家遠いわけじゃないんだから小マメに顔出しなさいよー」


 次の日、俺は1年ぶりに実家へと帰っていた。

 大切な用事があり、毎年この日は必ず家族で過ごすのだ。


「色々忙しいんだって。親父は?」

「居間にいるよ。お父さんは後でいいから、先に挨拶するところ、あるでしょ?」

「分かってるよ。そのために帰ってきたんだから」


 俺は居間の隣にある和室へと足を運んだ。

 そこには一つの仏壇がある。


 俺の姉の仏壇だ。


 姉は今から10年前、俺が12歳の頃、交通事故で亡くなった。


 原因は言わずもがな、俺にある。


 姉に怒鳴られた俺は家を飛び出し、一心不乱に走り続けた結果、赤信号だと気付かずに横断歩道を渡ろうとしてしまった。

 そして乗用車が突っ込んできたのだが、後を追ってきた姉が俺の服を掴んで後ろに引っ張ったおかげで俺は引かれずに済んだのだ。


 だが、そのせいで姉は…………。


 目の前で勢い良く撥ねられる姉の姿は未だに鮮明に浮かんでくる。

 俺は助けを呼ぶことも、姉の側に寄ることができなかった。

 ただただ呆然とその場に座り込み、周りの大人達が何か色々やっているのを眺めているだけだった。


 それからというもの、俺は夜になると毎回姉が撥ねられる瞬間がフラッシュバックし、あまりにも普段の生活に影響が出てしまうため病院で診てもらった結果、PTSDであると診断を受けた。


 そのため両親を含めて多くの人達に迷惑を掛けてしまっていたが、両親の献身的なサポートにより俺は社会復帰することができた。


 そして今では毎年、姉の命日には仏壇の前に座り、当時のことを謝罪し続けている。


 自責の念に駆られていたのは俺のほうだったのだ。


 そういうわけで、昨日の電車の中で見た姉は何故か当時の姿のままで、どうやら向こうは最後まで俺に気付かなかったようだ。

 彼女の中では俺はずっと12歳の姿のままだったのだろう。

 俺は見た瞬間にすぐ気付いたが、もしも姉が俺のことを恨んでいて、膝枕していたのが本当の弟だと気付いた途端に責め立てられたらと思うと、言い出すことは出来なかった。


 結局のところ、昨日の出来事は疲れから俺が産み出した妄想だったのだろうか。


 または10回忌という節目に姉さんが俺に会いに来てくれたのだろうか。


 姉さんに膝枕されたなんて母さんと親父に言ったら、なんて顔をするだろうか。


 病院を勧められるだろうか。


 親父は羨ましがって怒りそうだ。


 何はともあれ、俺は感謝している。


 再び大切な人に会わせてくれた、あの場所に。


 次にもし会えたなら、今度は俺から謝ろう。


 もしチャンスがあるなら仲直りしよう。


 こんな現世からの一方通行のやり取りでなく、お互いの顔を見ながら話し合える、あの電車で。

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