x+4日目
「ジュンイチさん、おはよう」
睡眠薬で眠らされていたジュンイチは、ソウコのクローゼット越しの挨拶で目を覚ました。
扉の方に顔を向けて目を凝らすと、僅かな隙間の前を影が横切るのが見えた。直後、寝室のドアが開閉する音が響く。
クローゼットは開けてもらえなかったかと、ジュンイチは鼻で溜息を吐いた。
もしもソウコと話すことが出来たのなら、直接ミオナはいつ解放するのかを尋ねてみようと思っていた。
昨晩はソウコの恐ろしさに凍り付いてしまい、何も言えなくなってしまったことが悔しい。
今日、ソウコは何をするつもりなのだろうか。どうやら今すぐ仕事に行くわけではないようだが……ジュンイチは外に耳を澄まして、ソウコの動きを警戒する。
ソウコの足音や生活音を聞く限りでは、彼女はいつも通りに動いているようだった。
「~~~~、~~~~~~」
「……~~~~~~~~~」
リビングで目を覚ましたミオナに、ソウコは挨拶をした。
一拍置いて、ミオナもそれに応える。
相変わらず言葉までは分からなかったが、ソウコはジュンイチの時と同じ声色だった。機嫌はいつも通りのようだ。
その後は二人とも一度も会話を交わさず、テレビの音声が小さく流れていた。
今は大丈夫のようだが、もしもソウコがミオナに危害を加えようとしたら、僕はどうすればいいのだろう。ジュンイチは眠る前からずっとその事を考えていた。
何か音を出すのは、逆効果になってしまうかもしれない。
しかし、日曜日ならば、顔を合わせたことのない上の部屋の住民が、いるのかもしれないと、ジュンイチはクローゼットの天井を見上げた。
しばらくは静かな時間が流れていたが、それは突然鳴った玄関のチャイムの音に破られた。
リビングの緊張と同じように、ジュンイチも体を強張らせた。背中に回されたままの両手は、嘘のように震えて止まらない。
今来たのは宅配便か郵便だろうか? ソウコは昔、ネット通信は信用出来ないと話していたのに……。
ジュンイチはそんなことを考えながら、ソウコの出方を伺う。
「~~? ~~~、~~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~。~~~~~~~~~~」
ソウコはミオナに対して、そう脅しをかけたようだった。あるいは、自分のように口にガムテープを貼られたのかもしれない。
そして、訪問客に応じるために、リビングを出て廊下を歩いて行った。
ジュンイチはどうするべきかを決めあぐねていた。
ここから自分の存在を訪問客に知らせても、助けてくれるだろうか。ソウコに誤魔化されはしないか。
それよりも、これによってミオナに危険が及んでしまわないか。狂気に駆られたソウコが、ミオナを襲う可能性は……。
ジュンイチは自分の想像に鳥肌を立てた。
ミオナの無事が確認するまでは、何も出来ないままだ。
「~~、~~~~~」
玄関のドアを開けたソウコは、驚きの声を上げていた。
どうやら、訪問客は彼女の知り合いのようだ。
「~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~」
聞き覚えのない中年男性の声が、ソウコのことを責めるような口調で話す。
するとソウコは、珍しく動揺していた。
「~、~~~~~、」
「~~~~~~~~~~」
「~~~~~~~~~~~」
男性はソウコの知り合いなのか、無理にでも室内に入って来ようとする。
それをソウコが必死に止めようとしている様子だ。
これはチャンスかもしれないと、ジュンイチが思った直後、リビングから何度も床を叩く音が響いた。
ミオナが助けを求めている。ずっと腰を曲げたままだったジュンイチは、自分が勇気づけられたようにしゃんと背筋を伸ばした。
次の瞬間、玄関が大きく開かれた。
「~~? ~~~? ~~~?」
「~~~~~~!」
誰かが室内に入ってきて、ソウコが驚きの声を上げた。
廊下を走る二人分の足音の後に、ジュンイチが聞き覚えのある若い女性の声が大きく響いた。
どういうことだ? 訪問客は一人じゃなかった? 今の声は、一体誰だったんだ?
困惑するジュンイチを放っておいて、リビングのドアが開かれた。
「……~~~?」
ジュンイチの知らない声の女性が、そう呟くのが聞こえた。
ミオナと知り合いなのか? と、ジュンイチは暗闇の中で首を捻る。
その後は、様々な声や音が続けざまに聞こえてきて、ジュンイチはそのイントネーションや誰が話しているかすら把握出来なくなった。
しかし、鋏で結束バンドを切る音は分かり、ミオナは無事に解放されたようで、ジュンイチは一先ずほっとする。
その後に、力ない足音と、それよりも体重の重たいような足音が廊下を歩いて行った。
どうやら、ずっと玄関にソウコと、彼女と話していた男性もリビングに入ったらしい。
「~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~、」
「~~~~、~~~~~~~」
中年男性が何か話し始めたのを、ミオナが力強く遮った。
そうか、この場に男性がいるのだから、ミオナがこれ以上危険な目に遭うことはないのかと、やっとジュンイチは気が付いた。
「……~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~~。~~~~~~~~、~~~~~~~~?」
震えているが、はっきりとしたミオナの声が、ジュンイチの元にも届いた。
ああ、彼女はもう大丈夫なんだと、安心したジュンイチは、これが最後のチャンスだと、足を上げて、クローゼットの壁を力いっぱい叩いた。
想像以上に大きな音が、二〇一号室に響いた。
辺りは一瞬静かになった。
そして、誰かが走ってリビングを出て、廊下へ向かう。寝室のドアが、間を置いてクローゼットのドアが開かれた。
「ジュンイチさん!」
ミオナは、今にも泣きだしそうな顔で、拘束されたままのジュンイチに抱きついた。
ああ、良かった、もう全てが終わったんだと、ジュンイチはもう会えないと覚悟していた恋人の温もりを感じていた。
寝室には、二人の女性が入ってきた。
その背の高い方の女性は、ジュンイチが仕事で会ったことのあるイシカワという名前のOLだった。
もう一人の背の低い方は初対面だったが、大きな瞳がミオナとよく似ていた。
どちらも驚いた、目を丸くしたまま立っている。
その後、寝室の出入り口前に、ソウコが現れた。
彼女の姿を見た瞬間、ジュンイチの心臓は早鐘を打つが、ソウコは力なく立っているだけで、その隣には見知らぬ中年男性が立っていたため、抵抗出来ないようだった。
ソウコは、笑みを浮かべていた。
しかしそれは、ジュンイチが今まで恐れてきた、虚ろな笑みではなく、心から安堵したような、優しい笑顔だった。
直後、ジュンイチは雷に打たれたかのように、動けなくなる。
監禁されている間、ソウコは自分のことを何度も好きだと言いながらも、無理矢理キスをしてくることはなく、必要最低限しか触れてこなかったことに気が付いた。
こちらは動けないのだから、ソウコのやりたいことはほぼ何でも出来るはずなのに……。
「ニイザキさん、大丈夫?」と言いながら彼に歩み寄るイシカワも、まだ信じられないといった顔で立ち尽くすミオナに似た女性も、スマホを取り出して「もしもし警察ですか?」と喋り始めた男性も、抱きついたまま涙を流す目の前のミオナも、その瞬間だけは見えなかった。
ソウコの笑顔だけを見詰めながらも、彼女がどうして安心しているのかは、結局分からないままだった。
彼女は犬を飼っている 夢月七海 @yumetuki-773
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