x+3日目


 朝からジュンイチは一度もソウコと会話を交わしていなかった。

 背中の壁に頭を預けて、今日は土曜日だったことをぼんやり思い出す。今の状況から、程遠い事実のような気がした。


 そういえば、先週ミオナの家に招待された際に、彼女が次の休みの日の夜、一緒に会わないかと提案されていたことを思い出した。

 その時は、まだ仕事の予定が不安定だったため、また後日連絡すると話した。確か、ミオナの休みの日は、四日前だったはずだ。


 何か連絡などを入れていたのかもしれないが、スマホを奪われてしまったジュンイチには、それすら確かめようがない。

 ミオナは一度も返事が来ないことを、怒るというよりも心配していたのだろう。

 その後に起きた彼女の心情を考えると、今はその事すら忘れているのだろうが。


 ソウコはどうだったっけと、ジュンイチは無意識にクローゼットの扉側に顔を向ける。

 ジュンイチの返信が遅くなったときは、文面が少しそっけなくなっていた。

 昼間に充電が切れてしまい、夕方にやっと返信できた時は、ソウコは敬語で話してきた。直接非難がない分、酷く恐ろしくなったのを覚えている。


 昔のことを思い出しながら半日を過ごしていると、夕方にソウコが帰宅する音が聞こえた。

 この瞬間がジュンイチは一番緊張するが、廊下を歩く足音から、今日のソウコの機嫌は普段通りだろうと判断した。


 寝室に入ったソウコは、いつも最初にクローゼットの前に立つ。


「ジュンイチさん、ただいま」


 そして、ミオナには届かないほどの小さな声で、クローゼットの扉越しにジュンイチへ挨拶をする。

 その時の声色は、以前二人が恋人同士だった時と全く変わらない温度で、それがジュンイチには嫌悪感を抱かせた。


 もう、二人は二度と戻れないのだと、ジュンイチだけが知っている。

 そもそもこのような凶行に走っている時点で、ジュンイチはソウコを受け入れることが出来ないのだ。

 ソウコが自分に何をしようとしているのか分からないが、それがどうであれ、彼女からの再告白を断ろうと、ジュンイチはすでに決意していた。


 着替えを終えたソウコは、足早にリビングへと出ていった。

 彼女はそのまま、リビングに入り、ミオナと一言二言喋っている。

 それが終わると、ソウコは台所に行き、何か料理を作り始めた。


 付き合っていたころは全くしなかった料理を、毎日のようにソウコはしているなと、思いながらジュンイチは鍋を火にかける音を聞いていた。

 そういえば、ソウコに眠らされる前に、ミオナの手料理が好きなんだという話をしていた。


 もしかしたら、それをきっかけで、ソウコはミオナを攫い、料理を習おうとしているのではないのかという憶測が出た。

 あの一言がきっかけでソウコが今の計画が立てたのならば、自分は何て迂闊なことをしてしまったのだろうと、ジュンイチは項垂れる。


 自分がミオナを巻き込んでしまったのだと考えてしまい、ジュンイチがクローゼットの中で縮こまっている間に、ソウコは料理を終えたようで、キッチンからの音は消えていた。

 やはりミオナのことが気になってしまい、ジュンイチは再度耳を澄ます。


「~~~~~~~~~~~~~ー」


 鼻唄交じりに、ソウコが何か言いながら歩いているのが聞こえた。

 昼夜問わず外の音に神経を張り巡らせていたジュンイチは、誰の声かだけでなく、どこで言葉を切ったのか、語尾を伸ばしているかどうかまで分かるようになっていた。


 昨晩の言い争いが嘘のように、今日のソウコは機嫌の良いことが気になった。

 だがジュンイチには、それが無理をしているようにも感じられる。


「~、~~~~~~~~~~~~~~~~」

「~~」


 ソウコが何かを頼み、ミオナが返答した。

 ガチャガチャとスプーンが皿と当たる音がして、ミオナは味見をさせられているのだと、ジュンイチは予測を立てる。


「~~? ~~~~?」

「~~、~~~~~~」


 ソウコの問いに、ミオナは料理を噛みながら答えていた。言葉の調子から、肯定なのだろうか。

 ジュンイチは普段通りのソウコの声色にほっとしていた。先程の鼻唄が無理しているように思えたのは、結局杞憂だったらしい。


 もう一度、スプーンを動かす音が聞こえた。

 しかし、その直後に、スプーンを床に叩きつけるような音が、部屋の中で響いた。

 ジュンイチは思わず、リビング側の壁の方に顔を向けた。


「~~~~~~~~~~~~! ~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~!」

「……」

「~~~~~~~~~~~~? ~~~~~~~~~~~~~~~~?」

「……」


 怒りと悲しみが混じったソウコの激昂に、ミオナは黙って耐えていた。

 初めてソウコが声を荒げる瞬間に接して、ジュンイチは体の震えが止まらなかった。言葉まで聞き取れない分、彼女への恐怖が増幅する。


「~~~、~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~?」

「……~~~~~~」


 ソウコの声とは真逆の、寝室のクローゼットに何とか届くほどの小声でミオナが答える。

 ジュンイチは自分の心臓の鼓動が、だんだん大きく早くなっていくのを感じていた。

 怒りに任せてソウコが、ミオナを包丁で刺してしまうという嫌なイメージが、何度も頭の中に浮かんでは消える。


「~~~、~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、~~~~~~~~?」

「……~~~~~~~~」


 何とかソウコの意識を、ミオナから他の所へと移せないかと、ジュンイチはクローゼットの中を見回す。

 そして、足を伸ばして鞄を倒してみることを思い付いた。


 これは一種の賭けだった。これに驚いたソウコが寝室に来たら、彼女を宥めて、鞄が倒れたことをミオナには適度に誤魔化してもらおうと考えた。

 もちろん、自分の存在をミオナに知らせてしまえば、ソウコから口封じされてしまう可能性もある。しかし、恋人の危機に何もせずにはいられなかった。


「~~~~~~~~~!」


 ソウコが何かを叫び、ジュンイチが伸ばした足の小指が鞄に触れた瞬間、リビングの方で携帯電話が振動する音がした。

 ジュンイチははっとして、足を元の位置に戻した。


 リビングからは先程の騒ぎが嘘のように、静まり返っていた。

 ソウコが携帯に届いた、恐らくメールか何かに返事を打っているのだろう。


「……~~~~~~、~~~~~~~~~」

「……~~」


 落ち着きを取り戻したソウコの声と、体に危害は加えられていない様子のミオナの小声が聞こえて、ジュンイチはやっと鼻で深呼吸が出来た。

 携帯電話に連絡を入れてくれた誰かに深く感謝しながらも、彼はソウコが何故これほどにまで取り乱していたのかが気になった。


 ソウコが直接何に怒ったのかは分からないが、ジュンイチは遠因になったのは昨日の自分の態度なのかもしれないという考えに至った。

 好きな人からあんなことを言われれば不機嫌になるのも当たり前だと、ジュンイチは自分の迂闊さを反省する。

 ソウコの好きな相手には気丈に振る舞うという性格上、怒りの矛先がミオナになってしまうのは必然のことなのに。


 この二〇一号室内の捻じれた三角関係に終止符を打つ方法を、ジュンイチはミオナと共に監禁されている理由を知った頃から、なんとなく分かっていた。

 だが、ソウコの歪んだ思いから、それを実行することは出来なかった。


 しかし、もうなりふり構っていられない。今一番危機に晒されているのはミオナなのだ。

 ジュンイチは今夜、自分の気持ちを偽り、ソウコにもう一度告白しようと決めた。

 そして、上手く彼女を誘導し、無事にミオナを解放させよう。


 彼はそう決意したが、その直後からミオナのことが頭から離れなくなっていた。

 嬉しい事があると万歳をして、嫌なことがあるとふくれっ面を見せて、映画の内容にハンカチを握りしめながら泣きじゃくる。ミオナは忙しなく万華鏡のように表情を変えた。

 彼女はいつも正直で、嘘はもちろん見栄を張ったり強がったりせずに、いつでも自然体だった。


 ジュンイチがそんなタイプの女性と付き合うのは初めてだった。

 丁度ソウコの生真面目すぎる性格に辟易していたから、全く正反対のミオナに惹かれたのだと納得していたのだが、どんなことでも一生懸命向き合ってくれる彼女が眩しく見えただろう。


 付き合って一周年の食事会をソウコと行ってから数日後だった。

 背広を新調するために、ジュンイチはミオナの働く店を訪ねた。


「ニイザキさん、少し痩せましたか?」


 ジュンイチが用件を伝えて、ウエストを測り直す前にミオナは尋ねた。

 「痩せた?」という質問は、元々痩せ型であるジュンイチにとっては誉め言葉とはまた別の意味を持つ。

 よって久しぶりに店に来たにも拘らず、自分の体形を覚えてくれていて、さらにそのことを心配してくれているミオナに驚きながら、ジュンイチは苦笑して肩を下げた。


「最近仕事が立て込んでいたからね。あまり食事も摂っていなくて」

「ご飯が食べられないくらい、忙しかったんですか?」

「いや、休める時間が僅かにあったんだが……元々食が細い方だったから、あまり食べる気もしなかったんだ」

「だめですよ、それじゃあ」


 軽い愚痴のつもりのジュンイチの言葉に、ミオナは怒った顔で言った。

 ミオナのことを顔見知り程度に思っていたジュンイチは、それがより意外に感じ、言い訳をするように答える。


「そうは言っても、コンビニで売ってるものとかはあまり食べる気になれなくて。こう言ったら気取っているように思えるかもしれないけど、食が細い分、一回一回の食事にはこだわりたいんだよ」


 ジュンイチは前置きをしながらも、自分の正直な気持ちを話していた。そのことに自分自身が一番驚いていた。

 一瞬、この話はソウコにもしていなかったなという言葉が頭をよぎった。


 ミオナはそれを聞いて大きく頷いていた。


「ニイザキさんの気持ちも、よーく分かります。でも、やっぱり食べるのが一番ですよ。コンビニのものが苦手なら、自炊してみるのも一つの手だと思います。簡単なサンドイッチでも、随分変わりますから」


 ジュンイチのこだわりを否定せず、ミオナはアドバイスまでしてくれた。

 その時ジュンイチは気が付いた。ミオナは上辺だけの接客技術を用いて話しているのではない、親身になってジュンイチにとっての一番良い答えを探してくれているのだと。

 これが彼女の優しさなんだと思うと、自然と肩の力が抜けていった。


「フジミネさんは、料理よく作るの?」

「はい。料理は、とても楽しいですよ。自由に試せて、ちょっとした工夫でもすごくおいしくなるのが面白いです」


 無邪気に話すミオナを見てジュンイチは、彼女は料理が本当に好きな事なのだということが分かった。

 そして、ジュンイチはミオナの料理を食べてみたいと思っていた。


 ……思えばあれがきっかけだったのだろうと、クローゼットの中でジュンイチは目の前のコートを見上げながら思い出していた。

 ミオナのことを知れば知るほど、彼女のように気取らずに生きてみたいと思うようになった。

 ただ、その後に彼がしたことはソウコのことを隠した上で、二股をかけたままの交際だったのだから、理想とは遠く離れているなと、ジュンイチはガムテープの下で苦笑する。


 ソウコとよりを戻せば、もう二度とミオナには会えないのだろう。特に説明もせずに、一方的に別れを告げることになる。

 そうなれば、ミオナを最後に見たのは、昨日部屋に入ってきたあの怯えた顔になるのだろう。結局、一番好きだった彼女の笑顔は、見ることが出来ない。


 この先のことを想像するジュンイチの唇が震え、喉の奥から嗚咽が込み上げてきた。

 涙も零れそうになり、慌てて上を向いて洟を啜ると、埃臭さと混じって微かにソウコの匂いがした。












「昨日はごめん」

「……いいのよ。私も変にカッとなっちゃったから」


 クローゼットを開けて、ガムテープを口から外してくれたソウコに、ジュンイチはまず謝った。

 しかし彼女は、目を合わせずに足元に置いていたペットボトルの蓋を開けようとする。


「ちょっと大事な話があるんだけれど、」

「それより先に、ご飯を食べない?」


 ジュンイチが話そうとすると、ソウコは容赦なく遮った。

 仕方なく頷いて、彼女の差し出すペットボトルから水を飲む。


 昨晩とは別種の緊張感を孕んだまま、ジュンイチは食事をしていた。

 ミオナは今、夢の中にいるのだろうかと一瞬だけ考える。


 食べ終わって空になったカロリーメイトの箱を、いつものように綺麗に畳んだ後に、ソウコはジュンイチの目は真っ直ぐに見詰めた。


「ジュンイチさん、さっきの話って何?」


 その瞳には罪悪感の揺らぎがなく、直視したジュンイチは怯みそうになりながらも、口を開く。


「僕とよりを取り戻してほしい」


 途端に、ソウコの瞬きの数が増え、頬が見る見るピンク色に染まった。

 やはりこれが、彼女の一番望んでいた言葉なのだと、ジュンイチは手ごたえを感じつつ、一気に畳み掛ける。


「ずっと考えていたんだ。どうして、僕が浮気をしてしまったのかを。確かに、僕はミオナに惹かれていた。それと同時に、君のことを愛していたから、別れを切り出せなかった。けれど、より君の方を深く愛していることに、やっと気付けたんだ」


 真剣なジュンイチの言葉と表情がこそばゆいかのように、ソウコは下を向いた。

 その姿は、約一年前、初めてジュンイチに告白された時の様子とよく似ていた。


「君は、僕がずっと君のことを愛してくれるように、色々な努力をしてくれていたんだね。だけど、僕はその状況に甘えていて、愛されていることが普通になってしまっていた。だから、君を平気で裏切った。でも、もうそんなことをしなくてもいい。君はもっと素直になってもいいんだ。どんなことでも受け止めるから」


 自分の言葉の中に本心を織り交ぜながら、ジュンイチは語った。ミオナのことは考えないようにして。

 実際、ソウコに監禁された状況下では、彼女の涙も愚痴も何でもない事のように思えた。むしろ、それらを見聞きすればほっとするだろう。

 ソウコのどんな形の愛でも、受け入れられる自信を彼は手に入れていた。


「極端な話、許してくれなくてもいい。また、恋人同士に戻れるのなら」


 最後の一押しの後で、ジュンイチはまだ俯いたままのソウコの顔を覗き込んだ。

 ミオナや解放という単語は、わざと出さずに、しばらく彼女の様子を伺おうと思っていた。

 するとソウコは顔を上げて、目尻に浮かぶ涙を拭う。


「……ありがとうジュンイチさん、私、あなたの申し出はこの上なく嬉しい。でも、ごめんなさい、今はそれを素直に受け入れることが出来ないの」

「それは、僕が、浮気をしたから……」

「そうじゃないの」


 俯くジュンイチに、ソウコは大きく首を振った。


「私、初めて結婚したいと思った相手がジュンイチさんだったの。今まで自分の理想だった人が目の前に現れたんだって。だけど私は今、自分に自信が持てない。ジュンイチさんに、これからも愛してもらえる人なのかどうか、分からなくて」

「それはもういいんだ。君はそのままで、」

「うん。分かってる。自分が今無理をしていることも。だから、明日、改めて、ジュンイチさんに選んでほしいの」


 そう告げたソウコは、急にしおらしくなり、正座した膝の上で手を握り締めた。


「ごめんなさい。こんなわがまま言ってしまって」

「……いや、あと一日くらいなら、もういいんだ」


 ずっとソウコの「わがまま」に縛られているジュンイチだったが、驚くほど素直に彼女の頼みを飲み込んだ。

 それはきっと、この姿が、いつも完璧な恋人でいようとしてきたソウコの、初めて零した弱気だったからだろう。


「……だから、もう少しだけ、ミオナちゃんにも付き合ってもらわなくっちゃね。最後のアドバイスが欲しいから」


 ジュンイチにも聞こえるか聞こえないか程の小声で、ソウコは言った。

 浮かべていたソウコの笑みは、非常に蠱惑的だった。


 その瞬間、ジュンイチはクローゼットの暗闇よりもより暗い所へと落とされるような気持ちがした。

 ああ、まだ、ソウコは、完全にミオナを許してはいないのだと。彼女の口にした「最後」というのは、その後ミオナを解放するのか、それとも……。


 それ以上の可能性を、ジュンイチの脳は考えることを放棄していた。


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