めんつゆチャンプルーと三ツ星ビール


 ---いいえ、あれはナイチンゲール。まだ朝ではないわ。


 シェークスピアの名作の中で、女は恋人を夜の世界に引き止めようとした。

 朝が来れば二人は現実が待っている。いつの時代だって同じことだ。

 

「あ…」


 朝のゴミ捨て場。特大袋を持った勇人は「これ以上近づいたら斬る」と顔が告げているお隣さんと遭遇した。


「…。…」


 苗字を鈴鹿さんという。下の名前は公式には教えてもらっていない。

 今日もパリッとした格好だ。体のラインが綺麗に見えるストライプのパンツスーツに上品なヒール。手首には細いストラップの腕時計が光っている。殺意の滲み出た表情さえなければ、万人が認める「仕事のできる女」だろう。


「おはようございます!!」

「…」


 反応はない。勇人の会社じゃ腹から声を出して挨拶しないと先輩に指導をいただくことになる。もしかして声が大きすぎただろうかと、新卒は脂汗をだらだら流した。

 鈴鹿さんは勇人の寝癖のついた髪を一瞥し、眉間にシワを寄せる。


「…。…」


 言葉を発する気配はゼロだ。今日もそのまま無視されるか。寂しさと安堵を混ぜた感覚が勇人を満たした。

 が、そうは問屋が卸さなかった。


「すいません」

「ひぇっ!!」


 酒の入っていない鈴鹿さんの声は低い。相手の心臓を直にえぐるような凄みがある。もしここが戦場で「投降しなさい」とこの声で言われたら、リロードしたばかりのアサルトライフルを持っていても大人しく白旗をあげるだろう。

 勇人はおばあちゃん直伝の般若心境を内心唱えながら振り向いた。ひと睨みで心が折れた。


「つかぬ事を伺いますけど」

「は、い…」


 下手にでる感まるでなし。口調こそ丁寧だが、人に物聞く態度ではない。勇人は許されるなら泣きたかった。

 鈴鹿さんは瞬き一つせず続ける。


「先週の金曜日、夜遅くに3階に誰か上がってくるのを見ましたか?」

「!?」


 新卒は息の吸い方を忘れた。


(え、嘘。なんで鈴鹿さん、誰かが自分の部屋に入ったって思って…?)


 答えが刹那にフラッシュバックする。まるでスクープ写真を撮るような感じだった。


!!!?)


 疲れと眠気で完全に失念していた。先週、下着姿ではしゃいていた鈴鹿さんに勇人は自分のシャツを着せたのだ。そしてそのまま酔っ払いを布団に寝かせ、隣の部屋に帰っていった。


(やばい…!これは本当にやばい…!!)


 今まで勇人は注意に注意を払って鈴鹿さんに自分の正体を隠してきた。というのも、「いや実はですね…」と全てをカミングアウトできる度胸も話術も持ち合わせていないからである。


「何かご存知ですか?」


 なので対応は一つに絞られる。


「いい…え!ぼ、僕○※@♨︎…わ、わ…りません」


 「何いってるかマジで分かんねえ」と先輩の口橋にローキックを食らう語調で嘘を塗り重ねるしかない。

 勇人は「その、日は…!その、徹夜!徹夜だったんで…!」と何度も言葉を繰り返す。怪しんでくれといっているようなものだった。


「…」


 鈴鹿さんは勇人の目を射抜くように見つめる。

 それから告げた。


「そんなことまで聞いてません」


 上段からの袈裟斬りだ。バッサリといかれた。


(ああ、間違いなく昼の鈴鹿さんだ…)


 勇人は泣きそうな顔で角に消えていく背中を見送った。




***




 花籠電気は山手線の内側に自社ビルを構える大手企業だ。自動車の部品メーカーとしてスタートし、今では電池からスペースシャトルの温度管理システムまで手広く取り扱っている。

 鈴鹿さんは家電に組み込まれる制御システムの品質管理担当だ。主に電気ポットを担当している。そして『ポット品管の鈴鹿さん』といえばちょっとした有名人だった。


「鈴鹿さん、あの…今お時間いいですか?」


 立川優衣と書かれた社員証を首から下げた女子社員が、鈴鹿さんのデスクにやってきた。


「どうしてもメールでは済ませられない内容ならば」


 優衣に目もくれず鈴鹿さんは返事をする。


「あの、朝返していただいたテスト項目のレビュー結果なんですけど…長時間安定試験、どうしてもやらないとダメでしょうか…?」


 優衣はカーペット敷きの床に視線を落とす。長いまつげがよく目立った。

 鈴鹿さんはエンターキーを小さく叩き、後輩の方を向きなおる。


「やらなくてもいい理由を教えてください」

「そ、の…えっと…」


 優衣は焦ると髪の毛を触る癖がある。綺麗に巻いた毛先を指先に絡めながら一生懸命、といった感じで説明した。


「今回、試作機の納品から遅れてるので、プレスリリースした販売日に間に合わせようとすると来週頭には工場のロットを回さなくてはいけなくて…」

「分かってます」


 にべも無い返事だ。こちらに非はないはずなのに、なんだか泣きたくなってくる。

 優衣は眉を下げ、震える声で確認した。


「こ、これ、前とほとんど変わらないチップなんですよね?」

「どう変わらないんですか?」

「…システムのことはよくわからないんですけど、開発ベンダーさんはそう言ってたので…」

 

 優衣は自信なさげに言う。鈴鹿さんは冷え切った声で通告した。


「長時間安定試験を入れてください。これは必要なテストです」

「じゃあ土曜日出ろってことですか!?」


 悲鳴にも近い声が上がる。長時間安定試験とは文字通り日を跨ぐような時間をかけて実施する試験だ。今日は金曜日。リミットが週明け月曜日ならば答えは一つしかない。

 鈴鹿さんは優衣の恨みがましい視線を無視して告げた。


「確かに機能自体は変わってないですが、使っているファームのバージョンが変わりすぎています。確認したら、プログラミングを設計から大きく変えてきているんだそうです。綺麗にしたとはいってるけれど、差分が大きすぎます。なので前回の長安試験は参考になりません」

「そんな…だって、本当にちょっとの機能拡張だって…」


 鈴鹿さんは顎を下げる。世間一般に言うところの上目遣いだったが、纏っている覇気が全然違った。


「ここで不具合を見逃してクレームが出たら、土曜日どころの騒ぎじゃなくなるのがどうして分からないの?」

「…っ」


 優衣の涙腺はもう限界だ。大きな目からは今にも涙がこぼれそうになっている。鈴鹿さんは「泣きたいのはこっちだ」と言わんばかりの顔で後輩の赤い顔を見つめていた。


「うわー、可哀想」

「立川さん、明日両家の顔合わせとかいってなかったっけ?」

「ほら、鈴鹿にしてみりゃむしろ好都合なんだろ」

「他の女が幸せになるのも許せないってか。未婚のアラサーは怖いねぇ〜」


 こちらの耳に届くような声量だ。わざとだろう。

 鈴鹿さんは髪を揺らして背後をむく。


「見世物じゃないんでどっかいってくれませんか?」


 仮にも上司相手なのだが、容赦はない。「あと課長、チャック全開です」と追撃を忘れない。

 優衣の吹き出す声が聞こえたのが救いだった。


「…私も出ますから」


 とはいえ、モヤモヤは全く取れない。むしろ募るばかりだ。


「今日の夜にセットして、24時間回します。経過を確認するのは15時間後の一回。これは私が見ますので、立川さんは19時からきてください」

「はい…」


 言葉の裏で鈴鹿さんは決心した。


 明日、最低な土曜日を迎えるのだ。せめて今夜くらいは羽目を外そうと。




***




 アパート・ゴッホの最上階に上がると、廊下にゴーヤが落ちていた。ひまわりじゃないのか、と勇人は内心突っ込んだ。


「…。…」


 一瞬、反対のお隣さんの顔がよぎったが、勇人は首を振る。毎日近所のコンビニで顔を合わせる男だ。自分同様、自炊なんてしていないだろう。


「と、言うことは…」


 時刻は0時ジャスト。恐る恐る角部屋のドアを開けたら、すんなりと開いた。廊下の先からは明かりが漏れている。


「す、鈴鹿さーん?」


 靴を揃えて上がる。ワンルームに続くガラス戸に手をかけた、その時だった。


「止まりなさい」


 鋭い声だ。勇人は思わず両手を挙げた。ゴーヤは持ったままだった。


(まさか今日こそ素面の日?!)


 チャイムも鳴らさずに上がり込んだことに対する苦しい言い訳が頭をめぐる。だめだ絶対に納得してもらえない。勇人は静かに涙を流した。

 ガラス戸の向こうに人影がある。間違いなく鈴鹿さんだった。


「三つ星」


 唐突に告げられた。少なくとも勇人の耳にはそう聞こえた。


「…はい?」

「合言葉!三つ星といえば!?」

「えーっと…合言葉って一方的に決めるものじゃないと思うんですけど」


 呆れた声で扉の向こうに立つ隣人に言う。言葉は、滑らかに口から出てきた。

 勇人は手元のものを見る。もしかして、くらいの気持ちで答えた。


「オ、オリオン…?」


 あたりらしい。「あっりかんぱーい!」と言う陽気な掛け声と一緒にガラス戸が開く。

 満面の笑顔だ。手には南国の缶ビールを持っている。


「まさか当てる人がいるなんて!どなたでしょう〜?」

「…どうも。隣の吉高です」


 勇人は何回めになるかわからない挨拶をした。


「本当だ、吉高くんだわ!メガネしてないと男前なのね。あ、それに見当たらないと思ってたゴーヤ!!」

「落ちてたので…」

「拾ってくれたの?ありがとう!」


 鈴鹿さんは「うち上がるの初めてよね?ささ、かけつけ三杯かけつけ三杯」と勇人にビール缶を渡す。これにも勿論三つ星が印字されている。

 どうやら今日は沖縄縛りらしい。


「ゴーヤ見つからないから先にシリシリサラダ作ってたんだよー。良かった、吉高くんが持ってきてくれて」

「なんですかそれ?」

 

 勇人の中の沖縄料理レパートリーなんてゴーヤチャンプルーとソーキそばくらいだ。

 聞いたことない名前に首を傾げた。


「知らないの?おいしいよ?」


 部屋を流れる三線の音に手をひらひらさせて踊っていた鈴鹿さんは、キッチンに戻ってきてボウルを差し出す。出てきたのは人参の鮮やかな色が食欲をそそるサラダだった。

 

「はい、あーん♡」


 人参の甘みとわずかに入ったレモンの酸味が口に広がる。肉っ気としてツナ缶が入っている。白米が欲しいと食い盛りは反射的に思った。

 ダイニングにはきちんと二人ぶんの椅子があるが、そこには座らない。勇人はゴーヤのわたぬきを始めた鈴鹿さんの隣に立った。


「おいしい?」

「おいしいです」

「では問題です。シリシリサラダのシリシリとはなんでしょうか?」


 唐突なクイズだ。酔っ払いだから仕方がない。


「えー…」

「あ、こら。携帯で調べるの禁止」


 目はゴーヤに向かっていたはずだが。鈴鹿さんは勇人のスマホをひょいと取り上げる。朝、スーツから覗いていたシャツはノースリーブだったらしい。抜けるような色をした脇があらわになり、勇人は慌てて目を背けた。

 凝視して怒られるようなところではないと理解してはいるのだが、頭と体は別物だった。


「ヒント、漢字が当てはまります」

「う…。それってもうあれしかないような」

「はい、5、4、3、2、1」

「唐突に始まる時間制限!!えーっとえーっと、お尻を振りながら…作るから?」


 我ながら最悪の答えだと思う。もちろん鈴鹿さんは大爆笑だ。小麦色のビールを口からダボダボ吹き出して震えている。幸い流しの上で、だった。


「ぶぶー!あー、でもいいか。正解、正解。吉高くんお代わり作ってよ」


 「お尻振りながら」と酔っ払いは楽しそうに付け足す。勇人は「嫌ですよ」と素直に拒否した。


「あーん、吉高くんのおシリシリサラダ、食べたいなぁ〜」

「変なとこに「お」をつけないでください。正解はなんなんですか?」


 問題を出しておきながらも、自分では憶えてはいないらしい。「えとねー」と耳まで赤くなった鈴鹿さんは自分のスマホをいじる。財布とは違って可愛らしい手帳型のカバーだった。


「シリシリは…………うん?」


 小首を傾げる。ちょうど仔犬がやるような仕草だ。


「どうしたんですか?」


 勇人は早速開けた缶を潰しながら尋ねる。鈴鹿さんは右へ左へ視線を泳がせた後、「…沖縄方言で千切りを表すって書いてある」と告白した。

 

「…」

「…」


 沖縄らしいといえば沖縄らしい肌にまとわりつくような空気が流れた。


「あれー?」

「…あのー」

「あ、もしかしてこれが噂のてへぺろ?」

 

 酔っ払いは自分の使ったことのない言葉に目を輝かせる。


「ヒント関係ないのかよ!!」


 勇人の語調がブレるのも仕方のないことだった。

 

「うおーん、ミーだって間違えることくらいあるにゃー!!」

「泣いて誤魔化さない!!しかも似てない!もっと濁らせる!!」


 そうこうしている間にチャンプルーである。


「苦味は塩揉みで取れるんだよ。揉み…ハッ!」


 「吉高隊員、もしかして揉むの得意だったりするでありますか?」とボウルを渡される。毎回会話がリセットされるのも考えものだ。勇人は「別に得意分野じゃないですよ…」とこぼしながらスライスされた緑の野菜を下ごしらえした。

 その間に鈴鹿さんはフライパンにゴマ油をしく。「近所のスーパー小さいからスパム肉も島豆腐もなかったんだけどね」と話しながら顔にかかる髪を耳に挟んだ。


「高校の頃に沖縄出身の子に教えてもらったんだけど、味付けはなんと一種類なんだよ」

「へえ」

「それがこれ」


 勇人は目の前に突き出されたラベルを読み上げる。


「…め、めんつゆ?」

「めんつゆ」


 ここ数年で一番力のこもっためんつゆコールをもらった。豚肉とゴーヤに火が通ったところで、先に水気を飛ばし焦げ目をつけておいた豆腐を戻す。

 「香りが飛んじゃうけどここはワイルドにね」と鈴鹿さんはめんつゆをひと回しフライパンに注ぐ。醤油とみりんの甘じょっぱい香りを含んだ湯気がキッチンに広がった。


「ここに溶き卵を入れて、とどめの鰹節がどーん!」


 皿に盛るなんて洗い物を増やすような真似、キッチンドランカーは決してしない。

 フライパンを挟んで二人は箸を握る。


「この匂いはいけない…」


 シリシリサラダでいい感じにウォーミングアップが終わっていた胃の腑が諸手を挙げて喜ぶやつだ。気をぬくと涎が出る。


「そりゃそうだよ。豚も醤油も鰹節も旨み成分たっぷりだもん。卵も豆腐も周りの味を取り込むから。言っちゃれば美味しさのオラオララッシュだね。いっただきまーす!」


 出来立てを一口食べ、鈴鹿さんは拳を振る。美味しさを表現しているらしかった。


「しかもここにアクセントとなる苦味ゴーヤが入ることで、旨みのラッシュに飽きがこなくなる…天才か!」

「天才ですね」


 オーバーモーションの鈴鹿さんの脇で、勇人も出来立てほかほかのチャンプルーを口にした。まず口の中に鰹節の香りが広がる。そこから豚の脂身と醤油の甘みが続き、最後にゴーヤのシャキッとした歯ごたえが残る。

 当然、酒に手が伸びる。黄金色のビールは口当たりが軽く、同郷の料理とよく合った。


「ああ〜…」


 これで明日は休みなのだから、もはや文句のつけようはない。

 勇人は静かに心中を漏らした。


「最高…」

「だよねー」


 ビールを煽った鈴鹿さんも同意する。ふにゃふにゃという音がよく似合った。つつけば溶けるように床に沈みそうな出来上がり具合だ。


「あー…平日の荒んだ心がうちなーの味に洗われるう〜…」

「ですねぇ」

「えへへ…これなら明日の出勤もチョロそう…」

「ですねぇ…え゛ッ!?」


 聞き捨てならない台詞だ。勇人は慌てて鈴鹿さんを揺すった。隣人と違い、こちらはぴんぴんしている。

 学生時代、飲み放題の店で出禁を食らったウワバミは伊達じゃなかった。


「休日出勤なんですか鈴鹿さん!?何時!?何時起きですか!!?」


 目覚ましをセットしてから去らねば、大事故になる。寝落ちさせてたまるか、と勇人は鈴鹿さんの頬を軽く叩いた。


「えとー…8時?お風呂抜けば9時でもギリ大丈夫」

「じゃあ二度寝のリスクとって7時半で」


 6時半にセットされているベッドの目覚ましを勝手にいじる。枕からは柑橘系の良い匂いがした。


「これでよしと。鈴鹿さん、もう今日はこれくらいで……あ」


 任務を終えた勇人は鴨居に吊るされているものを見て固まった。

 シャツだ。先週ここに置き去りにし、昼間の鈴鹿さんに入らぬ疑念を抱かせた品。ご丁寧にもアイロンまでかけてある。持ち主の三倍、丁寧な扱いだった。


「あ、それ。誰のか知ってる?」


 鈴鹿さんは足元がおぼつかなくなっている。今にも転んでしまいそうで、勇人はまずビール缶を回収してからスーツ姿の鈴鹿さんを受け止めた。


「吉高くんのだったらいいんだけど」


 勇人の肩の形を確かめるようにほおずってから、鈴鹿さんはぽつりとぼやく。勇人は「相手は酔っ払い」となんども繰り返してから、「僕のだったら…いいんですか?」と尋ねた。


「え、ダメなの?」


 まだグロスがついた唇には豆腐がちょっと乗っている。至近距離を拒むことなく、鈴鹿さんはペラペラと話し始めた。


「先週、朝起きたらそれ着ててもうすっごいホラーだったんだよ。半裸だし。鍵空いてるし。警察行っといたほうがいいかなと思ったけど、正直自業自得すぎて行けなくってさ」


 グリグリと頭を押し付けられる。結構痛い。


「すいません…」


 鍵のことは勇人も気にしていた。防犯のために施錠したはいいとして、鈴鹿さんの家の鍵自体をどうすればいいのか分からない。なので祈るような気持ちで毎回開けっ放しにしていたのだ。


「…じゃあ」

 

 勇人は歯切れ悪く提案した。


「今回から鍵かけたらポストに入れて置くんで、回収できますか?」

「オッケー!!」


 いい笑顔だけどこれはダメだ。酔っ払いOLの隣人は確信した。


「じゃあ、手紙」

「うん」

「手紙に鍵の在処を書いておくんで、読んでくださいね」

「流石にそれならできるよ」


 水性マジックで綴られる勇人の汚い字を眺めながら、鈴鹿さんは満足げに頷いた。 

 −−が、


「あ!」


 重大な間違いがあるとばかりにメモ用紙を指差す。


「ダメだよ吉高くん、ちゃんと吉高って名前書かなきゃ!」

「…。…」

「私また忘れちゃうよ!?」

 

 赤い顔が膨らむと蛸のようだ。勇人は朝のことを思い出していた。

 

「…この方がいいと思います」

「なんで!?」

「だって昼の鈴鹿さん、僕のこと嫌いじゃないですか…?」

「−…」


 隣人に食らいついていた酔っ払いは、酔いが覚めたような表情をした。少しだけ傷ついた顔をしてから、勇人に体を預ける。聞こえる声はかすれていた。


「……………。………嫌いじゃ、ないよ」


 二度は言わないとばかりに無言で頭をぐりぐりこする。


「痛たたたた!」


 勇人は慌てて鈴鹿さんと距離をとった。勇人がメモ用紙から離れた隙をついて、鈴鹿さんはキッチンドランクに付き合ってくれていた謎の人物の正体を書く。


「吉高、っと。というわけでこれはこのままにします!」


 鼻息荒く鈴鹿さんは宣言した。


「あああ〜…」


 勇人とは対照的な面持ちだ。「うれしー!今週は朝起きたらこれ見るんだね。風で飛ばないようにちゃんと置いとこ!!」と飲みかけの缶ビールを置く。


「やったー、やったー、ヤッターマン!」


 五体投地とばかりに布団にダイブする。


「ぐう」


 今日はここで電池切れだった。


「あの…これ…」


 返事はない。勇人は困ったように枕に頬ずりする鈴鹿さんを見つめた。


「あー…」


 また机の上に一瞥をくれる。だが、メモ用紙を勝手に捨てることはしなかった。




***



 目覚ましの無機質な音に、鈴鹿さんは目を覚ました。体が軋む。どうやらまたらしい。


「信じられない…私、一人で1ダース開けたの…?」


 机の上に散乱するスーパーの袋を睨みつける。レシートの散乱した床が目入り、鈴鹿さんは盛大にため息を漏らした。


(鍵…またかかってないんだろうな…)


 電気ポットが問題なく動いているのを確認するだけとはいえ、これから休日出勤する身だ。また記憶をなくすまで飲んだという事実は、鈴鹿さんの体をますます重くさせた。

 幸いまだシャワーを浴びる時間はある。最後の理性で目覚ましをセットした自分は偉いと思いながら、鈴鹿さんはよろよろと玄関に足を進め、


「…え?」


 ピタリと止まった。


「〝鍵かけておきます。ポストに入れました〟………………嘘でしょ?」


 慌てて鴨居の方を向く。例のシャツがなくなっていた。

 鈴鹿さんは汚い字が踊るメモ用紙を片手に呟いた。


「だ、誰が…?」


 肝心の名前は、読めない。


 ビール缶の汗で滲んでしまっていた。

 

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深夜のキッチンドランカー 鈴鹿さん 青木昆々 @sobo

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