深夜のキッチンドランカー 鈴鹿さん

青木昆々

アツアツ唐揚げと殺人ハイボール


 蹴られた尻はまだ痛む。だが一番痛いのは何もされていない胸の奥だった。


 今年社会人デビューを果たした吉高勇人はやとはアパート階段を上がりきった。時刻はすでに日付を超えていた。

 終電なんですと半泣きで訴えてやっと返してもらえた。先輩曰く、「明日はどうせ休みなんだからガタガタ言うな」だそうなのだが。


「こんなの絶対間違ってる…」


 口ではそう言うが、これ以上考えたくない。腹は情けない音を立てている。確か冷蔵庫に一つだけすぐ食べられるものがあったはずだ。そいつを胃に流し込んで寝てしまおう。

 ポケットに手を突っ込み、家の鍵を出す。

 そこで勇人は固まった。


「あ……」


 視界に入ってしまったのだ。季節は夏だがゴキブリではない。

 隣の角部屋のドアだ。何と開いている。上品なハイヒールが挟まって、そのままになっているのだ。

 勇人は息を飲んだ。


「まさか…」


 恐る恐るドアを開ける。玄関にポツンと残された財布にお出迎えされた。なめし皮の二つ折り。若い女性が持つにはやや無骨なデザインだったが、不思議と部屋の雰囲気にあっている。


「あぁー…」


 慣れっこになってきた飯抜き深夜勤を終えた新入社員は天を仰いだ。いつものお隣さんはこんな失態、絶対に犯さない。

 アパートの隣人は眼力のある、凛としたOLだ。引っ越し日に地元銘菓を持って挨拶に行ったら、「要らない」とぶった切られたことは記憶に新しい。前世は武士だったのだろう。間違いなく。

 苗字を、鈴鹿さんと言う。


「鈴鹿さーん…ドア空いてますよー…」


 返事はない。勇人は覚悟を決めた。


「お邪魔しまーす…」


 靴を揃えて部屋に上がる。もし、鈴鹿さんがまだ素面だったら。お風呂に入っているだけだったら。今日が勇人の命日だ。

 だが幸いにも勇人の最悪の予感は外れた。暗い廊下には油の匂いが充満していた。おかげでお腹と背中はくっつきそうになる。この匂いだけでご飯三杯はいけそうだ。

 勇人はワンルームに続くガラス戸を開けた。


「鈴鹿さん」


 一人暮らし向けの部屋には立派なカウンターキッチンがついている。コンロは3つ、備え付けの魚焼きグリルまである。

 大きなタイル張りの壁の上天袋が2つもついていて、一人暮らしのサイズとは思えない中華鍋やざる、すり鉢が重ねられ、隣にはたくさんのレシピ本並んでいる。いたるところに付箋が貼ってあるあたり、ポーズで買ったものじゃないことがよくわかった。

 食べごろになったら収穫するつもりなのだろう、ガス台の脇につけられた小窓にはハーブの鉢植えがある。その上にはネットに吊るされた椎茸や玉ねぎが。

 使い込まれているキッチンだ。吉本ばななの代表作じゃないが、見るだけで何だか気分が良くなってくる。安心と興奮がちょうどよく入り混じる。

 出来上がった顔で、次々と唐揚げを揚げるスーツ姿の家主がいればなおさらだ。


「おっと!」


 鈴鹿さんは招いていない客の姿を見て目を丸くした。ちょうど野良猫が迷い込んできたのを見つけたような表情だった。

 目尻のシワを深くして苦笑する。


「やだ、私また開けっぱにしちゃった」


 勇人の口からはいつもの三倍滑らかに言葉が出てきた。


「本当危ないですよ、鈴鹿さん」

「えーっと、どなたでしたっけ?」

「隣の吉高です」

「本当だ、吉高くんだ!メガネ外してると素敵だね」


 普段の鈴鹿さんの姿を思えば、熱を測りたくなるような変わりぶりだ。

 この隣人はすごぶる愛想がない。ゴミ捨て場ですれ違う時、いつも眉間に皺を寄せている。会釈にも応えてもらえない。

 一度、勇人はアパートの廊下で鈴鹿さんが電話する場に居合わせたことがある。


『こんなに話が通じないベンダなら猿に頼んだ方がマシです』


 自分が言われたわけでもないのに。すごく泣きたくなった。そんな切れ味鋭い女性が、ベロンベロンに酔っ払って笑顔を向けてくる。

 独身女性の週末としては零点な有様なのだが、勇人は内心安堵する。


 鹿


 なんだか実家に帰って来たような気分にもなる。勇人は牛のような声を出した。


「あーもー、駅前の〝空海〟で何杯ひっかけたんですか?鈴鹿さんは飲むと記憶飛ばすんですから気をつけないとダメですよ?」

「さささ、かけつけ三杯、かけつけ三杯」


 酔っ払いは聞いちゃいない。くにゃんと体をしならせて鈴鹿さんは勇人にグラスを渡す。隠れ呑んべいの冷凍庫には常にストックがある。薄いガラスはキンキンに冷えていた。


「あ、それとも唐揚げがいい?ごめんねこれはまだ入れたばっかりだから」

「…。…」


 「惚れるな。酔っ払いのたわ言だぞ」と言われても無理な話だ。


「ぬか漬けにしよっか?はい、あーん」

「…」

「あーん、は?」


 弩級の愛想なしが頬を染めて笑うのだ。惚れるに決まってる。


「…あーん」

「きゃー♡あ、虫歯みっけ」


 そしてすごぶる困ったことに。

 鈴鹿さんは酒が入らないと笑わない。



****



 締め切りに要求変更、納品後のクレームにサポート範囲判定。金にならなきゃ死んでもごめんだという作業の連続。それが社会人の日常だ。

 鈴鹿さんは「あそこに1年入れればどこでも転職できる」と折り紙つきの大手メーカーに勤めている。学生の志望企業に毎年ランクインする華やかな職場なのだが、反面闇は深いらしい。

 酔いどれの鈴鹿さんから聞いた話だと、「鈴鹿ちゃんって呼ぶのやめてくれませんか」と上司に言ったら翌日席がなくなっていたらしい。「そんな馬鹿な」と大学生の勇人は思ったが、今なら「ですよね」と頷いてしまう。


「ねえ、吉高くん。ビアガーデンはあるのに何でハイボールガーデンはないの?」

「知りませんよ。本当酔ってますね」


 鈴鹿さんのストレス解消法はいたってシンプルだ。酒と美味いものを大量摂取する。飲み屋でではない。自宅のキッチンで、全て自作で。


 そう、鈴鹿さんはキッチンドランカーなのである。


 毎週金曜日、ボブカットが似合うアラサーOLは深夜のお料理騒ぎを始める。それでさっぱり記憶を飛ばして、二日酔いの週末を迎えるのだ。


「あつーい!吉高くん地球温暖化止めてー!!」

「無理です。って、エアコンつけてるのに窓開いてるじゃないですか」

「もういいや、脱いじゃお」


 鈴鹿さんはあっという間にパンツのベルトを外した。


「ちょっと!!」


 勇人が止める時間を与えない。「あー、お客様困ります!お触りは!お触りはご遠慮ください!」と逃げ惑いながら次々服を脱ぎ散らかしていく。


「僕がなんかしてるみたいな言い方やめてくれます!?」

「パターン黒、レースです!」

「気を利かせて目をつぶってるのに実況しないでくださいよ!」

「あははは!」


 近所迷惑もどこ吹く風だ。ここはアパートの最上階で下はちょうど空き家。迷惑を被るのはお隣さんの新卒だけとはいえやっていいことと悪いことがある。

 鈴鹿さんは下着姿でキッチンに戻ってくると、勇人のグラスを空にした。目は焦点が定まっていない。自分のと間違えたのだろう。


「あの、それ」

「うーん。唐揚げは美味しいけど、なんかパンチが足りないなぁ…」


 嘯きながら千鳥足で部屋の端に向かう。鈴鹿さんの部屋の半面は手作りの黒板で埋められている。泥酔時に思いつきで発注した奴だ。


「吉高くん、右の棚の籠からクエン酸と重曹出してー」


 尻を振りながらガサゴソとチョークを探す。勇人は慌てて背中を向けた。


「いいですけど、何する気ですか?」


 鈴鹿さんは短く告げた。


「10.0GVノ炭酸水ヲ生成シマス」


 ビールならピッチャーでいける勇人がむせる。


「何言ってんですか!?んなもん作ったらペットボトル割れますよ!ロボット風に言えば許されるもんじゃないです!」

「へへ、僕昔科学実験部に入っててん…」

「昔のCM風に言っても無駄だ!!」


 勇人の突っ込みも虚しく、鈴鹿さんの右手はモル質量計算式をがりがりと書き上げていく。実際に必要なクエン酸と重曹の量が算出し終わったのだろう、その顔は黒魔術でも始めるようなものになっていた。


「煮沸した水を冷やして、ペットボトルに入れる。測ったクエン酸と重曹を追加。蓋して振れば…前人未到の10.0GV殺人高圧ガスウォーターの出来上がりだゴルァ!!」

「キャラぶれいい加減にしてください!じゃない、後生ですからやめてくださいー!」


 勇人はお世辞にも背が高いとは言えない。腕を伸ばしても、酔っ払いからペットボトルは奪えない。

 もうだめだ絶対爆発する。観念して目をつぶった。


「…。…」


 10秒待っても何も起きない。

 部屋の外で発情期の猫が鳴いたくらいだ。


「吉高くん?」

「…?」

「何キス待ちしてんの、君。出来たよ?」

「嘘ぉ…」


 鈴鹿さんは誇らしげにペットボトルを見せる。透明な容器の底から湧き上がるしゅわしゅわとした泡は間違いなく炭酸だ。

 慌てて勇人は黒板の方を振り返った。


「これは…」


 途中で綺麗に計算ミスをしている。ちょうど半分のガス圧に必要な材料を計算していた。

 勇人は「酔っ払ってる鈴鹿さんがポンコツで助かった…」と胸をなでおろした。

 後ろでは「吉高くーん、殺人ハイボール作るよー!」と鈴鹿さんが無理やり着せさせられたワイシャツを腕まくっている。気合十分だった。



***



 部屋は油と酒の匂いで満ちている。


「追加の唐揚げはあと1分ね。ハイボールは濃いめで?」

「じゃあ、濃いめで」

「わあ、エッチ」

「どこがですか」


 皿なんてチャラチャラしたものは用意しない。机になんて座らない。鈴鹿さんはキッチンドランカーだ。

 タイマーが鳴る。鈴鹿さんは油の中で踊る鶏肉を取り出した。


「はい、あーん♡」

 

 揚げたての唐揚げはまだ表面がパチパチと爆ぜていた。舌の火傷を覚悟しながら噛めばニンニクの風味が効いた肉汁が流れ出す。タンパク質の旨味が舌に広がり、歯ごたえは程よく柔らかい。胃の腑大歓喜の味付けだ。

 しかも出来立てアツアツ。コンビニで保温されているのとは衣の鮮度が違う。


「はふ、はふっ」


 勇人はグラスをとる。

 さすが殺人級の高圧仕様。疲れた頭を覚ますような炭酸だ。ウイスキーの香りが鼻に抜ける。消火活動の終わった口の中は、12時間前には想像もしていなかった極楽と化した。


「うまい…」


 絞り出すように、勇人は声を出した。

 隣では鈴鹿さんが同じように涙目になりながら唐揚げを頬張っている。


「最っ高ー!!」


 グラスを空にし、清々しく吠えた。


「やっぱ暑気払い飲み誘われなくて正解だったーっ!!」

「は、はあ…」

 

 鈴鹿さんはハリネズミ系女子だ。「そんな分類あるか」と言われても、そこしか当てはまらない。今日のヤケ酒の原因はこれらしい。

 冷蔵庫に体を預けた鈴鹿さんは少し、トーンを落として話し始めた。


「今年…うちの部署に若い子がドッと入ってきたんだよね。ちょうど吉高くんみたいなさ」

「そうですか」


 勇人は鈴鹿さんと絶妙な距離を置いて頷いた。正直外回りのせいで足腰は限界だ。座りたかったが、それをやると視界に鈴鹿さんの生足がババーンと入ってしまうので頑張って堪えた。


「うちの主任ってポジションはさ、中途半端なんだよねー。先輩らしくしようとすると「管理職でもないのに」って言われるし、逆にフランクに接すると「ババアが若ぶってる」って言われるし。じゃあどっちよ!?」


 鈴鹿さんは頭をガクンガクンさせる。酔っ払いがやると不安になる仕草だった。首の細い女性なら尚更である。

 酔っ払いは勇人の方に向き直る。


「吉高くんは?職場にどんな先輩がいると嬉しい?」


 言われて勇人は尻の痛みを思い出した。

 裏を返せばさっきまで忘れていた。


「……鈴鹿さんみたいな人です」


 昼間ならどもってしまいそうな台詞だったが、勇人は淀みなく告げた。


「まったまたー。そういう営業トークいらないよぉ」


 鈴鹿さんはひょうきんな顔で頬を膨らませる。歳のせいか、笑い皺がうっすら残っていた。

 

「私、愛想ないし付き合い悪いし、…もうおばさんだし。女子会一人だけはぶられたって寂しがる権利もないと思うんだけどさ。なんか今回駄目だった。…自分勝手でしょ?イラっとするでしょ?」

「そうですね。お酒飲んでスッキリしましたか?」

「うん」


 鈴鹿さんははにかみながら頷く。


「値段気にしながら飲むイタリアンなんかよりずっと良かった。…あー、でも。…」

「?」


 「…食べたかったな」と繰り返す。すぐに単語が出てこないらしく、拳を小さく振り回す。


「パンニャコッタ!」

「言えてないです」

「でも通じたよ。そだ、吉高くん。パンナコッタってソースが乗るとツートンカラーになるからパンナコッタなの?」

「多分パンダとは関係ないです」


 勇人は律儀に指摘した。鈴鹿さんは「まじかー」と小さくひっくり返った。


「うん、うん…そうだね。私はきっとパンナコッタを食べ損ねたから機嫌を損ねたんだな」

「そんな簡単なもんですかね?」


 一人勝手に納得している酔っ払いは大きく頷いた。


「簡単なものに落とす方がいいんだよ、悩み事なんて。そしたらコンビニで解決するでしょ?」


 赤くなった耳に髪を挟む仕草は、年相応に色っぽい。

 勇人は「明日にも自殺しそうな顔」と酷評される面持ちで鈴鹿さんの横顔を眺めていたが、おもむろにグラスを流しに置いた。


「……ちょっと待っててもらえますか?」

「?いいけど」


 返事を聞くとしっかりとした足取りで部屋の外に出る。就職浪人間際に「コミュニケーション能力はないですが、何杯飲んでも倒れないので絶対営業できます」とエントリーシートに書いただけはあった。

 自分の部屋に一度戻り、目当てのものをとってくる。


「これ、よかったら」

「あーーーーっ!!」


 勇人の冷蔵庫に入っていた唯一の食料、ミルクプリンだった。


「パンナコッタじゃないですし、唐揚げとお酒代には全然足りないんですけど…」

「いいよ!全然嬉しい!やったー!これだよこれこれ!これですよ!!」


 鈴鹿さんはカップを片手にくるくると踊り出す。そろそろ1階の人にも怒られそうだ。


「食べていいの?」

「どうぞどうぞ」


 鈴鹿さんはクリスマスプレゼントでももらったような顔でパッケージを開けた。木のスプーンを使い、化粧の半分取れた口にプリンを運ぶ。


「うーーーん!」


 美味しさに打ち震えるとはこのことか。鈴鹿さんは小さな声で「…どうしよう、すごい幸せ」と告白した。


「それは良かったです」

「うへへ。吉高くんありがとう。好き」

「僕もです」

「じゃあ両思いだ」


 いよいよ酒が回ってきたのだろう。鈴鹿さんは演技っぽく両手を頬に当て体をくねらせる。


「ええ〜?いいのー?こんなおばちゃんでいいのー?私が社会人なりたての頃、吉高くんは中学生だよ?」

「今成人してるからいいんじゃないですか?」

「それもそうか」


 自分の右足に左足を引っ掛けて転びそうだ。勇人はゴールキーパーのように手を広げ、最悪の事態に備える。


「あ、ハグだねー?ほい、はぐー♡」

「違いますけどまあいいです。というかありがとうございます」


 酒が回りきった鈴鹿さんの体は燃えるように熱い。酔っ払いは下着がわりのVネックシャツに頬をすり寄せる。


「ね、吉高くん」

「なんですか?」


 勇人の中で鈴鹿さんの髪がずり、と鳴る。


「今日こそ、忘れたくないな」


 そう言い残し、結局キッチンドランカーは寝息を立て始めた。勇人はギリギリため息を堪えた。


「鈴鹿さん、あなたいつもそう言いますけど…」


 目覚めた頃には全てを綺麗さっぱり忘れている。部屋の荒れようを見て、「またやったか」と頭をかかえるだけである。


「…」


 ここに勇人がいたことなんて憶えていない。勇人に体を預けたことなんてなかったことにされる。

 一緒にお酒を飲んだことも。美味しいつまみを作ったことも。告白だって憶えていない。


「素面の鈴鹿さんと俺がちゃんと話せればいいんだけなんですけどね…」


 片や悩みこそ可愛いが万年不機嫌顔のアラサーOL。片やゆとり世代ど真ん中のコミュ障酒豪新人だ。昼間の二人を隔てる壁は、分厚く高い。

 勇人は大きな静かに目を閉じた。


「うーん…イスカンダル…」


 鈴鹿さんは意味不明な寝言をつぶやく。


 土曜の空はうっすら明るくなっていた。

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