第2日目 耳
長い夜が明けた。俺は依然として溶接された椅子に粘着テープで縛られたまま動けない状態でいる。汗や体動で僅かにでも動けるようになることを期待した。しかし、奴はそれも見越していたように数時間に1回は上からロープで巻き、さらに粘着テープを追加で巻きに来ていた。
「おはよう。昨日はよく眠れたかな?」
眠れるわけがない。身動きが全く取れないこの状況で、時々意識が無くなる事はあっても眠れることなどなかった。背中、足、尻。椅子に接触している部分が痛みを訴えている。
「うるせぇ、馬女。何が目的だ…」
喉が痛い。水分が足りない。声が掠れる。
「馬女ってひっどーい。今だけは貴方の新妻になってあげるわよー?」
何が新妻だ。俺の嫁はこの世でただ一人、鈴木友美だけだ。
睨んでいると、馬女はこちらの様子を見るように静止している。なんだ?
そう思っていると、振り返って奥の方へ消えていく。そして再び現れた時、手に白いコップを持っていた。
「ほーら。牧場一番搾りでやってきました。さっきの搾りたてですよー」
意味は分かる。同時に、昨日のセリフを思い出して少し背筋が寒くなる。日に当たる肌は熱いというのに、その寒気だけは消えなかった。そして奴は乱暴に髪の毛をつかみ、俺の首をのけぞらせようと後ろへ引っ張る。抵抗をするだけ無駄と悟ってはいるが、気持ちが追い付かない。そしてそれは無情にも開けた口に流し込まれる。
「んっ!」
生温く、臭気を放つそれが口の中いっぱいに溜まると奴は髪の毛から手を放す。離されたと同時に俺は口を閉じて涙目で奴を睨んだ。
「吐き出さないんだね。えらいえらい」
奴は言った。今日から全ての飲水はコレになる、と。では、ここで飲まないとどうなる?飲まなくても次も同様になるのではないか?それどころか次に飲めるのがいつになるのかわからない。葛藤に、俺は悩みぬいてそれを飲み込む。
「おえー!げぇ!!」
吐き出したい、でも必死でこらえる。臭気が口の周りで吐き気を催すが、我慢する。不快でどうにかなりそうだ。
「あはははっ、飲尿はサバイバルの基本だよー?がーんばれ!」
「あ……アンモニア臭くてひでぇな……肉ばっか食ってるんじゃねーよ」
奴は聞こえているのかいないのか、そのままスルスルと俺との距離を取る。そして、数メートル先、俺の視界の真ん前に納まる位置の木でできた箱に座る。
「明日くらいにね、気持ちいいことしてあげるよ」
「いらねぇよ。いい加減、放しやがれってんだ」
体力もそんなにない。まだ朝方で日差しが弱い。気温的には比較的涼しいはずだ。これから昼にかけてどんどん暑くなればさらに体力も奪われるだろう。こいつは、俺をどうしたいんだ。
「放すわけないよね。こんなことしてるんだからさ」
「……何が目的だ。復讐か?」
ここまで酷いことをするのは相当憎しみがある証明だろう。俺は何をした?できるだけ敵を作らないように生きてきたつもりだ。思いだせない。
「へぇ。復讐されるほどのことをしてきた自覚はあるんだ」
正直ない。復讐されるほどのことを『してきた』、といったな。そんなことをしてきたことなどない。断じてだ。高校でも、大学でも、社会人になってからも、俺はずっと真面目にいきてきた。つもりだ。
「……ふふっ、そっか。覚えてないんだね」
情報を引き出そうと思っていたが、顔に出てしまっていたのか、奴に悟らてしまった。不覚にも、喉の奥から思わずうめきのような声が出てしまう。
「取るに足らないことだった、ってことなのかな?それとも眼中になかったってこと?ひっどい人だねぇ」
「……なぁ、何のことかは思い出せない。でも、悪いことをしたのであれば謝る。そんなつもりじゃないんだ。俺はただ平凡にしてたいだけだったんだ」
「平凡?」
そういうと、空気が変わったのが分かった。地雷を踏んだのか、と焦るが、奴はいきなり笑い始めた。
「あっはははっ!いいね、平凡!最高だよ!」
狂った笑いを聞いて、背筋が震える。なんだ、なんだんだこいつは。
「あのね。私も、平凡でいたかったよ」
笑いを含ませ、奴は足元にあった何かを持って来た。それは網でできた袋だった。かなり網目の小さなそれは、蜂の駆除に使う被り物のような形をしていた。俺の前まで来た奴は、後ろに回ってそれを俺の頭に被せてきた。
「平凡っていうのはね、いつ壊れるか分からないんだよ。鈴木健二」
耳元で囁く声は先程の声と打って変わって、抑揚のない冷淡なものだった。
「にしても暑いよねー。可哀想だからテント張ってあげるね」
くるりと回って、俺の背後に置いてあった何かを組み立て始める。それは直射日光が当たらないように張られた、屋根だけの本当に簡易的なテントであった。
熱気はあるが、影ができた事でかなり涼しく感じられた。今度は一体何をする気だ?
「どう?涼しくなった?」
「……何をする気だ」
「あー怖っ。そんな睨まないでよー。折角涼しくしてあげたのにー」
楽しそうに奴は、また何かを取り出して来た。ペットボトルに入った何かだ。黒く、胡麻のようなものが内側に見える。
「さーて。じゃあ、涼しくなったところで、お友達の登場です。あー、やっぱだいぶ死んじゃってるなぁ」
そう言いながらそのペットボトルの蓋を開け、その口を俺の頭に被せてある網の中に入れてくる。
「やめっ…やめろっ!」
「こいつら捕まえてくるの、めーっちゃ大変だったんだよー?いけっ、お前らっ!」
首を振るが、それに刺激されたペットボトルの中身が少しずつ俺の頭に被せられた網の中に侵入してくる。耳元で不快な音をたてるそれは、網の中に確実に入ってきており、その数も多くなっていった。
その正体は【蚊】だ。すごくしょうもない嫌がらせとしか思えないが、今は手足を縛られている無防備な状態。蚊を潰すこともできないし、あの羽音もかなりの至近距離で聞くこととなる。
「あははっ、しょうもないでしょ?この音を聞くだけって、すごくしょうもないでしょ?」
奴は笑いながら追加と言わんばかりにボトルに入れた虫を網の中に放流していく。1本目、2本目と、かなりの量だ。
「蚊ってね、影のある場所で、ある程度涼しくないとあんまり動かないんだよね。だからテント作ってあげたんだけど、動いてくれるかなぁ」
「あああぁぁぁ!」
耳元で不快な高音の羽音が続く。俺は頭をできる限り動かして自分の顔につかない様にしようとする。
準備した蚊を入れ終えた奴は、先程と同じく距離をとり俺を見る。
「今日のスケジュールはお昼の3時までにしてあげる。3時のおやつに、いいものあげるからねー」
そう言って、遠くに置き時計が置かれる。100円均一で売られているような、ちゃっちいやつだ。時刻は8時30分を指している。
まだまだあるな、と思った矢先だった。耳の中に蚊が入るような、大きな音となって突然止まる。
「ああっ!」
気持ち悪さに悲鳴のような声を出して頭を振る。振ると同時に、他の蚊が一斉に飛ぶから余計に気持ちが悪い。
不快。その一言に尽きる。
「ほーらがんばれがんばれ」
歯を食いしばりながら、少し考える。時々顔を振る程度にすれば、顔につくのも最小限にできるんしゃないか?それに、ストレスになるとはいえ、死に直結するものでもない。あと6時間と少し耐えれば……。
俺は時々首を動かしながら、時々口を尖らせて顔に息を吹きかけながら蚊を払おうとする。それを奴は楽しそうに見ている。
必死に耐えて1時間半ほど。時刻は10時になる。永遠とも感じられるほど長く、精神的にもかなりキツい。今奴はいない。30分ほど見ていたが、その後何処へ行ってしまった。
奴がいようがいまいが、この状態をどうにかできるわけでもなく、ただこの時間が過ぎるのを待ち、耐えるしかなかった。
幸いまだ刺されていないのか、痒みは出ていない。しかし、刺されると掻くことができないため、悶絶するだろう事が予測される。俺はひたすらに噛まれないように首を動かしていた。
「頑張ってるー?」
後ろから、奴の声が聞こえた。振り向けないが、近づいてくるのがわかる。
「おーよしよし。それじゃネクストステージ突入だよー」
「何するつもりだ……」
もう恐怖で身体が強張ってしまう。奴は、更なるモノをここに投入してきた。
「あぁぁぁぁ!」
「頑張ってー」
ブブブブ。
次に入れられたのは、【蠅】だ。ペットボトル1本分の、大量の蠅が網の中に放たれた。うるさい上に飛び回る蠅は、俺の鼻や耳の穴に入ろうとする。さらに顔に着いては這いずるのが刺激となり、不快さを際立たせる。
声を上げると口に入るため、必死に口を閉じ、鼻に入ろうとするのを防ぐために口を尖らせてできる限り鼻と近づける。
「あははっ!ぶっさー!」
そう言いながら、パシャ、パシャと音が聞こえる。目を閉じているため見えないが写真を撮っているようだ。
先ほどより頻回に首を振る頻度が増える。何より、この顔を維持するのが苦しい。
息を鼻から出しながら虫に対抗する。耳に入ろうとする奴らは首を振って追い出す。
気温も上がり、体力もさらに削がれるため、徐々に動くのも難しくなる。
どれくらい時間が経っただろう。目を開けるのも難しい中、1分1秒が遠く感じられる。
いったいいつになったら終わるんだ。あと何時間我慢すれば良いんだ。
怒りはあるが、体の水分も抜け、気力がなかなっているのがわかる。そして、多分1時間程は抵抗したのではないかと思うが、抵抗する気力が無くなり、一瞬意識を失ってしまった。
「あらら?気絶した?それは許さなーい」
バシャッと身体に水がかけられる。しかも、氷水だった。突然の冷水を浴びた事で、身体が驚いて意識を取り戻した。と同時に、意識を失っていた間に入り込んだのであろう虫達が、鼻や喉の奥でその存在を異物感として伝えてくれる。
「カハッ、おえぇ」
吐き出そうとするが、身体の中の水分がほとんど無くなっているような状態で吐き出せるわけもなく、次に入らないように再び顔をしかめて抵抗する以外に乗り切る方法が無かった。異物感のものは、もう飲み込む他なかった。
「いやー、ここでお昼にしよっかー」
薄らと目を開けて、そこから見える時計に目をやると13時を指している。あと2時間。それで地獄から解放される。また意識を失うかも知れないが、意識を失った方が楽かも知れない。気づいたら終わっていることに期待するのも、乗り切るのには良いのではないかと思えて来た。
と、気づいたら、奴が網の中に手を入れてチューブらしきモノを俺の口元に持ってきた。長いソフトチューブのようだ。
「ほーら。餌ですよー。蠅達もだーい好きな搾りたて濃縮の聖水でーす」
気持ち悪い。そんなモノ飲みたくない。ここで飲まずに、意識を失ってしまおうかと思ったら、奴が耳元で囁く。
「氷入れてるから、さっきのより飲みやすいよ。ほーら、キンッキンに冷やしてやがるっ!」
冷えた液体、そう聞いて一瞬飲みたいと思ってしまう。辛い、飲みたくない。
「ゴク…ゴク…」
もう、味わわないように、ソフトチューブを舌の根本の方まで入れて吸い上げる。口の中ではなく、喉に直接送り込めるように、俺はそれを飲み干していく。冷たい爽快感と比例して、クソみたいな悪臭が、俺の喉の奥から湧き上がる。しかし、冷えていることによって、苦痛もいくらかマシに感じる。気持ちは悪いが、水分補給した事によって気力が回復する。
「美味しかったー?変態さん♪」
「……」
喋ることはできない。虫が入ってくるから。あと2時間を耐えることだけを考え、顔をしかめ、首を振る。
しかし、気力が回復したことで俺に更なる絶望が襲う。そう、初めに懸念していた蚊だ。随分蚊に噛まれており、痒みに気づいたのだ。色々と噛まれていることで、顔もだいぶ腫れ上がっているのを感じる。羽音と虫の這う刺激と噛まれた痒さで気が狂いそうになる。
それから首を振り、1時ほど耐えた。薄目で確認する時計にはあと1時間で終わるという希望が見えてきた。
終わりがわかると人は安心するモノだ。希望がないと頑張ることはできない。
ふと、思う。3時までと言うのは奴が言っていた。しかし、果たしてそれは本当に守られるのだろうか。もしかしたら、もっと長い時間かけられるのかもしれない。希望がなくなったら、もう絶望しかない。大丈夫、だよな…
「あと1時間だねー。頑張れー」
奴が後ろから言う。そう言われて、ちゃんと終わる。そう思えた。
「じゃ、あと1時間はラスボス投入するね」
まだ何か入れるつもりなのか?長時間経っているためか、虫達も大分死んでいる。それでもまだまだ残っているが、次は何を入れるつもりなんだ。
「動いちゃダメよ。
死なないでね」
ぞくり、さっきまでと打って変わって冷淡な口調に背筋に悪寒が走る。そして、その『音』を聞いて、それは更なる恐怖を俺に与えた。
ブブブブブ。
あの羽音は、本当にヤバいやつを入れてきた。【蜂】だ。しかも、かなり大きく、威嚇とかに鳴らしてくる感じ。そして奴の言い方からすると、それは人を殺しうるであろう殺人蜂。
---オオスズメバチだ。
恐怖で固まる。顔にハエやカが止まり、這いずる。その上、耳にも入ろうとする。しかし、耳元で大きな羽音を鳴らすこの蜂を刺激しないよう、首を振ることはできない。
「うん、賢明だね。あと50分でとってあげるから、頑張ってねー」
奴の声が遠くに聞こえる。蜂の羽音は後ろに一つ、鼻の方に一つ、そして頭の上に一つ。3匹いる。誰も大きな羽音を立てて威嚇している。刺されるとどうなるんだ?最悪死ぬ事になると聞いた事はあるが、本当に死ぬのか?確か、黒いモノに襲いかかってくると聞いたことがある。だとすると、頭に刺してくるんじゃないのか?
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖いコワイコワイコワイコワイコワイコワイ
---「ほいっ」
頭から、網が外される俺は50分を耐え抜いた。無限に続く恐怖と、精神を蝕む音、肉体を侵す苦痛に、俺はもうボロボロだった。
網が外れたあと、しかめ面をなんとか緩ませる。そして放心状態で目を開ける。
もう嫌だ。
長時間の椅子の固定で尻も背中も酷く痛む。顔も痒い。耳の中に虫が入って、蠢く感じがする。鼻から入った虫を食った。小便を飲まされた。
もう限界だ。
「……頼む……お願いだ……許して……」
これ以上は肉体もだが心が死んでしまう。俺にはもう歯向かう気力は無い。
「お願いだ……もう見逃してくれ……」
「えー。無理無理。前にも言ったでしょ?放すつもりはないってば」
「警察にも行かない……俺がやった事なら、謝る」
何をしたのか、本当に思い出せない。俺は、絶対に家族の元に帰るんだ……
「疲れてるねぇ。それじゃ、今日はもうお休みしようかな。苦痛の後にはちゃーんとヒーリングソングを聞かせてあげるよ」
奴はそういうと俺の耳にヘッドホンを当てる。そして、音量を徐々に上げ、かなりの大音量にしてきた。
劈くような、それもヘッドホンで耐えがたい音量の声が脳に響く。叫び声、それも火が付いたような子どもの声だった。リピートされ延々と続く声に、自然と目をギュと閉じてしまう。
ふと、子どもの声に違和感を感じる。いや、違和感というよりも、どこか知っている。俺は、この声を知っている。
「ま、真央?」
声が聞こえる。声が聞こえる。いつか聞いた声が聞こえる。
いつでも聞いていたかったあの声が、ずっとそばにいてあげたかったあの子が。
「ま”ま”あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
耳の中で叫び声をあげていた。
「あ……あ……」
それを娘の声と認識したとき、俺の中で三度絶望が押し寄せる。叫びを聞く限り、痛がる叫びもあった、寂しさを助けてもらおうとする叫びもあった、そして今叫んでいるのは
「あああぁぁぁぁあ!!!ま”ま”ああああああぁぁぁぁあ!!!」
母親を、呼び求める声だった。
「あああぁぁぁ!!!お前!!!お前えええぇぇ!!!」
俺は叫んだ。殺す!!こいつを殺す!!!自分の手がちぎれるかと思うくらい力を込めて立ち上がろうとする。しかし、完璧に固定している粘着テープはそれを許してはくれなかった。
「友美に何をした!真央に何をしたあああぁぁぁ!!」
「あっはっはっはっは!それ!それだよそれ!」
「ああぁぁぁ!!」
「そう、それ!それが聞きたかったの!!もっと聞かせてえぇ!!」
俺の叫びに呼応するように激しく自身の身体を抱きしめる馬女は、まるで自身の欲望を満たす様に身体を唸らせていた。
大声を上げる俺の喉が、水分を失ったように枯れ、掠れて小さくなる。
「カハッ、コホッ」
声が枯れて、空咳がでる。奴は嬉しそうに、俺を見ている。
「ねぇ?どう思った?」
「ほはえほぉ…こほす……」
「ふーん、そ」
女は馬の被り物を取って、口元を見せる。艶のあるリップを塗った口元。その口元を俺の目の前に持ってきて、その顔を歪ませる。歪な笑み。奴はそれを、そのセリフを、嬉しそうに発する。
「よかった。同じ気持ちで」
死にたいですか、そうですか。でも死ねません、殺しません しろくじら @amesirokujira
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