第1日目 水
「……なん……だ?」
映画やドラマよろしく、廃工場と思わしき建物のど真ん中に椅子一つ。そこに全裸で座る男は粘着テープで手を縛られ、椅子の脚に足をロープで括りつけられていた。目は粘着テープで目隠しをされているが、口はふさがれていない。幸いにしてかはわからないが貼られていた粘着テープがはがれ、右目だけが見えるようになる。そしてそこは今までいたところでないことを教えてくれる。
「んっ、ぐっ!」
異常な事態に、頭が混乱する。ここから逃げ出そうと必死に腕や足に力を入れ、拘束を引きちぎろうとする。しかし、普段からそう鍛えていない彼の力ではどうすることもできないほど手足は固く固定されている。さらに椅子は地面に溶接されているため、本当にそこから動くことができなかった。蒸し暑い夏場の空気が肌に触れ、たれ落ちる汗が全身を不快にさせる。
「……なんなんだよ」
やがて男は抵抗をやめて考える。何があったのか、どうしてここにいるのかを。
男の名前は鈴木健二。高校卒業後、某会社に勤めて4年になる。堅実な性格で、妻と娘の3人暮らしであり、荒波を立てずにごく普通に暮らしていた。もちろん、社会に出てから敵は作らずに穏便に生活を送るよう心がけており、誰かに恨まれることもなかった。そのはずだった。
今は出張中で明日、自宅へ帰るはずだった。1週間だけの短期出張ではあったが、2歳になる娘とそれを一生懸命育ててくれている妻と会えないのはとてもさみしかった。だからお土産もいっぱい買ったし、出張後に有給をとって夢の国に行く準備もしていた。
最後の記憶。ようやく出張が終わる。夢の国はサプライズにしておいて、妻へ『会えなくて寂しい』とラインを送ったのち、帰った時の娘と妻の喜ぶ顔を思い浮かべながら笑みがこぼれた。ホテルから少し離れたコンビニに向かう途中だったと思う。突然車が走ってきたかと思うと、口に何かを当てられ、それから―――。
「……いったい何だってんだ」
混乱が徐々に落ち着いてきて、不安が恐怖に変わってくる。
いったい、いつからここにいるのか。
「おーーーい!!誰かあぁ!!」
力いっぱい。あげられるだけの声をあげ、叫ぶ。
「助けてくれええぇ!!」
叫び声は廃墟となっている工場内に響くが、すぐに静寂へと戻る。そしてセミの鳴き声が聞こえる。
「誰かああぁぁ!!いないのかあぁああ!!ゴホッ、ゴホッ」
叫ぶ。しかし、聞こえてくるのは静寂になったあとのセミの鳴き声だけ。力いっぱいの声をあげるために吸い込んだ空気は埃っぽく、叫び声を妨げる。蒸し暑さに、体中から噴き出すほど汗が流れ堕ちる。汗を吸う服がないため、ぼたぼたと垂れ堕ちる汗がまるで失禁をしたように床を濡らす。
やがて何の反応もないセミの鳴き声だけの静寂に、体力の無駄と悟り、叫ぶのをやめる。しかし叫んだだけの体力を消費しているので疲労が体を蝕んだ。
のどが渇く。滴り落ちる汗を必死にすする。廃工場の埃がついた汗だったが我慢する。
「はぁ、はぁ……」
息が荒くなる。いったいつからいるのか、という考えから、次はいったいいつここから脱出できるのか。そもそも、どうしてこんな目に合っているのか、と不安と怒りがこみ上げる。
「誰か……」
助けを呼びたいが、さっきのことで助けが来ないことはわかっている。辺りを見回すが、ここからなんとかできそうなものがない。
「あ、起きたー?」
声が聞こえた。おどけた声。声色は少し高い。男ではない明らかに女の声だった。そして薄暗い廃墟奥から現した姿に、健二は驚愕する。
まるで漫画に出てくるイメージの魔法使いがそこにいた。黒いローブをまとい、どこかの雑貨屋においてあるような馬の被り物をかぶっている。身長は低く、わりと小柄な印象のある姿だが、声も含めて健二に見覚えはなかった。
「はぁい」
「誰だ……お前……」
こんなバカげた姿をしている奴が助けてくれる人間なわけがない。つまりは自分をここに連れてきた犯人に相違ない。
「正義の味方、シグマえっくすでーす」
ローブに隠れた手を挙げながら女はそういう。馬鹿にしやがって、と健二が口を噛みしめ睨み付ける。女は馬の被り物の口を押え、うつむく。
「おぉ怖い怖い。人でも殺しそうな眼ですねー」
「……なんなんだ……なんでこんなことしてる……」
「まぁ、そういわずにこれでも飲みなよ」
女はそういってローブの中から水の入ったペットボトルを取り出す。見た瞬間に、健二は喉を鳴らしてつばを呑む。一瞬、警戒が薄れたのを確認した女はそれを健二から数メートル離れた床に置いた。
「……なんの真似だ」
「それじゃあ、届かないねぇ」
ペットボトルの前でしゃがみ込んで、うれしそうな声で言う女。馬の被り物をしているが、笑顔を浮かべているに違いない。
「まるで待てと言われた犬みたいだね」
健二は怒りに歯ぎしりして女を睨む。
「まぁ、犬ならもっと利口そうに待つんだけどね」
「……てめぇ」
そういった女は、ローブから袋を取り出す。割と大きな袋で、そこに手を入れて中身を健二に見せる。それは、古びた、それもこの工場のどこかに放置されていたと思われる埃のかぶった長いホースだった。
「ここで問題。ちめたーい水の入ったペットボトル、ながーいホース。さて、何をするでしょう」
「……」
言いたいことはわかる。つまり、あれを使って水を飲めということだろう。しかし、あの埃まみれの長いホースを口に咥えて飲むのは躊躇われる。
「ここにきてもう10時間以上たってるし、その間にだいぶ汗も掻いたよねー。もう喉もカラカラじゃない?」
水で満たされたペットボトルは暑さに汗を掻いている。つまり、とても冷たい状態ということが目に見えて分かった。再び健二の喉が鳴る。
「ほら、今ならめっちゃ冷えてるよ。さーて、飲めるようにしてあげるね」
そういって、女はペットボトルのふたを開け、ホースの先を入れた。埃をかぶっていただけに、ペットボトルに入っていた水の水面に埃が浮く。
「あ、制限時間つけとくね。3分だけ置いておいてあげる。それ以降は引き上げちゃうよー」
そういいながら女は乱暴に健二の口にホースを突っ込む。ゴムの溶けかけた臭いと被っていた埃が健二の口の中に広がり、一瞬でホースを口から放してしまう。
「あ、放しちゃうの?」
「ごほっ、ごほっ……」
なけなしの唾を吐きだし、喉の奥がへばりつく感覚に耐えがたい不快感が襲う。
「次、口から放したらもう入れてあげないよ?」
ホースを拾い上げ、再び口に突っ込む。吐き出したくなる不快感があったが、それを超える耐え難い口渇が必死にホースを咥えさせる。
「準備おーけー?よーいスタート」
そういって、ペットボトルの横にキッチンタイマーを置く。2分58秒、57秒、56秒…
「ふーっ……ふーっ……」
女を睨む。無言でこちらを見ているが、被り物のせいで何を考えているのかが読み取れない。不快な臭いと埃を我慢し、考える。あの冷たい水を喉を鳴らして飲んでしまいたい気持ちとこのホースを吸い込んで水を飲むという行為への拒否感が健二を葛藤させる。そうこうしている間に、時間はどんどん過ぎ去っていく。
「あっついよねー」
女が再びローブ下から取り出したのは水だった。これもまた冷えているようで、側面から水を滴らせている。と、女が馬の被り物をとる。しかし、その下にあったのはおかめの仮面だった。おかめの仮面の口の隙間にストローをさして、女は水を飲む。ごくごくと喉を鳴らしながらペットボトルの水がどんどんと減っていく。
「ぷひゃーっ。やっぱりガイザーは最高っすなぁ」
おっさんくさいセリフを吐きながら、半分ほど減った水を床に置いたペットボトルの横に置く。そして、タイマーを自分の方に向けた。
「さー。あと2分だよー。ちなみに、ここで飲んどかないとかなりつらいよ?」
「う……うるはい……」
耐えている、が、もう我慢できそうにない。意を決して、ホースをストローのようにして吸う。あまりに長く、吸い取る力も結構必要だったが、それ以上にゴムのにおいと埃の不快感が耐え難かった。ペットボトルの水が半分くらい減るが、まだ健二の口には埃っぽい空気しか来ていない。そして―――。
「うっ…!」
口の中に、何かが入ってきた。液体ではない。何かが、小さい何かが、口の中にうごめいている。何かは、わからないでもない。この動きの早さ、大きさ…口の中を這っている。喉の奥に行かないように瞬間的に舌根で蓋をする。そしてホースを歯で噛んで口の隙間から舌を使ってそれを追い出す。口の端から顔を出したそれは、そそくさと健二の顔を這いながら出て行った。
「おぉ~。まぁ落ちてたやつだから何が入ってるかわかんないねぇ。まだその蜘蛛以外にもムカデとかナメクジとかいるかもしんないねぇ」
口から出てきたそれを見た馬面は非常に嬉しそうに手を叩いている。健二は涙目になりながら苦痛をこらえて、そしてもう何も出ないこと祈りながら必死になってホースを吸い上げた。しかし、出てくるのは埃、ゴム臭い臭気、そして祈り届かず水によって行き場を失った虫たちが這い出てくるばかりだった。
悶絶、奮闘し、水がついに口に届きそうになると思うほどペットボトルから水がなくなっているのが目視できたときだった。
ピピピッ、ピピッ…
電子音が聞こえる。タイムアップを知らせる、タイマーの音。
「よっと」
女が立ち上がり、咥えていたホースを奪った。奪われた瞬間に、先ほどまで加えていたホースの先から水が零れ落ちる。あともう少しで水が口に届くというところだったようだった。
「ごっほごっほっ…」
ゴムの臭さと、埃にまみれた口の中に、吐き気はするが、唾さえ吐き出すことさえできない。乾いた咳が止まらない。
「あらら、惜しかったねー。それじゃあ、残念賞でもあげようか」
体力も無駄に消費し、水分も取れなかったことで少し頭が働かない。唇を噛みしめ、女を睨む。すると女は袖口から紙コップを取り出した。何をする気だ、と考得ようとすると、女はおもむろにその場にしゃがみ込んだ。
「は~…」
「お…おい…」
それは、明らかに人として目を疑う行為。立ち上がった女は、地面に置かれたコップを親指と人差し指で挟んで持ち上げる。中には先ほどまでなかった液体が並々と入っている。今、目の前で出されたそれを持って、女は近づいてくる。
「や、やめ…」
「ほーら、飲みたかった水分ですよー」
女は、健二の後ろにつくと髪の毛を引っ張り顔を天井に向かせた。根元から力強く引っ張られているせいで抵抗できない。
「あ、あ、あ…え…」
やめろ、と言いたかったが、口を閉じることができない。そして女がその液体を口に入れようとしたとき、何かを思い出したように手を止めた。
「あー、一ついっとくけど、口に入れてあげるけど吐き出さないようにね」
何を当たり前のように言ってやがる。すぐに吐き出してやる、と考えていると、女は続けた。
「予定では8日後に放すつもりだけどさ、私の言うことは聞いといた方がいいと思うよ。それまでに死んじゃっても嫌だしね」
そう言って、女はそれを健二の口に流し込んだ。生ぬるいそれは、塩気を帯び、臭気を漂わせていた。口の中いっぱいに流し込まれると、髪の毛をつかむ手を緩める前に再度言ってくる。
「家族に会いたいなら、逆らわない方がいいと思うな」
言われて、こんなに暑いのに、こんなに気持ちが悪いのに、背筋が凍りつき、すべてを受け入れなければならないというプレッシャーが襲った。女の手が離され、口を閉じる。目をぐっと閉じ、健二は覚悟を決めてそれを喉の奥へと流し込んだ。
「うげぇええ!っ、おえっ」
飲み込んだ後のアンモニアの臭気が嘔気を誘発しそうになる。しかし、それを何とか気力でこらえる。鼻水も流れ、口の端からは入りきらなかった液体が垂れこぼれていた。
「あはははっ!あははっ!あー臭っ!くっさーっ!あははははっ!」
女の笑いは、本当に狂喜している笑い声だった。
「く…くそやろう…」
「えー?それは自分のことでしょう、このスカトロ野郎」
「…出すならもっと、いいもん出しやがれ…くっせぇ…」
「夏場だしねー。もう濃いのしかでないよー?あ、あとね、一つ言っておいてあげる」
女は歩いて健二の前から離れていく。そして振り返り、言った。
「今日から飲物は排泄物だけだから」
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