12

帰宅して、日付が変わる頃——窓の外の月を見る。

満月だった。

……昨日が半月で、今日が満月? ありえない。

でもそんなことはどうでもよかった。

今、この世界には月があって、ナニコがいない。

そして、俺だけがそのことを知っている。

それがすべてだった。


俺は、ナニコがいたはずの席にあった、一冊の文庫本をバッグから取り出した。

文庫本は縦幅が十五センチ。

ナニコの距離だ。

「…………」

俺はその本を凝視して、……生唾をごくりと飲んだ。

そして、そのごく薄い小説本の表紙を指でなぞった。

まるで女性の体を愛撫するかのように、その本の表紙を撫ぜた。

何度も何度も。

ゆっくりと静かに。

しかし時に速く、激しく押し付けるように指を這わせた。

表面はなめらかで、つるつるとしていた。

それでいて、ところどころに僅かなざらつきが感じられる。

そのざらつきがナニコの声にならない叫びのように思えて、気分が昂る。

そして、服を脱がすような手つきで表紙をめくる。

小説のタイトルが目に飛び込んでくる。

脳が揺さぶられる。

情報が、物語が——

いや、それ以上のなんらかの概念が、流れ込んでくる。

これはナニコそのものだ。

文字列を追う。

そのページの文字をすべて飲み込むと、渇きににた飢餓感が押し寄せる。たまらず紙を繰る。

そしてまた文字を追う。飲み込む。渇く。

その繰り返し。

ページをめくる指が止まらない。

その物語は、とある高校生の恋の物語だった。

なんのことはない、淡い恋を描いたよくある青春恋愛小説。

しかしそれ以上に、俺にとっては、ナニコに触れられる体験であった。

まるで性行為のような、胸の中に甘やかな汁が滴る体験であった。

……端から見れば、気持ち悪い光景だったろう。

本を読みながら、息を荒げ、目を血走らせ、体を強張らせる俺の姿は。

しかしもう止まらない。

俺はナニコとともに見たことのない場所へ登りつめて——やがて果てた。

体じゅうの血が暴れるように熱かった。

物語は、俺の血肉となった。

余韻というレベルではない。本は読み終わったのに、物語がずっと頭の中で続いているかのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る