9
「誰? って、昨日まで知ってただろ。悪ふざけはやめろ」
かっと、顔が熱くなったのがわかった。
これは怒りだ。
明確に怒りだ。
升野がこれまで言ってきた冗談の中でも、飛び切りタチの悪いものだ。とても許容できない。
「いや、マジでお前が何を言ってるのかわからん」
升野は訳がわからないながらも俺が怒っていることに申し訳なさを滲ませた。
一番見たくない反応だった。
「すまん。本当にわからないんだ」
升野は神妙な面持ちだった。嘘をついている顔ではない。
思ってみれば、升野は俺を怒らせそうなことばかり言ってくるが、実際に怒らせたことはなかった。
嫌味ったらしい口調の中にも、升野なりの矜持があるのかもしれない。
「信じてもらえないだろうけど……確実に、お前は、昨日までナニコのことを知っていた」
「……ナニコ……だめだ、わからない」
「今もそこにいるぞ」
と、教室の端を指し示す——だが、そこには空席があるだけだった。
「誰もいないじゃないか……」
むしろ、升野の方が俺に対して疑心暗鬼になっているかのようだった。
「そんなバカな。たった今までここに……」
ナニコがいたはずの席に駆け寄る。しかし、そこに人がいた形跡はなく、温もりさえもなかった。
「そんな……」
「そこに、ナニコとかいう人が居たのか?」
背後から升野の声がかかる。俺は肯定の意味で沈黙した。
——沈黙する他なかった。それ以外に、どんな行動も適切じゃない気がした。
泣き喚くには実感が足りず。
混乱するには事態がシンプル過ぎた。
ただ単に、ナニコという少女はここに居なくて、そして——忘れられたのだ。
それ以上でも以下でもないのだろう。
無作法と弁えつつ、机の中をまさぐった。普通であれば教科書やノートなどがぎっしり入っているが、空っぽだった。
——いや、ひとつだけ、奥の奥で指に触れるものがあった。
取り出すと、一冊の文庫本だった。知らない作家の小説で、厚みはそれほどない。
「これは……」
「それが、ナニコの持ち物なのか?」
升野が問う。真っ当な問いだった。理論的で、整然とした因果関係に基づく質問だ。
しかし俺は首を振った。
「違う。これはナニコの持ち物じゃない」
振り返り、升野の目を正視する。
「これは——〈十五センチ〉だ。」
「————」
升野が何かを言ったが、耳に入ってこなかった。
たぶん何かを問いかける言葉だったと思うが、どうでもいい。
今は俺がお前に伝えたいんだ。
手に持った文庫本を升野に突きつける。
「〈十五センチ〉は、ナニコの美しさの象徴だ」
文庫本の天地幅は、ちょうど十五センチ。
「これが、彼女が持っていた『距離』だ」
「彼女の本質なんだ」
「世界が忘れたナニコの存在そのものだ」
「お前らが忘れるから、俺が覚えてるんだ」
「死んでも覚えるんだ」
「一ミリたりとも忘れやしない」
「一ミリでも忘れたら、十五センチじゃなくなってしまう」
「俺は〈十五センチ〉の能力を持ってるんだ」
「俺だけが、彼女を観測できる」
「一ミリでも忘れてしまったら、俺も彼女を忘れてしまう」
「それは嫌だ」
「嫌なんだ」
「耐えられないんだ」
「お前、泣いてるのか……?」
「は? そんなわけ——」
升野に言われて初めて、自分の声が熱く震えていることに気がついた。
×
宇宙は膨張し続けているらしい。
それがどうした。そんなことはどうでもいい。
ただ俺にとって大事なのは、宇宙の膨張によって俺の生活はなにひとつ変化しないということと、ナニコのことだけだった。
ナニコは死んだ。
死んだというか消えた。
消えたというか忘れられた。
ナニコの存在を知っているのは俺だけだ。
俺以外の全人類は、どうやらナニコのことを忘れているようだった。
なぜ忘れられた?
なぜ俺だけが覚えている?
なぜ彼女は俺の中だけにいるのだ?
——『死ぬのは怖い』とナニコは言っていた。ちょうど十五センチ、頭を動かして天を仰ぎながら。
今にして思えば、彼女はあの時、宇宙の果てを見ていたのだろう。
そして、自分が死んだ後に残された者がどんな顔をするか見たがっていたナニコは、今、俺の表情を見ているだろうか?
彼女はきっと、膨張し続ける宇宙の果てに行ってしまったのだ。
ものすごい速度で俺から離れていって、いつしか俺もナニコを忘れてしまうのだろうか。
『ミメティスム』と読む艶かしい声。
気だるげな眼差し。
どこかもったいぶったような物言い。
蠢くように潜む、美しい十五センチたち。
ナニコを形成する要素を、いつしかひとつずつ、絡まった糸をほどくように忘れていくのだろうか。
膨張しつづける宇宙の果てで、彼女はきっと孤独だ。
ナニコの気持ちを考えると、いたたまれない。
×
俺も、ナニコのいる場所に行きたかった。
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