すべての人間にはそれぞれ、固有の『能力』が与えられている。

それは誰が見ても素晴らしい能力であることもあれば、使いどころのまったくわからないようなみみっちい能力であることもある。

前者の例を挙げるには、芸能人、スポーツ選手、政治家、クリエイター、敏腕社長など、あらゆる世界の第一線で活躍しているプロフェッショナルの名を挙げればいい。彼ら、彼女たちは漏れなく、素晴らしい『能力』を持っている。

人に好かれる力。

早く走る力。

人を納得させることができる力。

指先を細やかに動かす力。

人を統率する力。

想像を形に起こす力。

——などなど、こういった素晴らしい力は『ギフト』と呼ばれる。平たく言えば才能のことだ。

そして、一方の俺はというと……。

圧倒的に後者の——みみっちい能力の方だった。

俺の能力は、〈目に見える風景の中で十五センチのものが判る〉というものだ。

歯ブラシの長さ。

文庫本の天地幅。

幼い子どもの歩幅。

木の小枝。

トイレのドアの取っ手。

小さなフライパンの直径。

満員電車で隣り合った美女との顔の距離。

黒板の右下に記されている日直の名前から黒板の縁までの距離。

半開きになった教室のドアの隙間。

階段の段差。

壁に入ったヒビ。

などなど——そういった生活の中に立ち現れるあらゆる『十五センチ』が直感的に判るのだ。

なぜ『十五センチ』なのかは不明。

その能力が何のためにあるのかもまったく不明だった。

自分にこの『能力』があると知ったとき、俺は神を憎みさえした。こんなもの、何の役にも立たない。

それどころか、生活を送る中で次々に「あれが〈十五センチ〉だ」「これも〈十五センチ〉だ」と情報が脳内に流れ込んで来て、うざったいったらありゃしない。

誰もが羨む素晴らしい能力が『才能』『ギフト』などと呼称される一方で、俺のようないかにも使いどころのない能力は『凡能』や『スクラップ』などと呼ばれている。要するにガラクタのようなもので、それで少しの暇つぶしくらいはできるかもしれないけど、仕事に繋がったり、莫大な富を生み出したりはしないということだ。

『ギフト』は輝かしい力で、『スクラップ』は無意味な能力。

——同じように与えられた固有の能力のはずなのに、こうまで差が出るか。

生まれた瞬間から敗けているような、そんな気分だ。

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