戻り路 ‐バックドア‐
ヘレネーが、ゲオルグに対しバックドアを仕込んだのは、彼と出会った培養槽でのことだった。
狂ったカンファエットAIからエメトの権限を取り戻した瞬間、ヘレネーはゲオルグが現生人類ではないという事実に行き当たっていた。
彼の総身には、彼自身も気が付かないほどの膨大な、世界を観測し続けられるほどの演算リソースが割り振られていたからである。
いや──むしろ彼自身から、世界のすべてにリソースが振り分けられていると言っても過言ではなかった。
その時点で彼女は、ゲオルグが星の雫に関係するものであると見抜き、そして彼の精神にバックドアを仕込んだのである。
だが、かつて月種であったヘレネーであっても、ゲオルグがそれに気が付くことなど考慮の外だった。
それほどまでに、ヘレネーの技術は卓越していたし、巧妙に行われたものだったからだ。
ゆえに、ゲオルグがそれを指摘したとき、彼女は迷った。
本来ならば、バックドアは最後の切り札だった。
彼がツェオ・ジ・ゼルに賛同したとき、無理矢理にでも説得するための緊急措置だったのだ。
ゲオルグ本人は、それを否定するかもしれない。
しかし、ヘレネーにしてみれば、彼という存在は随分なお人好しなのである。
情にほだされることなど、容易に想像できた。
「ヘレネー!」
だから。
名を叫ぶように呼ばれても、それでも彼女は逡巡し。
「──ッ」
やがて、それ以外に打つ手はないのだと悟る。
瞬時に直轄者から強奪した肉体が、
次の瞬間、大爆発が起こり、その肉体の大半は消失。
頭部だけが床面に落ち、一度跳ねて、どこかへと転がっていく。
自爆行為。
だが、それはヘレネーにとってはさしたる意味のないことだ。
彼女は情報知性体。
もとより肉体に、固執などしていない。
その知性のすべてが、波打つ電磁パルスとなって、ゲオルグの肉体へと殺到する。
「────」
ゲオルグが苦痛に呻いた。
毛細血管が断裂し、彼の鼻と目から血が噴き出す。
──ひとつの殻のなかに、ふたつの精神が内包される。
「ヘレネー」
ゲオルグの精神体が、その半ば以上に鎖が巻きつき、
彼女もまた、同じく精神体だ。
この状態では、
お互いが裸で向き合っているようなもので、彼のすべても、彼女のすべても、相互に閲覧可能な状況になっている。
ゲオルグは、ヘレネーの企てを知り。
ヘレネーは、ゲオルグの現状を知った。
「どうするの?」
ヘレネーの問いに、ゲオルグは瞑目で答える。
彼女がそっと手を伸ばすと、ゲオルグを縛り付ける
鎖が変形。
しかし、ヘレネーは止まらない。
さらに穂先が分裂し、無数の棘をはやし、呪いは彼女に痛みを与えようとするが、ヘレネーは逆に、それを握りつぶしてしまった。
音を立てて、砕け散る呪縛。
解放されたゲオルグが、倒れ込む。
いつかとは逆に、ヘレネーはそっと、それを支えた。
「あたしは世界を──現生人類を救いたい」
「俺は……ツェオに生きることを教えたい」
寄り添い、互いの耳元でそう囁きあうふたり。
目的は反目するようでいて、しかし一致していた。
ツェオ・ジ・ゼルが人間になってしまえば、もはや地球の演算中枢であるエメト・オリジン〝
そう、必要なくなるのだ。
そのためには──
「……いいのね?」
「ああ」
確認のように問う彼女に、ゲオルグは、迷うことなく頷きを返した。
ヘレネーは月種による、ゲオルグに対する介入をすべてシャットダウン。彼のアイデンティティを確立する。
神を名乗る存在による介入は、これで事実上不可能になった。
同時に、ゲオルグ・ファウストの制限されていた身体能力が、ヘレネー・デミ・ミルタという管制塔を得たことですべて解放される。
月種と──ツェオが〝密閉〟していた彼のすべてが、その刹那、解き放たれたのだ。
やがて、抱き合ったままの彼と彼女の精神体が、融合を始める。
すべては共有され、だが
かちりと、どこかで時刻を刻む針の音が鳴り響く。
そこで、現実の時間が動き出す。
「────」
立っているのはひとりの男だった。
真っ黒な外套を羽織っていたはずのゲオルグは、いつしか赤いロングコートを身にまとっていた。
「言っておくけど」
ゲオルグの口で、ヘレネーは忠告する。
「あたしは、ツェオちゃんを止めるためなら、あんたを使い潰すわよ?」
彼は答えた、彼自身の声音で。
「好きにしろ。俺は俺の、自分勝手な願いをかなえるだけだ」
「策はあるの?」
「残り時間は74、73、72秒。71秒だ。時間を稼いでくれ。あとは──任せろ」
「……結構痛いから、それだけは覚えといて」
「いらぬお節介だ……」
彼女は微笑み、彼は冷笑した。
それを
彼女の瞳は、憤怒に燃えている──
「奪うのですか、ヘレネー。あなたまで。あなたまでも私からゲオルグを奪って、喰らい尽くしてしまうつもりですか……!」
激情を露わにする屍人の少女に、ヘレネーは失笑をもって答えた。
「男心がわからないのね、あんたって。だから小娘なのよ。まったく──」
本当、世話が焼けるわ。
彼女はそう呟くと、ゲオルグの肉体でターン・アークを──その最大火力たるレールカノンをツェオへと向けた。
「すべての母として、教育してあげなくっちゃね、それがなんという感情なのかを!」
ヘレネー/ゲオルグが床を蹴り。
ツェオが急降下とともに牙を剥く──
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