導くもの ‐アイ・シャル・リターン‐

「────」


 風が強く唸る。

 肌に雪が吹きつける。

 その音だけが、彼の耳元には届いている。


「──ルグ」


 寒い。

 ただ、魂まで凍り付いてしまうような恐ろしさが、彼から熱量を奪い続けている。

 吐く息が、どこまでも白い。


「ゲオ──グ──グ」


(……ああ)


 彼は、心のなかで呻いた。

 なにもかも、もはやどうしようもないのだと。

 自分が願ったすべては、ここで終わるのだと、朽ちてしまうのだと。

 夜の海よりも深い闇のなかに落ちて行きながら、彼はそう思っていた。

 決してあきらめることが無かった男は。

 そこで初めて、挫折を経験して──


「ゲオルグ! いい加減、目を覚ましなさい!」


 だから、そんな声とともに頬が熱を帯びたとき、彼はひどく驚いたのだった。

 自分のことを名前で呼んでくれるものが、まだこの世界にいたのかと。

 

 彼は、驚いたのだ。

 ぐっと、力の入らない目蓋を、それでもなんとか開ける。

 定まらない焦点のなかで、黒いなにかが動いている。

 それは、必死に彼へと呼びかけていた。


「ゲオルグ! いま意識を失うのはまずい! 一度体温を消失すれば、心臓が止まるわ! あなたの心臓が止まったら、もう希望と呼べるものはなくなってしまう!」


 視界が揺れる。

 左右に、何度も、何度も。

 その度に頬が熱を持つ。

 熱が、電流が、が、電気信号となってニューロンを刺激する。

 焦点が、定まった。

 彼の頬を叩いていたのは──


「ヒラリオン!?」


 半ば首を断ち切られて、心臓からはいまだに情報流体を零す直轄者が、必死な表情でゲオルグの頬を叩き続けていた。

 反射的に、ゲオルグは右手を握り込み、その垂れ下がった顔面へと炎をおびた拳を叩きこんだ。


「ギャフン!?」


 面食らったように悲鳴を上げる直轄者。

 そこで、ゲオルグは気が付いた。


「……ヘレネー?」

「そうよ! あたしよ! なんで攻撃なんてしてくるかしらね、この盆暗ボンクラは……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、鼻を赤くした直轄者──ヘレネーが、ゲオルグを起きあがらせる。

 それから、どこからか生体活性アンプルや鎮痛剤を取り出し、彼の肉体に注射していく。


「……なんだ、その姿は」

「もっともだけど、それはいま、重要なこと?」

「…………」

「ジャスト・ア・モーメンツ! ストップストップ! 無言で拳を握り込むのはやめてちょうだい! わかった、説明するから!」


 その後、弁明のように連ねられた彼女の言葉によれば、つまりはこういうことだった。

 ヒラリオンを足止めするため、彼女は肉体を失ったものの、そのパーソナリティーまでは消滅しなかったのだという。


「あたしは高位情報知性体──そもそも、生命体ではないのよ。だから、命という概念が希薄なの。殺されても死なないわ。で、臨界自爆の瞬間に発生した磁気嵐に乗じて、ヒラリオンの補助脳幹にバックドアを仕込んでおいたのよ。これがあたしの十八番でね、そのせいで今こんな境遇なのだけど……ともかく、ツェオちゃんの活躍でこいつが活動を停止せざるを得なくなったから、肉体を頂戴したってわけ」


 なるほど、と、ゲオルグは頷いてみせたが、それよりも気になることが彼にはあった。


「ツェオは、どうなったんだ?」

「…………」


 彼の問いかけに、ヘレネーは、沈鬱な表情を浮かべた。

 その鎖された口元を、ゲオルグが睨むように見ると、


「ちょっと待ってちょうだい」


 彼女はそう前置きして、自分の首へと両手を添えた。

 肉の千切れる音が響く。

 彼女は自分の頭部を引きちぎると、それを胸に抱いた。

 そうして、いつかしたように指先を立てると、文字を描くようにふるう。

 ヘレネーの全身が、粒子とブロックノイズに覆われ、幾条もの小さな稲妻が放電される。

 その小規模な嵐が過ぎ去ったとき、直轄者だった肉体は、まったくの別物へと変貌していた。

 柳刃の眉に、赤く薄い唇。

 切れ長の瞳と、線の通った鼻梁。

 すらりと伸びた肢体。

 腰までもある長い髪。

 その全身を包む薄く黒いボディースーツ。

 足周りは金属ともプラスチックともつかない不可思議な物質が、分厚いブーツのようなものを形成しており、その背中には世界樹と、反転した世界樹の印が刻まれ、どこからともなく機械式の翼が伸びている。

 臀部からは、細い一条の尻尾が下がっていた。

 いつかの肉体に近い──それ以上の美貌を誇る彼女が、そこにいた。


「アイシャルリターン! 私、恥ずかしながら帰ってまいりました!」

「…………」

「こ、こほん……えっと、直轄者の肉体を得ることで、27.52%の性能を取り戻したわ。これで、ほとんどの事象をあなたに教えることができる」


 彼女は──


「よく聴いて、ゲオルグ。ツェオちゃんは──」


 ヘレネー・デミ・ミルタは、ゲオルグに対して、こう言った。


「庭園騎士ツェオ・ジ・ゼルは、北極の中央にそびえる原初の神樹木エメト・オリジン──この惑星の情報環境に対するくびきである〝世界樹の中核メフィスト〟を、破壊するつもりなのよ」


 それは、現生人類の終焉を意味するのだと、ヘレネーは語った。


「ゲオルグ、手伝って。あなただけが──人類を救えるわ」


 雪原のなか、長身の美女はひとりの男へと手を差しだした。

 男は。

 男は長い黙考の末に、その手を取って、こう答えた。

 すなわち──



「俺は──ツェオを人間にするだけだ」


 ──いつものように、なにも変わらない眼差しで、そう言ったのだった。

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