第5幕 だから消えないメモリー

逃避行 ‐デンジャラス・エスケープ‐

「メモリーを──思い出を、私は……うしないたくありません……」


 肩に担いだ少女は、壊れたように同じ言葉を繰り返した。

 吹雪の吹き荒れるなか、強行軍を続けながら、その言葉が紡がれるたびに、ゲオルグは奥歯を噛み締める。

 遠くで越種が、珪素の地面を貪る音が響いてくるが、彼にはもはや、そんなことはどうでもよくなっていた。

 ゲオルグたちは逃亡者だった。

 ひとつの尊い犠牲のうえに、一時的に急場をしのいだ敗残者だった。

 自ら犠牲になることを選んだ情報知性体との記憶は、あまり多くはない。

 それでもゲオルグの記憶野は、勝手に少ない記憶たちを再生する。

 今日までにあった幾つもの出来事。

 出会い、そしてほんのわずかな時間、ともに旅をした記憶。

 楽しげな日々、辛い毎日、哀しい明日。

 多くの記憶が脳髄で荒れ狂うなか、それでも彼の思惟は、少女に向けられていた。

 ヘレネーよりも、彼はツェオを、無慈悲なほど大切に思っていたからだ。

 ツェオというネクロイドは、いささか特殊だった。

 通常、人間がネクロイドとなれば、感情と記憶を失う。

 記憶も、心や魂と呼ばれるあたたかなものもすべて喪失し、冷たい情報流体けつえきで動く人形と化す。

 それは見掛け上、生きているようでいて、結局は死んでいるだけだ。

 情報流体が全身を巡ることで、まるで生きているように動くだけの死体に過ぎない。

 しかし、ツェオは違った。

 ほんとうに時折、まるで暗雲のなかから差し込む光のようにして、生前と変わらない言葉を口にすることがある。

 いまが、そのときだった。

 それゆえに、ゲオルグは苦しんでいるのだった。


(ツェオを、再構築しなくてはならない。このままではじき、ヒラリオンに追いつかれる。ヘレネーは無駄死にだ。完全なツェオであれば、或いは逃げ切れるかもしれないが、しかし──)


 指示式の上書きによる、ネクロイドとしての再構築。

 それは、彼女が今度こそすべてを失うことを意味していた。

 いま、天文学的な確率の上でかろうじて残っている記憶。その、どこに保存されているともわからないメモリーは、今度こそ消えてしまうに違いない。

 奇蹟が二度も起きないことを、誰よりもツェオ自身が理解していた。

 だからこそ再構築を、再起動を拒む。


「それでも」


 そう、それでもと、彼もまた繰り返す。

 ゲオルグは少女に。

 自らの手で、本人が望まないまま屍人へと変えてしまった騎士リッターに、生き延びて欲しいと願うのだ。

 生きるということの意味を、知ってほしいと、心より思うから。


「だと……いうのに」


 彼の思考が乱れる。

 ツェオのことだけを考えていることが難しくなる。

 やがて、軌道列車のなかでヘレネーと交わした言葉たちが、ゲオルグの脳裏で瞬き始める。

 命とはなんであるか。

 記憶や、思い出を失ったものが、本当に生きていると言えるのかという、ひとつの命題。

 そんなものに、答えが出るわけがない。

 なぜならその定義によれば、ゲオルグ自身が屍であり。

 なにより彼は、万物に解法を持つ、天才と言われる種類の人間ではなかったからだ。

 だからこそ、彼は星の雫を求めたはずだったのだ。

 自ら以外の誰かが、その命題に答えを出してくれると、そう信じて。

 それこそが、生きることだと考えて。


「……ツェオ」


 彼は、小さな声で少女の名を呼んだ。

 少女は答えない。

 ゲオルグは構わず歩き続け、少女に告げた。


「絶対に離れない。記憶を失うことが怖いというのなら、俺が忘れない。必ず、おまえに寄り添って、すべてを思い出させる。俺は、おまえを人間にしてみせる。だから、おまえは俺を」


 ──どうか赦さないでほしい。


 彼の願いは、言葉にならなかった。

 ただ、自戒するように少女の重みを噛み締めながら、ゲオルグは歩みを重ね続けた。

 吹雪のなかで、なにかが蝕まれるように失われていく。

 熱と呼べるなにかが。

 歩く。

 歩く。

 どこまでも、どこまでも。

 随分と歩きつめて、やがて辿り着く。

 彼らの目の前に。


 身を隠すことができそうな洞窟が──ぽっかりとその口を開けていた。

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