葉桜の季節に印度を想うということ

 インドを訪れた人は死生観が変わるとよくいわれる。果たして僕の死生観は変化したのだろうか? 僕は帰国後も相変わらずノンポリ(こんな言葉今でもあるかしら?)の学生で、普段はバイトと麻雀、たまにクラブに遊びに行ったり、腐るほど映画を観たり、合コンに誘われればホイホイと付いていき、学園祭では遊びに来る他校の生徒をナンパして、年に1・2度だけれど友達とスキーなどして学生生活を満喫していた。表面的には何も変わらないというのが実情だ。1ヶ月やそこらで人間は変わらない。僕という人間が強固であるのか、人間そのものの性質であるかは判らないが。


 僕はその後、就職活動中に知り合った女の子と付き合い始め、社会に出て2年目で結婚をした。周りでは2番目に早かった。(1番は最初に出てくるベテランバックパッカーだ。彼は学生結婚した)彼女とは趣味や好みがとても近かったので、この先一緒に過ごしたいなと思ったのだ。ただインドの話が2人の間で話題に上ると、彼女はどうしてインドなんて行ったの?と何度も質問してきた。僕はその度貧乏旅行がしたかったんだよと答えた。彼女がその答えに満足していたかはわからない。それが理由ではないが、彼女とは11年寄り添ったが結局別れてしまった。


 人間の精神構造のどこかに行動を規範する装置みたいなものがあって、その装置はインドに行ったことがある人とない人では決定的に違う作用を及ぼすのかもしれない。僕は社会に出てからもある意味、奇妙な人生を送ることになる。それがインドのせいなのか、僕の性向によるものなのか、わからない。彼女が考えていたように多少の影響はあるかもしれない。


 僕のこの旅行記が例えば国語の問題として試験に出され、旅行後の主人公の気持ちを7文字以内で述べよという問いがあったとしたならば、僕はこう答えるだろう。

いろいろあった。


(了)


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印度放浪記 鷲峰すがお @bobby315

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