第四章 無才者/蛇目黄道(Janome Kimichi)
第28話 彼ないし彼女
「あと数分でも遅かったら、お嬢様は助かっていなかったかもしれません」
「こんな片田舎の病院に赴任して、本家の方を治療することになろうとは……。名誉なことではありますが、でもこんなことはもう二度と御免です。あのお方にもしものことがあったらと思うと、気が気じゃありませんでした……」
「耳の痛い話です……」
「お嬢様は今……」
「ぐっすりとお休みになっています。激しく体力を消耗しましたから、一日、二日はお目覚めにならないかもしれません。寧ろ、あんな瀕死の状態でよく体力が持ったなと、驚いています」
「そう、ですか……」
細雪先生は僕の肩をポンと手を置いた。
「ご心配されるのもわかりますが、黄道君も休んでください。病室は用意してありますから」
雨祗ちゃんが手術室に運び込まれてからずっと、僕は入口近くのソファに座っていた。眠気も気だるさも感じることなく、ただひたすらに雨祗ちゃんの無事を祈りながら、ここにいた。
途中、看護師さんが僕を気遣ってくれたり、先に治療を終えた満ちゃんがスポーツドリンクを持ってきたりしてくれたりした。彼女たちからも「休んだ方がいい」と言われたが、丁重に断った。少し離れた場所には十字路の廊下があり、多くの患者や医師が往来した。その人数をざっくりと言えないくらい、時間が経過していた。
看護師さんに病室に案内された。ベッドは四つあり、うち二つは既に使用者がいる。正面にある大窓からは藍色の空が臨めた。
「やーっと来やがったな、金魚のフンが」
向かって右奥のベッドには満ちゃんがいた。水色の病衣を着て、ベッドの上に
「おい、なに人のこと舐め回すような目で
「えっ、今、拳銃持ってるの……!?」
「……」
しばしの沈黙の後、満ちゃんはサイドの棚の上にあったスナック菓子の袋を口で開けた。そしてボロボロとカスを零しながら、左手で菓子を貪った。
満ちゃんの正面にあるベッド、僕から見れば左奥のベッドのカーテンが閉められていた。ここに来るまでに、看護師さんが、ここに満ちゃんと白露さんが入院していると言っていたので、そこには白露さんがいるのだろう。あの人も大きな傷を負っていたものの、命に別状はなかったらしい。そう、満ちゃんから聞かされた。
満ちゃんのご機嫌を鑑み、僕は左手前のベッドを使用することにした。靴を脱いで、ついでに靴下も脱いで、ベッドに横たわる。プレスされているような重みを全身に感じた。相当気を張っていたようだ。
雨祗ちゃんは、お嬢様は明日にはお目覚めになるだろうか。しばらくは面会できないだろうけれど、できるだけ早く、お礼を言いたい。そしてそれとあの時何を思っていたのかを確認したい。
早く良くなってほしい。これは僕のエゴだろうか……。
気づくと室内は真っ暗になっていた。さらには身体に毛布が掛かけられており、カーテンが閉められていた。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。看護師さんが気を遣ってくれたのかと思ったが、スナック菓子のカスが毛布に付着しているのを発見した。
尿意を催しトイレに立った。緑色の非常灯に照らされたリノリウムの廊下を静かに歩く。
お化けやら幽霊やらの存在を信じている身としては、このような場面で足を止めたり後ろを振り向いたりはできない。神経質になる。廊下の角を曲がるにも、トイレのドアを開けるにも、洗面台の鏡の前を通りすぎるにも、用を足すにも、マグマの上に渡された氷の綱を渡るような、慎重さと大胆さが必要だった。
ドアを開けると、足音が聞こえてきた。思わず体が固まる。巡回中の看護師さんだろうか、入院患者だろうか、それとも……。
足音は緩やかに小さくなり、ほどなく聞こえなくなった。とりあえず危険は去ったようだ。急いで部屋に戻ろう。
人は、心臓が止まりそうなほど驚いた時、叫び声などというものは出せないものなのだと、この時僕は身をもって知った。
数m先の廊下の角から腕が伸びていた。細くて少し短い腕だ。僕が無様に腰を抜かしても、腕は悪戯に、蠱惑的に、揺れ動いていた。まさかとは思うが、僕を誘っているのか?
ほどなく腕は角の陰に消えた。どうしよう。こんな時、
まるで虹を追い掛けているような感覚だった。行けども行けども、僕は腕に追いつけなかった。どれだけ角を急いで曲がってもまた次の角におり、もっと急いでそこへ急いだが、今度は階段の手摺りから腕を出していた。足音はするから、人間であると信じたい。
階段を昇りきると、腕はドアの隙間から僕を誘っていた。間もなく腕が引っ込んで、ドアが閉まった。
この先はおそらく屋上だ。いよいよご対面ということか。果たして何物が待っているのか。息を整え、ドアを開けた。
朧月が浮かぶ夜の屋上の中央付近に、一人の人物が立っていた。中肉中背の体格に、短い髪型。少年だろうか? 服装は病衣やパジャマではないからに、入院患者ではないのかもしれない。とは言え僕も、入院しているわりにはカジュアルな服装なのだけれど。
振り返った人物は中性的な顔立ちだった。歳は僕よりは若いようではある。朗らかな笑顔を浮かべながら、僕に歩み寄って来た。
「こんばんは」
「こんばん、は……」
呑気に挨拶してる場合だろうか? 敵意は感じないが、ここのところ、新しく会う人物から命を狙われまくっているからに、油断はできない。突然雷撃を放ったり鎌や拳銃などを構えるかもしれない。もとよりも、まだ相手が人間である保証すらない。
「君は誰だい? こんなところにまで呼び出したからには、僕に何か用があるんだろ?」
中世的な人物は返事もせず、僕の目と鼻の先まで接近してきた。果実を彷彿とさせる甘く爽やかな匂いが、彼あるいは彼女から感じた。これだけ近づかれても、性別はハッキリしない。彼あるいは彼女はしばらくの間、僕のことをあちらこちらから凝視した。
「あ、あの……」
彼あるいは彼女は僕から三、四歩離れた。ややあってニヤリと笑った。
「うん、ゆっくりだけど確実に白くなり始めてるね。うんうん、いい調子だ」
白くなり始めている? 何のこっちゃ? 美白した覚えなど一切ないし、体調不良で顔色が悪いというわけでもない。
「あぁ、ゴメンね、質問無視して。今日はお見舞いというか様子見というか、それだけの用事だよ。だから僕のことは忘れてくれていいからね、白虹お兄ちゃん」
「どうしてその名前を――」
そう言いかけて、ハッとした。
「ま、まさか君も僕の親戚だとか言わないよね!?」
彼あるいは彼女は、含みのある笑みを浮かべた。
「親戚ではないよ。敢えて言うなら、そうだな、お互いの親に家族ぐるみの付き合いがあったって感じかな」
親の知り合い。つまりは
何が目的だ? 陽牢石火らと同様に僕を誘拐するのか、あるいは殺害か。いずれにせよ、のこのことついて来たのは失敗だった。幸い、手を伸ばせばすぐドアノブに手が掛かる。隙を見て即刻逃げよう。
「あ、ちなみに“
彼ないし彼女は右目でウィンクをした上に、親指を立てたピースをその横に決め、さらには小さく舌を出した。ますます性別がわからない。もはやキャラクターもよくわからない。どうリアクションすればよいのやら……。一人称が“僕”だか男の子なのだろうか。いや、“僕”という女の子も少なからずいるか。もういっそのこと聞いて確認してしまいたい気分だ。
「用件はこれでお終いです。夜分遅くに失礼しました。帰り道、気をつけてね」
「えっ?」
「え?」
「あ、えっと……帰っていいの?」
「うん、いいよ。だって白虹君、疲れてるでしょ? “墨”のことなんか気にしないで、ゆっくり休んでよ」
「あ、あぁ、うん……」
僕が油断して後ろを向いたとろこを襲うつもりなのだろうか。「帰り道を気をつけろ」というのは、そういう意味合いかもしれない。その線を考慮し、僕は彼ないし彼女から目を離さずに屋上を出る。その間、彼ないし彼女は笑顔を浮かべ、両手でヒラヒラと手を振っていた。ドアを閉めても、すぐには階段を降りず、様子を見た。物音などは聞こえてこない。しかし何かしらの準備をしている可能性はある。
そろそろ良いだろうか。ゆっくりとドアを開ける。
「!?」
彼ないし彼女の姿はどこにもなかった。陰に隠れているのかと思って探してみても、やはり見つけられない。
ここから下に飛び降りたのか? 何か道具があれば不可能ではないとは思うが。それともやはり――
急に背筋が冷たくなった。早く病室へ戻ろう。
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