第25話 血生臭き陽牢一族

 部屋の奥、雨戸とガラス戸を破壊して、何かが室内に飛び込んできた。仄かな月明かりが外から差し込み、それを照らす。


 人だ。それも女性だ。俯せで倒れ。顔をこちらに向けている。二十代後半くらいだろうか。端正な顔立ちだが、身体も含めて傷らだけだった。誰だ、この人?


「白露さん!?」


 雨祗ちゃんが叫んだ。


「えっ、この人が!?」


 いつもお面をしていたから、その素顔を見たことはなかった。けれど言われてみれば、背格好は白露さんだ。


 白露さんは鴻森こうもり家のエージェントの人たちとこの建物を取り囲んでいたはず。一体何が……。


「雨祗様……、黄道様……、申し訳、ありません……」


 白露さんは今にも事切れそうな苦しげな表情で言った。余程体力を消耗しているのか、起き上がらず、床にべったりと伏せている。


「まったく、騒々しいねぇ……ゴホゴホッ!」


雲海くみさん、もう少し静かにしてくれない? 義母に何かあってからじゃ遅いのよ」


「これでも十分加減したつもりよ」


 声がしたとほぼ同時に、白露さんの背中の上の空間が、もやもやと揺らぎ始めた。その場初を凝視していると、次第に人影が現れ、間もなくそこに一人の人間が出現した。群青色のタイツで全身を覆った女性だった。タイツがはち切れんばかりに胸が大きく、グラマーな体型をしている。


 女性が覆面を取ると、中に収まっていたセミロングの髪を振り乱した。そして一つ大きく息を吐いた。


「そもそも、そんな死に損ないのことなんて知ったこっちゃないし、こっちは全力なの。殺し屋の仕事に素人が口挟まないでくれる?」


 彼女たちが言い争っているのを傍目で見ていたが、ややあって僕は思わず声を漏らした。


「どうしたの?」


 雨祗ちゃんはひそひそと僕に聞いた。


「あの人だよ、新幹線で僕を絞め殺そうとした車内販売の人!」


「……まさかとは思うけど、胸の大きさで判断してない?」


「し、してないよ! 真面目に聞いて!」


「ゴメンゴメン。でもそれでハッキリしたよ。あの人、『雲隠れ』の日鷹雲海だ」


「有名、なの?」


「雷鳴ほどじゃないけど、でも中々の手練てだれだったはずだよ。今着てるあのタイツ、あれ、光学迷彩が施された特殊なタイツで、それを使った暗殺が得意な人。新幹線の時も、あのスーツ使ってやり過ごしたんだと思う」


「なるほど……。でも、満ちゃんに脳天撃ち抜かれても生きてたのはどう――」


 カシャン! という音が、続けざまに聞こえた。見ると、日鷹雲海が白露さんの両手首に手錠のようなもの装着させた。わざわざそんなことすると言うことは、白露さんはただ気絶しているかもしれない。


 日鷹雲海が白露さんから立ち上がった。


「で、どこまで話したの?」


「白虹君が私たちの親戚だという話は終わった。ちょうど彼の価値を話そうとしてたところ」


「そこまで話したなら十分でしょ。とっとと白虹君を、頂戴よ」


「まぁ予定とは少し違うけど、そろそろ説明パートもダレてきたし、展開を変えるには丁度良いか」


「説明パート?」


「あなたは気にしなくていいよ」


 萌さんの視線が、日鷹雲海から僕へと写り、僕は萌さんと目が合った。陽牢石火とは異なり、まるで力強さのない悲しげな瞳だった。それを見ていると、何だろう、蝋燭の灯火を眺めているような不思議な気持ちが沸き上がってくる。目が離せない。


「白虹君、こっちへいらっしゃい」


「はい。ーーえっ?」


 僕は意図せず返事をしていた。そして意図せず歩き出していた。


「えっ、こうちゃん!?」


「な、何で!? 身体が勝手に!」


 抗おうと必死に試みたものの、首から下の身体の動きがゆっくりになるだけで、動作自体を止めることはできなかった。


 雨祗ちゃんは僕を捕まえるために手を伸ばしたんだと思う。でもその手は伸びきる前に、中途半端なところで止まってしまった。


「そうそう、そのまま大人しくしてな」


 満ちゃんが言った。その右手には拳銃が握られており、雨祗ちゃんのこめかみの辺りに銃口を突き付けていた。


「満ちゃん! どうして!?」


 僕は首をギリギリまで捩って、満ちゃんに尋ねた。首から上だけは、自由に動かすことができた。


「ウチはお前らに協力するとは言ったが、仲間になるとは言っていない。そこの鬼婆に色々と報告することがあるから、一緒について来たまでだ」


「そ、そんな……!」


「夕屋満、貴様っ……!」


「……じゃあ満ちゃんは、この道中、ずっと私たちを騙してたっていうの?」


「……あぁそうだよ。そこのおっぱい女も、ウチが一芝居打って逃がしてやった。あん時撃ったのはペイント弾だ。もちろん、今この子には本物の銃弾が装填してあるぜ」


「っち、何が逃がしてやっただよ」


 日鷹雲海は舌打ちをして言った。


「お前がしゃしゃり出てこなきゃ、もっとスマートに事は運んでたんだ」


「しゃしゃり出てきたのはテメェの方だろうが。ウチの計画の邪魔するんじゃねぇよ」


 萌さんとのやり取りの時も思ったけれど、この人たち、統率が取れていない。萌さんも近いことを言っていたが、この一団は、目的だけが共通して手段は各々に委ねるという、限定的な組織なんだ。


「何でも、いいが、お前に、頼んで、おいたことは、ちゃんと、果たしたんだろうね」


「……あぁ、あのことか。うっかり忘れてたぜ」


 満ちゃんは左手で頭を掻いた。


「あんたの言う通りだった。そいつには間違いなく


 能力? 何の話だ。僕には才能も能力も何一つないことが唯一のアイデンティティのような人間だぞ?


「そうかい、ご苦労だったね、死神」


 陽牢石火が不敵な笑みを浮かべた。


 そうこうしている間に、僕は萌さんのところまで辿り着いてしまった。


「よく来てくれたわね、白虹君」


 萌さんは僕の頭を優しく撫でた。


「一体僕に何をしたんですか?」


「簡単に言えば催眠術の一種ね」


「さ、さいみんじゅつ……?!」


「そう、催眠術。私は殺し屋じゃないけど、こういったことが多少は得意なの。もっとも、私の今の実力じゃ、通用しない相手も少なくないけど」


「萌さん、私はもう、ゴホゴホッ! ……っう、我慢の、限界だよぉ! とっととやんな!」


「はい、お義母かあさん」


 興奮気味の陽牢石火に対して、萌さんは冷静に返事をした。そしてサイドテーブルの上から何かを持ってきた。右手には物々しいサバイバルナイフ、左手にはガラスのコップが握られている。


「白虹君、手の平を上にして右手を前に出して」


「はい」


 またしても勝手に返事をして、勝手に右手が水平に前に出された。


「白虹君、ちょっと痛くするけど、石のようにじっとしててね」


「はい。ーーえっ?」


「黄道様!」


「駄目っ、逃げて!!」


「ーーっ!?」


 逃げる術も隙もなく、僕は萌さんに手首を下から刺された。


 初めて経験する鋭い痛みが、脳天まで一気に駆け上がってきた。普通ならのたうち回ること必至だが、今の僕にそのようなことはできず、喉が潰れる勢いで叫ぶことしか叶わなかった。


 ナイフが抜かれると、壊れた蛇口のように、血が溢れてきた。行燈の灯火が黒い液体に紅と艶を添えた。脈に合わせて勢いに強弱が生まれる様子は、見ていて気味が悪かった。そしてその気持ちに拍車を掛けているのが、萌さんの行動である。


 傷口も隠れてしまう勢いで流れ出るそれを、萌さんはコップに溜め始めた。ベッドや畳、萌さんの手や服に付着しても、萌さんたちはまるで意に返さない。ゆっくり確実に、コップを血で満たしていく。


「早く……! 早くぅ……!」


 陽牢石火は口からよだれを垂らし、血走った目をして言った。


「もう少しですから、待っててください、お義母さん」


 少し眩暈めまいを覚え始めた頃、コップに八割ほどの血が溜まった。血の勢いは少しずつ弱まっているものの、絶えず流れ続けている。


「お待たせしました」


 萌さんが丁寧に差し出したコップを、陽牢石火は、彼木の枝のような腕で奪い取った。そして一切の躊躇もなく、肘まで上げて、中身をゴクゴクと飲み始めた。思わず吐き気が込み上げ、反射的に口を閉じたが、涙は一滴零れた。


「想像以上にグロいな……」


 日鷹雲海は苦々しい顔をしてぼやいた。 


「それなら目を閉じてればいいわ。これから起こる奇跡も、一緒に見逃すことになるでしょうけどね」


 変化は間もなく現れた。


 骨と皮しかないような陽牢石火の腕が、空気が注入されたかの如く、徐々に膨らみ出した。おそらく筋肉がつき始めたらしい。さらに皮膚の皺やシミは薄くなり、血の気が現れていく。一番顕著な変化は髪だろう。絹糸のような白髪がうねうねと頭から生えてきて、ほどなく腰ほどの長さまで伸びた。何なんだ、これ……!


 コップの中身が空になった。紅を差したような唇が縁から離れる。一間開け、その口から吐息がつかれた。


「あぁ、生き返った……!」


 陽牢石火が腕を下ろした。それによってその顔が顕になる。


 別人だった。本人が口にした言葉通り、今際の際にいた人間が、魔法か何かで四半世紀もの時間を巻き戻し、息を吹き返したような変貌ぶりだ。どんなに高級な美容品や美容法も、ここまでのアンチエイジングは発揮できはしまい。


 姿形は勿論のこと、その気配も今までとは別格だった。それまでも充分に恐ろしかったが、そこに研ぎ澄まされた凄みが加わった。


 これによく似た凄みを僕は知っている。その界隈の人間たちからはを畏れられ、この国の事実上の支配者とも言える天杜家の中でも圧倒的な力を持つ、猛者の中の猛者三名ーー彼らが放つそれと、よく似ていた。明らかな違いは一つだけ。その脅威が今、僕たちに向けられているかいないかだ。


「けっけっけっ、酷い顔をしているねぇ、雨祗お嬢ちゃん」


 陽牢石火が萌さんにコップを渡しながら言った。その雨祗ちゃんはといえば、怒りやら驚きやら焦りやらが複雑に入り混じった表情を浮かべていた。


「先の短いだろうお前らの後学のために教えておいてやるよ。部外者はまず知らないが、陽牢家は代々、なのさ。血の繋がりが濃ければ濃いほど、そして血が秘めている力が強ければ強いほど、その効果は強力かつ迅速になっていく。篝火の餓鬼どもはいくら飲んでもせいぜい寿命を半日伸ばすの程度だったが、さすがは鬼火の息子だ。少なくとも十五年は若返ったよ!」


「嬉しそうで何よりですね」


 雨祗ちゃんは抑揚のない声で言った。


「そんなことより、早くこうちゃんを手当してあげてください。目測で500ml以上の流血をしています。このままじゃーー」


「必要ないわ」


 萌さんが口を挟んだ。


「もう治ってるからね」


「――!?」


 まさかと思い、僕は手首を見た。そして言葉を失った。


 手首は無事だった。かさぶたはおろか傷跡も、流れ出た血の跡すら残っていない。それは治ったというよりも、腕を新しい物と交換されたような、恐ろしい違和感を放っていた。間違いなく自分の腕のはずなのに、自分のものと認識できない。


「白虹君、もう動いていいわ」


 萌さんのその声を聞いた途端、張り詰めた糸が緩んだような感覚がして、僕の体はよろけた。しかし反射的に足を踏み出して、転ぶことはなかった。


 ややあって、僕は自分の体が動かせることに気づいた。感動を味わうこともせず、急いでそこに触れる。どれだけ強く伸ばしたり引っ張ったりしても、めつすがめつ観察しても、傷や血痕はどこにも見つけられなかった。


「これも萌さんの催眠術ですか?」


「まさか。それはあなた自身の力よ」


「僕の力?」


「そう、その人並外れた治癒力が、あなたの力。そしてそれが陽牢家の人間である証拠よ」


 うちの血筋はねぇ、と陽牢石火は鼻や口に着いていたチューブをむしり取った。


「日鷹のような超越した科学技術も、夕屋のような一子相伝の業や得物もない。だが多かれ少なかれ、人外同然の天賦の才を持った人間が生まれてくるんだよ。私や鬼火、そしてお前の様にね」


 僕に皆の視線が集まった。心なしか、それまでとは目の色が違うように思える。特に、雨祗ちゃんの目がそうだった。


 僕のことを心配してくれているのだろうか。いや、それだけならあそこまで強張った表情にはならない。だとすれば多分、警戒されている。得体の知れない者として認知され、線を引かれた。壁を作られた。


 痛い。絶対零度の氷でできた長い釘を、ゆっくりゆっくり胸に押し込まれているように痛い。軽蔑や嫉妬の目で見られたことは今まで何度もあった。寧ろそれらは日常的に僕に向けられていたものだ。それを思えば、そこにたった一人の畏怖の目を向けられたところで、大したダメージにはならないはずだ。


 でもそうじゃなかった。何千何万の軽蔑視に晒さるよりも、雨祗ちゃんのそれは僕の心に堪えた。雨祗ちゃんとは物心気づいた頃から一緒にいるけれど、そんな顔をされたのは生まれて初めてだ。

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