第23話 敵を騙すにはまず味方から
部屋に戻る前に、僕はお手洗いに行った。食堂を出てすぐのところにあったので、一人で行って、パッと済ませてきた。
その後はもちろん真っ直ぐ、雨祗ちゃんたちが待つ食堂に戻ろうとした。
ふと、食堂とは反対方向から人の呻き声のようなものが聞こえた。咄嗟に振り返ると、薄暗く廊下の先にドアがあった。目を凝らすと『STAFF ONLY』と彫られたプレートがついていた。
関係者以外立ち入ってはいけないのは、重々わかっている。でもドアの奥から聞こえてくる、地を這うような低い呻き声は僕を怪しく誘っているようだった。ほどなく僕の足はドアへと向かって進み出した。
あと数歩でドアノブに手が掛かる。そのタイミングで突然、手首を掴まれた。驚いて振り返ると、
「そっち、ダメ」
「ご、ゴメン、苦しそうな声が聞こえてきたら、思わず……。誰かいるの?」
「おばあちゃん。病気なの。そっとしておいてあげて」
「そう、なんだ」
「早く戻ろ」
カリンちゃんに手を引かれ、僕は食堂に戻った。その頃には呻き声は聞こえなくなっていた。あっちも気になるが、カリンちゃんの手がやけに冷たいことも気掛かりだった。水仕事でもしていたのだろうか?
三人で部屋に戻ると、布団が敷かれていた。奥に枕があり、川の字の形を取っている。座卓はテラスの方に移動されていた。
「だー、腹一杯だー!」
満ちゃんは躊躇なく真ん中の布団にダイブした。あぁ、傍から見たらこの人もう普通に旅行している人にしか見えないじゃん。これで温泉がある宿だったら絶対このタイミングで入りに行こうって言い出すやつじゃん。
「なぁ、土産買いに行こうぜ? 受付の隣んとこで」
「満ちゃん……さすがに寛ぎ過ぎ」
「旅行しに来てんのに寛がねぇ馬鹿がどこにいんだよ」
何で僕の方が場違いのように扱われているんだろう?
「雨祗ちゃんも何か言ってよ」
「お土産は明日のチェックアウトの時でもいいんじゃない? 何なら郡山に戻った時でも十分余裕あるし」
「そういうことじゃなくって!」
「それもそうだな。――おい色魔、テレビ点けろ」
「目の前にあるんだから自分でやってよ。それに僕は色魔じゃない」
その後はバラエティ番組をダラダラと鑑賞して過ごした。明日の打ち合わせもなければ白露さんからの連絡もなかった。
本当にただ旅行しに来ただけなのか? 陽牢石火との対決なんてなかったのか? いつ襲われるともわからない恐怖はどこにいったんだ?
そんなことを考えているうちに、次第に眠気を感じるようになってきた。満ちゃんと雨祗ちゃんはテラスの障子を閉じて寝間着に着替えていた。満ちゃんはプリントTシャツに黒のスウェット、雨祗ちゃんは紺地に白のドット柄パジャマだ。二人がそうしたなら、僕も着替えて、寝る準備をする他なかった。
「それじゃ消すよー」
雨祗ちゃんが照明の紐を引いて、常夜灯を点けた。室内がオレンジの仄暗い色に染まった。いつの頃からか寝る時は部屋を真っ暗にしており、常夜灯はまるで使っていなかったが、久しぶりにこの光を見ると不思議と穏やかな気持ちになった。
「くれぐれも妙な気を起こすなよ」
満ちゃんのドスの利いた声が聞こえた。
「そんなに心配なら僕を
顔を見るのが怖くて、僕は満ちゃんに背を向ける。
「こうちゃんはそんなことしないよね? 絶対にしないよね?」
満ちゃんを挟んだ奥から、雨祗ちゃんの声が聞こえてきた。止めてよね、その『絶対に押すなよ!』的なこと言うの。僕は「はいはい」と言ってあしらった。その後、雨祗ちゃんによる怪談話や修学旅行のノリでの「恋バナ」の
周囲が静かになると、途端に外の様子がわかった。雨脚はいまだ弱まっていないようで、細い竹を束ねて激しく振ったような音が、絶え間なく、鼓膜を微かに震わせた。明日には止むだろうか? 心配だ。雨音を聞きながらそれを考えているうちに、眠気はさらに強まって――
誰かいる。大人の男が二人。顔は見えないが確かにそこにいる。知らない場所にいる。僕から少し離れたところで向かい合っている。
一人の男は長剣と短剣を持っていて、それを使ってもう一人の男を滅多斬りにしていた。かなり激しいが、音は聞こえない。血が飛び散って僕の体に付着したが、臭いや感触、温度も感じなかった。
もう一人の男は無抵抗に斬りつけられ続けている。顔は見えないはずなのに、笑っているのがわかる。楽しそうというよりは、勝ち誇ったような笑みだ。どうして笑っていられるんだ? あまりの痛さに気が狂ったのだろうか?
もう一人の男の全身が傷に
剣撃は一向に止む気配はなかった。同時に、皮膚が剥ける現象も止まらない。これが永遠と続くのか思っていたら、斬られている男は徐々に幼くなっていた。そしてついには赤ん坊になってしまう。
赤ん坊が僕の方を見た。すると突然、僕に跳び掛かってきて、胸倉を強く掴んだ。赤ん坊のくせに、恐ろしいほど力が強く引き剥がせない。
赤ん坊の口が動いた。何か喋っている。
「こうちゃん」
赤ん坊が僕を呼んだ。よく通る声だった。
「起きて、こうちゃん」
違う、赤ん坊じゃない。この声はお嬢さ――
強い衝撃に襲われて、目の前で火花が散った。
「とっとと起きろ、寝ぼ助が」
僕のぼやけた視界にお嬢様もとより雨祗ちゃんと満ちゃんが写った。あぁ、なるほど、どうやら満ちゃんに殴られたか蹴られたかして、僕は無理矢理に起こされたようだ。
「一体どうしたんだよ……」
僕は衝撃を受けた額を手で押さえながら、上半身を起こした。部屋の中は薄暗く、まだ夜中の時間帯のようだが、雨祗ちゃんも満ちゃんも寝間着から着替えていた。でも雨祗ちゃんの格好は着流しに変わっており、帯に短刀を
「これから
「かげろうせっか…………えっ、陽牢せっ――!?」
再び衝撃が走った。
「大きな声出すんじゃねぇよ、馬鹿が」
「満ちゃん、さすがにそれ以上は殴らないでほしいな……」
「好きで殴ってるんじゃねぇよ。馬鹿が馬鹿なこと言わなけりゃ済む話だ」
「こうちゃん、大丈夫?」
「大丈夫……今のでしっかりと目が覚めたよ……」
タンコブができたんじゃないかと、僕は頭を摩った。今のところ大丈夫そうだ。
「というか、どういうことか説明してくれる? 宿に着いてからずーっと寛いでいたっていうのに、急にどうしたのさ」
「あれはカモフラージュだよ。この部屋に盗聴器とか仕掛けられてるかもしれないからね。でもこうちゃんが寝てる間に部屋の中隅々まで調べて、そういうのが一つもないってわかったんだ。だから二人を起こして、行動に移ろうってしてるわけ」
「んなこともわかんねぇとか、お前どんだけ鈍いんだよ」
雨祗ちゃんはともかく、満ちゃんは嘘偽りなく寛いでたよね?
「それはいいとして、今から行くってことは、車とかで移動するってこと?」
「ううん、ここが潜伏先だから、その必要はないよ」
理解が追いつかず、しばし何も言葉が出てこなかった。
「いつからわかってたの? ここに陽牢石火がいるって?」
「最初っからだよ。その上で嘘の情報で塗り固めて、向こうがどう動くかを探ってたの。いわゆる陽動作戦だね」
やけに無謀なことをするとは思っていたけど、そういうことだったのか。やっぱり僕は鈍いようだ……。
「ゴメンね、黙ってて。でも『敵を
「いや……うん、いいよ、気にしなくて……。ん? それじゃあ、トモル君やカリンちゃんって……」
「石火の孫だね。まだ小さいけど、油断はしない方がいいだろうね。モエさんは、石火の息子、
僕は思わず頭を抱えた。
「さすがに無謀過ぎだよ……。部屋で寛いで、夕飯もしっかり食べて、普通に就寝して……。そんなんじゃ、いつ陽牢石火に殺されてもおかしくなかったじゃないか」
「そうだね。でもそうはならない可能性は十分にあったよ」
「どうして?」
「それはこれから確認しに行こう。取り敢えずこうちゃん、着替えて準備して」
着替えながら、ふと気づく。
「白露さんはどうしてるの?」
「他のエージェントと一緒に、民宿を取り囲むようにして外で待機してるよ。夕飯食べ始めた頃から、もうスタンバイしてたみたい。何かあったら、すぐ駆けつけてくれるよ」
あの雨の中、ずっと外にいたのか。今はもう雨の音は聞こえないけれど、それでも大変なことには変わりない。この件が片付いたら、ちゃんとお礼しよう。
「着替え終わったね。それじゃいざ出陣……!」
灯りが消えた廊下を抜き足差し足忍び足で進んでいく。陽牢石火がここにいるとわかった途端、空気が重く冷たいものに感じた。
向かった先はやはり、食堂の先にある『STAFF ONLY』のプレートがついたドアだった。前回来た時と違い、怪しげな呻き声は聞こえない。だがそれを遥かに上回る怪しく恐ろしい気配が、ドアの隙間から漏れ出ていた。ドアノブを掴んだ途端、ドア自体に噛みつかれてしまいそうだ。
コンコンコン! と雨祗ちゃんは律儀にもドアをノックした。
「入れ」
そして律儀に返事がした。声を聞いただけで鳥肌が立った。
「失礼します」
雨祗ちゃんに続き、僕、満ちゃんの順で入室した。
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