第三章 鬼婆/陽牢石火(Kagerou Sekka)
第16話 安達ヶ原の鬼婆
子どもの頃、心の底から怖いと思った昔話、もとより怪談話があった。それが「安達ヶ原の鬼婆」だった。
あらすじはこうだ。
その昔、都に暮らすとある大臣と奥方の間に一人の女の子が生まれた。大変可愛らしい姫で、皆から大切に育てられたが、五つになっても一切言葉が喋れなかった。医者に診てもらったところ、姫は生まれつき口を利くことができない病を患っていると診断された。
何とかして病を治せないものかと、大臣と奥方は
大臣からの命とあっては岩手は断ることはできなかった。しかし岩手には一人娘がいた。彼女を残していくことが不安だった岩手は、娘に形見のお守りを渡し、涙ながらに胎児の生き肝を求める旅に出た。
だがどこを探しても、胎児の生き肝は見つからなかった。当然と言えば当然の話だ。それでも岩手は懸命に探しつづけ、遂には都から遠く離れた安達ヶ原の地まで到達した。無闇矢鱈に探し回っても仕方がないと考えた岩手は、丁度良い岩屋を見つけてそこに住みつき、旅をする妊婦を待つことにした。
それからいくつもの歳月が流れ、岩手は白髪交じりの老婆になってしまった。なおも待ち続けた彼女の元に、ある日、旅の若い夫婦が現れ、一晩泊めてほしいと言ってきた。女の方は腹が大きく、彼女が妊娠していることを岩手は察した。内心で多いに喜んだ岩手は、それをひた隠しにして二人を泊めた。
ほどなく女は腹痛を訴えた。岩手は男を峠にある薬屋へ案内すると、呈のいいことを言って自分だけ先に家へ戻った。そして女の隙を窺って、隠し持っていた出刃包丁を逆手に構えると、背中をめがけて一突きにした。その後、腹を裂いて胎児を取り出し、念願だった生き肝を手に入れた。
男が戻って来る前に女の遺体を処理しようと、岩手が女の身体に手をかけたその時だった。女が首からお守りを下げていることに気づき、さらにそれが都を出るときに自分の娘に渡したものだと気づいた。岩手は絶望で泣きわめき、発狂した。
以来岩手は旅の者がやって来ると、殺しては食う、殺しては食うを繰り返し、本物の鬼婆になってしまったという……。
その後、旅の僧侶が岩手を弓矢で退治するのだが、そのあたりの内容は割愛しよう。というよりも、あまりよく覚えていない。自分の娘と孫を殺してしまったという展開が、当時の僕には衝撃が強すぎて、まるで耳に入っていなかったのだと思う。
そう言えば、その話をしてくれたのは誰だったっけ? 雨祗ちゃんが隣にいて、何かの機会に大人の誰かが話してくれたような気がするのだけれど、どうにもその人の顔から靄が晴れなかった。まぁ、無理に思い出す必要もないか。
それはさておき、僕たちは今、その悪名高き鬼婆と同じ通り名がつけられた殺し屋、
新幹線での移動時間はおよそ一時間。そう長くない乗車時間ではあるが、緊張と不安、そして新幹線に乗るまでの様々なアクシデントに起因する疲労を癒すためにも、ここは是非とも仮眠を取っておきたかった。枕が付属しているこの柔らかくて上品なシートなら、あっという間に眠れるに違いない。違いないのだけれど……。
「いぇーい! また私の勝ちー!」
「さすがです、雨祗様。酢昆布をどうぞ」
「くっそ……ここまでウチをコケにしたのはテメェが初めてだ……。もう一回、もう一回勝負しろ!」
どんなにシートが上質でも、この騒がしい環境ではどうにも眠れそうにない。
こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。
「こうちゃんを殺そうとしている奴の正体がわかったよ」
それは昨日のこと。お見舞いにやって来た雨祗ちゃんに意気揚々とそう切り出された。深雪先生から「明日には退院できるよ」と聞き、ホッとしていたのも束の間だった。
雨祗ちゃんは、僕が目を覚ました日の夕方には既に退院した。以来ずっと、放課後には必ずお見舞いに来てくれていた。だからいずれそんな話をされるとは思っていたのだけれど、僕の覚悟は間に合ってくれなかった。
「わかったっていうのは、調査してわかったってこと?」
「調査はしてたんだけどね、その前に望ちゃんと満ちゃんが教えてくれた」
「教えてくれた? それって大丈夫なの?」
「まぁ、殺し屋が依頼主の情報を漏らすのは本来御法度なんだけれど、今回はちょっと事情が複雑でさ、話しちゃうのも無理なかったかなぁなんて、私は思うよ」
「事情が複雑?」
「そう。ーーあ、果物剥いてあげるね」
雨祗ちゃんはベッドの横の棚の引き出しから、フルーツナイフと小さいまな板、皿を取り出した。そして自分で持ってきたフルーツバスケットの林檎を取って、皮を剥き始める。毛糸玉から糸を解くような、滑らかな包丁裁きだ。
「覚えてないかな? 満ちゃんがこうちゃんに『カゲロウ』って名前を口走ったこと」
「んー……覚えてるいるようないないような……」
どうにも僕はその辺の記憶が曖昧だった。
「『カゲロウ』って言っても、あのトンボに似た昆虫の
「さすがにそのくらいはわかるよ……」
「『カゲロウ』っていうのは、太陽の『陽』に牢獄の『牢』って書くんだけど、実は夕屋家と肩を並べる殺し屋一族の苗字なんだよね」
「殺し屋一族? そんなものがあるの?」
あるよーと言いながら、雨祗ちゃんは皮剥きを終えた。
「『神殺しの日鷹家』『血染めの夕屋家』そして『人喰いの陽牢家』。この三つの家系が、いわば殺し屋御三家って呼ばれててね、おっかない家系の人たちだよ」
「人喰いって……鬼婆じゃないんだからさ……」
「あ、それって安達ヶ原の鬼婆のこと? 懐かしいねぇ。こうちゃん、話の途中で怖くなって、トイレに引き籠っちゃったよねぇ」
何で本人さえ覚えてないことを覚えているんだよ、この人は。
雨祗ちゃんが林檎を食べやすい大きさに切り始めた。それを見て、僕はベッド横の棚の引き出しから爪楊枝を出した。
「ありがと。――まぁ鬼婆っていう表現はそのものズバリだよ。いや、下手したらそれ以上にたちが悪いかもしれない」
「どういうこと?」
「今回、こうちゃんを殺す依頼を日鷹家と夕屋家に出したのが陽牢石火って名前でね、通り名が『鬼婆』っていうんだよ。その界隈では伝説的な、相当腕の立つ殺し屋みたい。――はい、どうぞ」
雨祗ちゃんは僕に林檎が載った皿を渡してくれた。僕は爪楊枝を取り出し、食べ始める。この甘さと触感が後を引く。
「鬼婆……名前からしてヤバそうだね」
「まぁその凄さはそれとして、この時点で既におかしな点があるんだけど、何かわかる?」
「おかしな点?」
腕を組んで、しばらく考える。
「殺し屋が殺し屋に依頼してるってこと?」
「That’s right!」
次いで雨祗ちゃんはグレープフルーツを剥き始めた。
「わざわざ依頼する必要がないんだよ。殺し屋なんだから、自分たちで殺した方が断然手っ取り早い。特に陽牢家の人間は享楽的に人を殺すような人たちばっかりだから、その楽しみを日鷹家と夕屋家の人間に渡すようなことをするなんて、どうにも腑に落ちないんだよ」
「御三家で協力して殺そうとしているって可能性はないの?」
「まずないね。昔から三つ巴の関係にあったはずだから」
「その辺のことは、二人は何も言わなかったの?」
「直接依頼を受けたのは二人の母親、夕屋
「母親なのに、何もしないなんて……」
「生きるか死ぬかの殺伐とした世界だからね、こうちゃんが悲観する必要はないよ」
雨祗ちゃんはグレープフルーツを僕の皿に盛った。僕は剥きたてのそれを食べる。ちょっと酸味が強いが、これはこれでおいしい。
「でもね、個人的に一番気になることは、こうちゃんの本名を知ってたってことだよ。身内の中でだって、ほんの一部の人しか知らないことなのに」
「それは僕も思った。望ちゃんにそれっぽいこと言われた時は、本当に心臓が止まるかと思ったよ」
雨祗ちゃんはグレープフルーツを一房食べた。ほんの少し、顔に皺が寄った。
「いろいろと疑問は尽きないところなんだけど、ここは手っ取り早く陽牢石火を捕まえて、真相を暴こうってことに相成りました」
「まぁ、妥当な線だね」
「でもって、ついさっき、陽牢石火の潜伏先を突き止めたって連絡があったんだ。明日には出発するから、準備しておいてね」
思わずフルーツを食べる手が止まってしまった。その間に雨祗ちゃんは、今度は梨の皮を剥き始めていた。
「えっ、まさか僕も行くの?」
「私が行くんだから、ついて来てくれるでしょ?」
「えっ、雨祗ちゃんも行くの!? 何で何で?! そういうのって、もっと経験がある人が行くんじゃないの!?」
僕が知る限り、天杜家には、その手の実力者が三人いる。全員、圧倒的な実力を持っていることは、幼い頃の僕であっても、会った瞬間にわかってしまった。皆が皆、姿も、目つきも、オーラも、立ち居振る舞いも、次元も、何もかもが常軌を逸し、規格外だった。いままで正月やお盆などの集まりで、何百人もの親戚や身内の人間と会ってきたけれど、その三人に匹敵する人にはいまだ出会えていない。いや、出会いたいとは断じて思わない。
そんな三人の内誰か一人が行けば、例え相手が陽牢石火でも何ら心配ないはずだ。だのに、どうしてわざわざ雨祗ちゃんが危険を冒す必要があろうか。
「経験なんて関係ないよ。私にその命が下ったのなら、それに従うまでだよ」
「でも――!」
「それに、これは私情を挟むけど、私はこうちゃんを殺そうとする輩をこの手で倒さなくちゃ、とてもじゃないけど気が済まないの」
雨祗ちゃんの目は真剣だった。本心から、僕が危害を被ったことが許せないのだと窺い知れた。同時に、雨祗ちゃんが既にその道を歩み始めていることも。
いや、日鷹雷鳴の一件で、そのことはとっくに察しがついていた。今問題すべきは、そのことじゃない。
「それはそうとして、どうして僕まで――」
言葉を言い終える前に、僕は口を紡いた。「どうして」と言った瞬間、雨祗ちゃんが悲しげな表情をしたからだ。いや悲しげというには可愛らしさがあり過ぎるか。それ以上言ってしまったら、果物に代わって僕にナイフの刃が向いてきそうな恐ろしさが滲んでいた。
溜息をつかずにはいられなかった。
「わかったよ……。雨祗ちゃん一人で行かせるのは心配だから、僕も一緒に行くよ」
途端、雨祗ちゃんは花が咲いたような笑顔を僕に向けた。そこまで喜ぶことか? でも少し照れくさい。
「こうちゃんが来てくれたら本当に心強いよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「あっ、でもあと二人連れていく予定だから、そこまで気負わなくて大丈夫だよ」
やっぱり行くの止めようかな。僕が行っても、足手まといになる未来しか想像できない。
「残念だった? 二人きりの旅行は、もう少し先の楽しみに取っておこうねっ」
それはそれで荷が重いのだけれど、その時になっても僕に拒否権はないに違いない。
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