第15話 虎雨深雪

 微かな甘い匂いと軟らかな感触がした。僕はその正体を確かめるために、やはり閉じていた目をゆっくりと開いた。


 目の前には雨祗ちゃんの顔があった。いつも通り眼鏡をかけているが、髪は解いていた。空色のパジャマ姿だ。


「こうちゃん……!」


 雨祗ちゃんの目からポロポロと涙が零れた。


「よかった……このままずっと起きないんじゃないかって、心配してたんだから……」


 雨祗ちゃんを宥めながら、周囲を見渡す。


 病院の病室だろうか、ベッドなどの諸々が設備されている部屋だった。ベッドは僕と雨祗ちゃんの分しかなく、あまり広さはない。


 壁に掛けられたデジタル時計に目が入った。そこには日付も表示されていた。あの日から三日も経過していたことがわかった。僕はずっと眠っていたのか。


「けどホントは逆のシチュエーションが良かったんだけど、この際贅沢言ってられないよね」


「シチュエーション? 何の話?」


「ううん、何でもない」


 雨祗ちゃん含みのある笑みを浮かべると、自分の唇に人差し指を添えた。


 病室のドアが開いた。ローブのように長い白衣を着こなした、医師らしき中年女性が現れる。恰幅がいいが、堂々としている様はどこかカッコよさがあった。


 女性は僕を見て目を丸くしたが、すぐに優しい表情になった。


「黄道君も目を覚ましたのね、良かった……」


 そう言って、その人は僕たちに歩み寄った。


虎雨とらがめ深雪みゆきです。黄道君と雨祗お嬢様の主治医よ。どうぞよろしくね」


 虎雨……そうか、ここは虎雨さんとこの病院か。おそらく七夕さんあたりが助けに来てくれて、ここまで運んでくれたのだろう。ということは――


「先生、夕屋望ちゃんと満ちゃんも、この病院にいるんですか?」


「……えぇ、いるわ。ただしこことは別の、特別な病室に、ね」


 突然見せた深雪先生の冷たい表情に、思わず身震いする。


「元気、なんですか?」


「昨日の夜会った時は二人とも元気だったけど、今はどうかしらね。その後すぐ鬼洗おにあらいさんのところの人たちが押し寄せてきたから、もしかしたら――」


 それはそうか……。相手は殺し屋。おまけに、僕はともかく雨祗ちゃんに手を掛けようとしたからには、無事で済まされるはずがない。


 すると突然深雪先生が爆笑し始めた。


「ゴメン、今の嘘」


「え?!」


「二人とも、別々の病室で元気にしてるよ。まぁ監禁状態ではあるけどね。鬼洗さんのところの人たちが来た途端、洗いざらい全部話してくれたらしいから、拷問とか仕打ちされることは一切なかったよ。ついでに、望ちゃんの方は左手の縫合手術も無事成功して、リハビリを続けていけば、ちゃんと元通りになるよ」


 安堵すると共に疑問が浮かぶ。


「何でそんな嘘ついたんですか?」


「だって黄道君、騙されやすそうな顔してるんだもん」


 せせら笑いをしながら、深雪先生は病室を出ていった。


「また変な人と知り合っちゃったなぁ……」


「怖い先生よりか全然いいよ」


 雨祗ちゃんの言う怖い先生とは、間違いなくあの人のことだろう。名字も同じだから、比べてしまうのも頷ける。


「ともあれ、こうちゃんが無事で本当によかった。きっと今週中には退院できるんじゃないかな」


「そうだね、お互い無事で――」


 ちょっと待て、今週中には退院できる? そんな馬鹿な。だって僕はかなりの怪我を負って――


 ……あれ? どこをどう怪我したんだっけ? 何だ、壮絶なことがあったはずなのに、記憶が曖昧あいまいだ。雨祗ちゃんとマウンテンバイクで二人乗りしたのは覚えているんだけど、その後、何があったんだっけ……。


 右手を見ると、包帯がグルグル巻きにされていた。左手にはない。ちゃんと指先まで感覚はあるから、指を失ったりしてはいないようだ。


 肩や腕、背中と、隈なく触って状態を確認する。他に包帯を巻かれていたのは、頭と胴体と太腿の三か所だった。ハッキリとはわからないけど、いずれも縫合されたような感触はなかった。


 考えている間に深雪先生が病室に食事が運んできた。病院食と言うと、味気なくて美味しくないイメージがあったが、匂いや見た目でお腹が鳴るくらいの、美味しそうな食事が僕の前に出てきた。


「うぁー美味しそう!」


 雨祗ちゃんは手を合わせ、さっそく食べ始めた。


「黄道君も、たくさん食べて、体力つけてね」


 深雪先生に言われ、僕もご飯を食べ始める。左手で食べ進めようとしたけど、苦戦した。心配だけど右手を使おう。まったく問題なく仕えた。

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