第9話 煌星と七夕

 僕の返事を待たずして、雨祗ちゃんが僕の隣にトレーを置いて、静かに座った。トレーには大盛りのソースカツ丼と大盛り卵とじのカツ丼が乗っている。


「いただきます」


 途端、雨祗ちゃんは荒々しくカツ丼を食べ進めていた。綺麗に結ったお下げや眼鏡のレンズに、ご飯粒やキャベツなどが飛び散ってもお構いなしにだ。暴走機関車を彷彿とさせるその勢いに、僕たちは茫然自失となった。


 食欲旺盛なのは昔からだけど、こんなにも汚い食べ方をする雨祗ちゃんを見るのは始めてだ。


 ものの五分程度で、雨祗ちゃんはカツ丼を平らげた。平らげたと言っても、お世辞にも綺麗に食べたとは言い難い。


「ごちそうさまでした」


 雨祗ちゃんは席を立ち、トレーを返却口の方へと持って行こうとした。


「ご、ゴメン、二人とも! またね!」


「えっ、あぁ、うん……」


 僕の方はだ食べかけだったが、雨祗ちゃんを追って席を立った。


「お待ちください、お嬢様! あ、いやっ、雨祗ちゃん、待って!!」


 雨祗ちゃんは食堂を出て、中庭を歩いていた。歩いていると言っても、その速度はプロの徒競走選手を前にしているようだった。僕が懸命に走って、ようやく追いついた程だ。


「ねぇ、何怒ってるのさ!」


「先にご飯食べてたのは謝るから! お願いだから機嫌直してよ!」


 雨祗ちゃんはピタッと足を止めた。もう少しで追いつきそうな距離まで近づいていた僕も、慌てて止まる。


「ねぇ、雨祗――」


「謝るところ」


「え?」


 雨祗ちゃんは振り返り、僕を見上げた。レンズの奥の瞳は潤んでいたが、ご飯粒がレンズや頬にくっついたままだったからに、膨らんでいた緊張感は途端に緩んだ。


「謝るところそこじゃねぇんだよ、このニブチンがぁ!!」


 雨祗ちゃんは先々月くらい前に、女子アマチュアボクシングのピン級――ジュニア部門では最軽量階級。重量46kg以下――の試合に出場した。そして全員を速攻でノックアウトにし、見事に優勝している。そんな子の右ストレートを鳩尾みぞおちにもろに喰らったなら、僕は唐揚げやご飯どころか、胃袋ごと飛び出してしまってもおかしくなかっただろう。殴られる寸前、腹を守るよりも先に口を押さえたため、何とかそうはならずに済んだ。代わりにその格好のまま膝から倒れて動けなくなったけど。


「こうちゃんの……こうちゃんのバカヤロー!!」


 水色の地の白のドット柄のパンツをチラッと見えたところで、視界がぼやけ始めた。



 目を開けると――今まで目をつぶっていたのか――、縦長二列の蛍光灯があった。周囲は萌草色のカーテンで仕切られている。間もなく自分がベッドの上にいることに気がついた。ここは保健室か。そうだ、雨祗ちゃんのパンツを喰らってーー違う間違えた、パンチを喰らってノックダウンさせられたんだった。鳩尾の辺りに鉄球を乗せられているような鈍痛が残っている。


 僕はいつどんな理由で、雨祗ちゃんの逆鱗に触れてしまったのだろうか。そこまで短気な性格じゃなかったはずなのに……。


 ここで足音が聞こえてきた。ほどなくカーテンが少し開いて、人が現れる。僕は危うく「げっ」と声を漏らしそうになった。


「えー、起きちゃったのー? つまーんなーい」


 現れたのは、よりにもよって煌星だった。僕と同じくここの職員だが、医務員兼用務員兼女子寮の管理人兼と、とにかくいろんなことを兼任している万能な人だ。


 歳は僕の一つ上の二十一。艶やかな亜麻色の長髪を主とする端麗な容姿は、男女問わず生徒たちからの人気を集めているが、僕はかなり苦手だ。


 ちなみに煌星さんは僕の叔母に当たる。それゆえ学園外でも時々エンカウントする。


「つまんないって何だよ。と言うかその前に、その右手の注射器は何?」


「あぁこれ? 鬼洗おにあらいさんとこから譲ってもらった特別なお薬だよ。君に投与してあげようかなって」


 鬼洗さんところからって、いい予感がまったくしなんだけど……。


「ちなみにその効果は?」


「三日三晩発情し続けちゃうらしいよ。これで君は連続レイプ魔青年として後世に語り継がれる存在になれるよ。やったね!」


「何が『やったね!』だよ。どちらかと言えば『やっちゃったね』って感じだろうが」


「そうだねっ! やってやってやりまくりだねっ!」


 煌星の乾いた笑い声が室内に響いた。それを何の気なしに聞いていると、途端、煌星さんはグッと僕に顔を寄せた。表情は愛想満点の笑顔だが、般若のように恐ろしいオーラを発している。


「これ以上私の雨祗お嬢様に近づくようなら、マジで社会的に殺しちゃうよ?」


「僕から雨祗ちゃんを遠ざけるよりも、雨祗ちゃんから僕を遠ざける方が先決なのでは?」


「それができないから、君を脅してるんじゃない」


 煌星は僕に注射器を見せつける。注射器からほんの少し、液体が飛び出す。


「ねぇ、大人しくこれ打たせてよ。お詫びと言っちゃなんだけど、私が最初の被害者になってあげるからさ」


「全然お詫びになってないし、どうせ痛くしてでもそれを打つつもりなんだろ?」


「よくわかってるじゃん」


「過去にも似たようなことあったからな」


「あ~、あったねぇ。もう五年くらい前の話かぁ。確かあの時の中身はノロウィルスだった気がする」


「打たれてたらマジで洒落にならないよ」


「それに比べて今回は物凄く気持ちよくなれるんだから、ラッキーだね」


「どこがラッキー――!」


 刹那、煌星の左手がヌッと伸びてきて、僕の口を押さえつけた。そしてそのままベッドに押し倒されて、さらには馬乗りされた。巨大な岩に押し潰されているような力がほぼ全身に掛かり、まるで身動きが取れない。少し視線を下げると、紫色のレースのブラジャーと深い谷間が見えた。


「まぁまぁ、そう堅いこと言わないで、せいぜい楽しんじゃおうよ。私も多少はサービスしてあげるからさ」


 針がジワジワと僕の首に近づいてくる。採血で使用されているものより大分細く短いものなのに、その何十倍も肥大して見えた。先日の雷親父に感じたものを遥かに凌駕りょうがする恐怖が、その先端に集約されている。


 ヤバい。マジでヤバい。逃げなきゃ! っくそ、何て力だよ。全然抗えない。


「アハハ、暴れて変なのところに刺さっても知らな――」


 ビシャン! と大きな音が聞えた。間隔の短い足音も聞こえたと思ったら、間もなくカーテンが全開され、人が現れた。僕は思わず「おぉ!」と声を漏らしそうになった。


「急いで来てみれば案の定だ」


 七夕さんが現れた。学園の警備員をしていて、柔道七段の強者つわものだ。七夕さんも僕の親戚で、父方の祖父の弟の息子だから、えーっと……まぁ、とにかく親戚だ。


 煌星は頬を膨らませる。


「何しに来たの?」


「お前を止めに来たに決まってるだろ。とにかく、黄道から離れろ」


 煌星は素直に七夕さんの言うことを聞き、僕の上から降りて床に立った。


「この件は学園長に報告させてもらうからな」


「えっ?! それは駄目! 絶対駄目!!」


「だったら職務をまっとうしろ。アリーナ近くの花壇の手入れ、やりっ放しになっていたぞ」


「わ、わかってるよ! やればいいんでしょやれば!!」


 怒り心頭のご様子で、煌星は保健室から出ていった。荒れてはいたけれど、注射器の針にはちゃんとキャップをしていた。


「七夕さん、ありがとうございました」


「まぁ、間に合って良かったよ」


 七夕さんは肩を竦めた。


「トレーニングは続けてるのか?」


「はい、最近は少しずつ負荷を増やしながらやってます」


「そうか……。引き続き、頑張れよ」


「ありがとうございます」


 七夕さんは手を振りながら立ち去っていった。残された僕の口から、自然と溜息が漏れ出る。


 七夕さんが言わんとしていることは、おおよそ察している。おそらくは「あれだけのトレーニングを続けているのに、どうしてそんなに筋力がないのか」だ。


 それなりに過酷なトレーニングだと思う。だがその成果はいまだ目に見えて現れない。力瘤を出してみても、まるで強そうじゃなかった。煌星さんの腕力にも敵わないのだから、まだまだ鍛錬が足りなのだろう。けれども一体、何が悪いのやら……。


「あ、黄道さん!」


 保健室を出ようとしたタイミングで、望ちゃんが現れた。最近随分とエンカウントする。


「もう大丈夫なの?」


「うん、大丈夫。というか、よく僕がここにいるってわかったね」


 途端、望ちゃんは目を丸くした。


「えー! 私が黄道さんを保健室まで連れてきて煌星さんも呼びに行ってあげたんですけどー! その言い方はちょっと酷いと思いまーす!」


 僕は平謝りをした。呼びに行ったのが煌星以外だったら、きっと土下座していただろう。


「ま、今回は特別許してあげましょう。そんなことより、早く行こうよ」


「えっ、行くってどこへ?」


 望ちゃんは目を丸くした。


「私のアトリエですよ! もう忘れちゃったんですか!?」


 すっかり忘れてた。

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