第4話 ゴメン、待った?
物陰に隠れて何とかやり過ごそうとも考えた。しかしその度に空き缶のようなものを蹴り飛ばし、カランカラン! と盛大に音を響かせてしまった。
非常口を探そうともした。だがその表示の先はいずれも瓦礫で塞がれていた。進めるのは昇り階段だけだった。
最終的に僕は屋上に辿り着いた。
だだっ広いフロアが、満月に近い月の光に照らされている。そこでは大小様々な水溜まりがユラユラと輝いているばかりで、隠れられる場所はない。
建物の周囲は鉄骨の足場と緑のシートに覆われている。隣接するビルに飛び移るのはできない。もとよりここよりも四、五階分高い上に、隣接していてもその距離は目測で3m以上あるからに、飛び移るという選択肢すらない状況だ。すなわち逃げられる場所もない。
階段を昇って来る足音が聞こえた。下を覗き込むと、もう男の姿がそこにあった。
少しでも距離を置こうと、僕は屋上に飛び出した。何かないか、何かないかと、目を皿にして周囲を見渡したが、当然何もない。
そんなことをしているうちに、男が屋上に現れた。The 八方塞がり。絶体絶命の大ピンチである。
男は悠然と僕に近づいてきた。両手はバチバチと放電されており、いつでも攻撃ができるぞと言わんばかりだった。
僕は男からなるべく距離を取るために、屋上の端の方まで駆けた。
今の僕に生存の可能性があるとすれば、男の攻撃をかい潜り、一階まで降りていく他ないだろう。ギリギリまで引き付けて、一瞬の隙を突くことができれば、うまく背後に回ることができるかもしれない。
ドアに向かっている途中で電撃を撃たれることも考えて、蛇行しながら走るのがいいだろう。そして肝心の隙を作るには、近づいてきたところに水溜まりの水をぶっかけてやればいい。
よし、土壇場だが作戦を立てることができた。心臓は破裂しそうなほどの鼓動を刻んでいるが、頭は徐々に冷静さも取り戻しつつある。小さなチャンスを見逃しさえしなければ、何とかな――
途端、僕の身体はその場に崩れ落ちた。水溜まりに身体の左側が少しだけ浸かった。
身体が、とりわけ脚が動かない。長時間正座して痺れた時のあの感覚を、何十倍にも増幅して味わっているような感覚に襲われている。痺れに限りなく近い痛みだ。指先にくらったあれよりはマシだったが、それでも十二分に痛い。
間違いなくあの男の仕業だ。いつの間に電撃を撃たれた? 激しい閃光や大きな音はしなかった。両手のバチバチに気を取られて気づかなかったのか? それにしたって5m以上離れているのに、どうやってここまで……。
――あぁ、僕は馬鹿だ。水は電気を通すじゃないか。バチバチに注意を引き付けて、水溜まりに弱い電撃を放って、それに感電したんだ。
こんな状態では、走るのはおろか立ち上がることさえできない。
革靴が水溜まりに波紋を作った。それが消える前に新たな波紋ができて、消えた波紋に代わるようにしてさらに新たな波紋が作られた。波紋は僕のほうに徐々に近づいてくる。
The end、Game overだ。僕に残機はない。continueの選択肢もない。人生は一度きりだ。
良い人生ではなかったかもしれない。でも悪い人生ではなかったと思う。誰かさんのお陰で。彼女に何のお礼も残せないことが、唯一の心残り――
その時、頭上からブーン! という音が聞こえてきた。男もそれを聞いて、夜空を見ていた。
僕も何とか上を見ると、間もなく、一機のセスナが横切った。その距離が近かったからか、男はセスナが横切る寸前にその場にしゃがみ込んだ。
こんな市街地にセスナ? しかもこのタイミングで? まさか――!
しゃがみ込んだ途端、男はその体勢のまま後ろに飛んで僕から遠退いた。それとほぼ同時、カン! という金属音が複数聞こえた。
見ると、先程まで男がいた場所に、鋏が何本も刺さっていた。それもただの挟みではない、糸切り鋏だった。月明かりによって黒い光沢を放っている。
何でこんなものが落ちてくるのか? その疑問は間もなく解消された。
一度旋回してきたセスナが、再び僕の遥か頭上を横切った。
「こうちゃーん!!」
そのタイミングで、セスナの駆動音を掻き消さんボリュームで、僕は名前を呼ばれた。僕のことをそのように呼ぶ人物は一人しかいない。いや、一人いれば十分過ぎる。
見上げるよりも早く、僕の目と鼻の先に人が降り立った。ふわふわのスカートが舞い上がる。今日は無地の黒だった。もなくスカートは舞い降りる。
「ゴメン、待った?」
約束の時間に遅れた時のような口調で、雨祗ちゃんは言った。そして僕も普段のノリで、体に染み付いてしまった言葉を、雨祗ちゃんに返す。
「いいえ、全然待ってません」
雨祗ちゃんは澄み渡る五月の空のような笑顔を僕に見せた。そして僕のことを軽々と起き上がらせ、水溜まりから外に出した。
「雨祗ちゃん、あいつは――」
「
「え?」
「通り名は“雷親父“。攻撃手段は、背中に装着した超大型バッテリーに繋がれた特殊な手袋からの放電。接近してスタンガンのように使うことが多いけれど、電撃を稲妻のように飛ばすことも可能。日鷹家の人間の中では上の下くらい実力者だったかな」
「知り合い、なの?」
「ううん、話に聞いただけ」
雨祗ちゃんは僕に背を向けた。
「まぁ、相手が誰であれ、私が軽く捻り潰してあげるよ」
女の子の言う台詞ではないが、それ以外にも色々とツッコミたいことがあるからに、そのへんは気にしないでおこう。
「電撃は何発撃たれた?」
「え? えーっと……大きいのを二発と小さいのが一発撃たれて、それ以外にも何度か威嚇射撃みたいな感じで撃たれたけど、すみません、正直よく覚えていません……」
「だから敬語は止めてって。まぁ、それくらいわかれば大丈夫」
そう言って雨祗ちゃんは、大きめのショルダーバッグから一枚の布を取り出し、僕に投げた。
「念のため、それ被っておいて」
「何これ?」
「塩化ビニル繊維で織った絶縁ローブ。私のお手製だよ」
そんなものどうやって作ったんだ、という問いは雨祗ちゃんには愚問だ。あらゆる才能に愛された彼女だ、こんなものはきっと朝飯前だ。
「不用意にそこから動かないでね」
そう僕に言い残した雨祗ちゃんは雷親父との距離をゆっくりと詰めた。その際、キチンと水溜まりを避けていた。
僕はその小さな背中を見つめ、彼女の勝利を祈った。
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