第2話 こうちゃんと雨祗ちゃん

 時間は五時間ほど遡る。


「こうちゃ~ん!」


 背後から名前を呼ばれた。僕のことをそのように呼ぶ人物は一人しかいない。振り返るまでもなく、誰に呼ばれたかは明白だ。もとより、振り返とうろしたその前に、背後から勢いよく抱きつかれた。その反動で持っていた掃除用具を落としてしまった。


「はぁ~、生き返るぅ~。HPがみるみる回復していくよ~」


 彼の人は僕の肩に顎を乗せると共に寄り掛かった。重くはないが、赤いフレームの眼鏡がぐりぐりと頬骨に少し当たって痛い。


「お嬢様……公衆の面前でそのようなことをしてはいけません」


「こうちゃんこそ、その呼び方止めてって、いつも言ってるよね? 敬語も使っちゃイヤ」


 溜め息が漏れる。近くにあの人やあの人はいないみないだし、お嬢様の言う通りにしよう。


雨祗うぎちゃん、早く僕から離れてくれない?」


「いいじゃんいいじゃん。ちょっと臭うかもしれないけど、周りの目なんて気にする必要なんてないよ」


 その場に居合わせた生徒たちは、みんな雨祗ちゃんに注目している。彼女は学園内外、はたまた世間の裏表問わず有名人だから、当然だ。


 だが僕は違う。雨祗ちゃんの腰巾着として認知されている点では、ある意味有名なのかもしれないが、名前などを知っている人間はほぼいないだろう。まぁ、僕に関心を持ったところで、何の意味もないに違いない。


 ともかく、道端の石ころのような存在の僕に、あの天杜あまもり雨祗が抱きついているとなれば、非難やら嫉妬やらを含んだ視線が四方八方から突き刺さってくる。雨祗ちゃんが僕に抱きついてくることは日常茶飯事ではあるのだけれど、決して慣れることはない。


 いい加減耐えかねて、僕は少し無理に雨祗ちゃんを引き剥がした。


「お昼は何してたの?」


 掃除用具を拾いつつ、僕は雨祗ちゃんを観察する。


 紺碧こんぺき色のつなぎと白いTシャツを着ている。汚れは見当たらないが、少し重油やガソリンといった油のような臭いがする。昼休みに会った時は、彼女の髪型は普段通りの三つ編みお下げだったけれど、今はそれを団子にしていた。


「学園長からセスナ機をプレゼントされてさ、グラウンドでバラしてたんだ」


「セスナ? またあの人は……。っていうか、貰ったものをどうしてバラしちゃうんだよ」


「だってさぁ、こんなだよ?」


 雨祗ちゃんはポケットからスマホを取り出すと、いくつかの操作をした後、僕に画面を見せた。


「うぁ……」


 思わず声が漏れてしまった。


 機体のボディには、雨祗ちゃんの笑顔の写真が大々的に張られていた。これでは痛車ならぬ痛機だ。いや、痛車よりももっと痛々しい。これならバラされても仕方があるまい。


「明日の午前中にはボディからエンジンから一新された機体が出来上がる予定だよ。そしたら午後から二人で遊覧飛行しようね」


「いや……そんなことしたらあとで色々と言われるから、そんなことできないよ」


「だからぁ、周りのことなんて気にしなくていいって言ってるじゃん、ブーブー」


 雨祗ちゃんは頬を膨らませた。見た目の幼さも相まって、小学生がねているようにしか見えない。もとより彼女の身体の成長はその頃から既に止まっていて、今時の同世代の子たちと比べたら、まさに子どもと大人だろう。


「あ、そうだそうだ! こうちゃんにこれ見せたかったんだ! ――はいこれ」


 そう言って雨祗ちゃんは、僕にスマホを手渡した。


 画面にはネットニュースのサイトが表示されている。それは四日前の記事で、雨祗ちゃんが都内のギャラリーで開いた個展を紹介するものだった。


「これがどうしたの? 個展は昨日で終わったじゃん」


「記事の内容は正直どうでも良いの。下にスクロールしてって」


 言われた通りにすると、複数枚の画像が貼られていた。個展の様子を写したものなのだが、その中の一枚に、僕が写っている写真を見つけた。


「もしかして、見せたかったのってこの写真?」


「そうそう。こういう記事にこうちゃんが写ってるのって、多分初めてだから」


「写ってるって言っても見切れてるし、むしろ他の人たちからしたら僕かなり邪魔だよね。他に写真なかったのかな」


「そんなこと気にしなくていいの。とにかく私は、こうちゃんが写ってて嬉しかったんだから」


 雨祗ちゃんはニカッ! と笑った。かなり上機嫌な時の笑みだ。僕にしてみれば左程なことなのだけれど、彼女にしてみれば余程のことなのだろう。


「じゃ、ウチこれから裁縫教室があるから。またあとでね~」


 雨祗ちゃんはバスターミタルの方へ駆けて行った。その恰好で行くのか? まぁ迎えの車の中で着替えるのかもしれない。


 間もなくオーディエンスたちも散り、僕は一人残された。本当に僕には興味がないらしい。清々しいな、いっそのこと。


黄道きみちさーん」


 名前を呼ばれたので振り返ると、一人の女の子が僕に近づいて来ていた。夕屋ゆうやのぞみちゃんだった。黒髪おかっぱボブとノースリーブの白シャツがよく似合っている。表情、そして胸が豊かだ。


「相変わらず天杜さんとラブラブですね」


「からかわないでよ……あとで色々言われるんだから」


「まぁ、黄道さん自身はそうでしょうけど、二人のやり取り見てると、周りは結構安心するんですよ」


「嫉妬の間違いじゃない?」


 望ちゃんは僕から視線を外し、含みのある笑みを浮かべた。そして間もなく僕を一瞥いちべつをして、舌をちょっと出した。あぁ、憎らしいけど可愛いなぁ、もぅ。


「明日の準備は進んでる?」


「明日? 何かありましたっけ?」


「ありましたっけって……明日は学園長との面談の日でしょ? 年に二回やってるじゃないか」


 望ちゃんは「あぁ!」と言って、ポン! と手を叩いた。


「ありましたね、そんなの。すっかり忘れていましたよ」


「試験みたいなものなんだから、ちゃんと準備して望まなきゃだめだよ」


「望ちゃんだけに? キャハハハ! おもしろーい!」


 望ちゃんは手を叩いて笑った。


「僕は真面目に言ってるんだけど……」


「ゴメンゴメン。うん、見せられるものはいくつかあるから、諸々準備しておきます」


「頑張ってね」


「はーい! それじゃまた明日~」


 望ちゃんは手を振りながら、研究塔の方へと歩いて行った。さて、僕も仕事に戻るか。

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