甘い紅茶をどうぞ

うさぎもどき

第1話

「……………………………………………」


深い森の中。生い茂った葉によって日光がほとんど隠されてしまっている場所に、ぽつりと一軒のログハウスが建っていた。


「……………………………………………」


ログハウスの周囲に、他の建造物はない。というか、人間の気配がまるで感じられない。そのログハウスは、完全に自然と同化していた。


「……………………………………………」


そんなログハウスに住んでいるのは、一人の少女。名をアリスという。性は忘れた。


ともかく、アリス何某はログハウスに一人住んでいた。


「……………………………………………」


腰まで伸びた長い金髪、キラキラと宝石のように美しく輝く瞳は紅。年齢は、どうやら小学校高学年、高く見積もっても中学生だ。


「……………………………………………」


彼女が一人で住んでいる理由は、彼女も知らない。ただ、物心ついた時には孤独だった。それより前、生まれて間もない頃のぼんやりとした記憶の海には両親らしき男女の影が見えるが、アリスはそれに手を伸ばそうとはしない。


何故なら、その行為に合理性を見出せないから。

『天涯孤独』は、少女の心を尋常でない速度で錆びさせた。


「はぁぁあああ…………」


アリスのため息が、無人の部屋を覆う。彼女の前には、広げられた一冊のノート。しかし何も、彼女は学校の宿題に四苦八苦しているわけではない(そもそも学校に通ってなどいないが)。


『どうしましたー、ご主人ー?』


不意に、声。座った椅子の背もたれを軸に背中を反らせて、上下逆さまに背後を見る。


そこにいたのは一匹の黒猫だった。首輪がわりの赤いスカーフを首に巻いた黒猫が、確かに人間の言葉で語りかけてきた。


しかしアリスに動揺はない。


「……別に用があったわけではない。疾く寝床に戻るがよい、ベルよ」


『たっぷり寝たから眠くありません』


「寝子が何を言うか。眠ることが仕事みたいなものじゃろうに」


ベルは人語を解す。理由はアリスも知らない。知らないが、特段詮索するつもりもなかった。


『ご主人は何をされているんで?』


「んぁ、これじゃこれ」


アリスは気だるそうに、手にした見るからに高級そうな万年筆の尻でペシペシとノートを叩いた。


『?』


角度の問題で机の上を見ることができないベルは、ヒョイと身軽に飛び上がり、机上にその四肢をつけた。


ノートを覗くと、そこにあったのはノート数行分の文字列だった。


すなわち、


『……小説、ですか?』


「そうじゃ。暇つぶしにやってみたが……これがなかなか進まん。ここまで書くのにどれだけの時間を要したと思う?」


『五分』


「二時間半じゃ馬鹿者」


『そんなに!? そんなペースじゃ、完成までにすごく時間がかかっちゃうんじゃあ……?』


「まああれじゃ、小説は最初の一文字を書くまでが大変、と言う話じゃよ」


猫のベルは、その言葉が示すところをイマイチ理解できなかった。


「それより儂はちと疲れた。茶にするぞ」


アリスは椅子から降りると、キッチンに入った。ポットに水を汲み、火にかける。


『お茶ならボクが淹れますよ』


「極東には『猫の手も借りたい』という諺があるらしいがな。茶を淹れるために猫の手を借りるような愚はおるまいよ」


ティーポットに茶葉を入れ、沸騰した湯を注ぐ。湯の中で踊る茶葉を急かすようにティーポットを揺すって紅茶を作っていく。


出来上がった紅茶をティーカップに注ぎ、角砂糖を五つ入れて混ぜる。


『五つもですか。甘くないですか?』


「甘いさ。じゃが儂は甘い紅茶の方が好きじゃ。これでも年齢自体はまだ十二なものでな」


言って、紅茶をすする。甘い。だが心地よい。


『そういえば、どうして急に小説なんか書き出したんですか?』


机の上で猫用に調整されたクッキーを食べるベルが、不意にそんなことを聞いた。


「…………」


紅茶を一口飲んで口内を潤してから、アリスは口を開いた。


「儂の性質は知っておろう」


その問いに、ベルは黙って首を縦に振った。


アリスの性質。それはその頭脳のことだった。


アリスの思考速度は非常に速い。その速さたるや、一般人のおよそ十倍。おまけにその精度は百パーセント、計算違いはありえない。おかげで彼女の計算は、一種の予知能力の域まで達していた。


故に、彼女は世界がツマラナイ。だって大方予想がついてしまうから。小学生レベルのクイズの答え合わせにワクワクできないように、アリスにはどんな事象のどんな結果も「まあ、そうじゃろうな」の一言で完結してしまうのだ。


生まれつき「そう」だったという事実も、彼女の心の錆びつきを加速させる一端だったのかもしれない。


アリスは続ける。


「で、儂が目をつけた暇つぶしの手段が、『小説執筆』というわけじゃ」


『へー……でも、だったら街に出て新しい本を買ってきたらどうです?』


「新しい本だからなんだというのじゃ? どんな本であれ、半分と読まぬうちに儂は結末がわかってしまうというのに」


『中にはそうでない本もあるかも』


「ほう、儂の計算の外に出る本か。じゃがそれは果たして面白い本か? 例えばミステリーで追い詰められた犯人が実は宇宙からの侵略者だった、とか、ラブコメディで結ばれた二人が口づけを交わす寸前で爆散したりとか。そんな結末なら流石の儂も想像できなんだろうが、そんな突飛な展開があってたまるか。読後感最悪じゃろうて」


『……確かに』


もしかしたら世にはそんな展開で、しかも内容が綺麗にまとまっている本もあるかもしれない。が、少なくともベルの少ない知識量では具体例が出なかった。


『で、だからこそご自分で書かれる、と。なるほど、ご主人のことを一番ご存知なのはご主人なのですから、出来上がる作品は確実にご希望に沿うものってことですね』


「ああ、儂もそう思っていたんじゃがな……」


不穏に濁された語尾に、ベルの耳がピクリと反応した。


『というと?』


「当然の話ではあるんじゃがな、儂が作るということは、儂は最初から結末を知っていることになる。そんな本、面白いわけあるか。計算云々以前にすでに知っている事実を登場人物がドヤ顔で語っているシーンなど、正直見れたものではない」


『でも世には一度読んだ本や一度観た映画を繰り返し見る人もいるそうですよ』


「承知しておる。そういう人種がいることはよく理解したうえで、儂には不可能だからこそこうして悩んでおるのじゃ」


難儀な人だ、とベルは小さく息を吐いた。


『だったら結末がわからないように、極力先読みしないように読書をしてみてはいかがですか?』


「それができればよかったんじゃがな……残念ながら儂は自分でも気づかんうちに計算してしまうのさ。抑えようにもそちらに気を取られては本の内容が頭に入ってこない。いたちごっこじゃな」


「大変ですねー……」


ベルには一般猫並の頭脳しかないので、天才サマの苦悩はよくわからない。ただ彼は彼なりにその悩みを理解しようと努力しているつもりだ。


ティーカップを空にしたアリスは、執筆作業を再開するために椅子に戻った。


「休憩終了じゃ。やはり休息は大事じゃな、いい感じにアイデアが湧いてきおった」


『書くんですか?』


「やれるところまではやってみんとな。活路の入り口はどこに転がっているかわからん」


それは彼女なりのプライドなのかもしれない、とベルは思った。先ほどと同じように、ヒョイと跳んで机上に着地。


『どのくらいで終わりそうですか?』


「計算上は執筆時間二十八時間三十四分。アクシデントがあれば多少伸びるかもしれんがな」


『結構かかるんですねー……。書き終わったら是非僕にも読ませてくださいよ』


「うむ、よいぞ。読者は多いに越したことはない」


カリカリカリカリと万年筆がノートを引っ掻く音だけが空間を支配する。静寂。両者ともに物語の世界に没入していた。


少しして、別の音が室内に響いた。


『ふわぁあ〜……』


「なんじゃベル、眠いか」


『ふぁい、自分寝子なもので……』


「ならば寝床に戻るがよい。なに、貴様がいようといまいと執筆速度は変わらんさ」


『そですか……それじゃあ、また寝てきますね』


「夕餉の時間には起こしてやる。それじゃあな」


床におり、トテトテと床をかける四肢。やがて定位置に来ると、グルリと体を丸め、瞼を閉じる。


『おやすみなさーい……』


「うむ、おやすみ」


ベルの意識がゆっくりと沈んでいく。


(……ご主人の作る物語、かあ……どんなのなんだろうなあ……)


そんなことを考えながら、ベルは意識を手放した。





「……………………………………………」


再度の静寂。カリカリカリカリという音だけが部屋を埋める。


「……………………………………………」


ピタリ、と。執筆の手を止め、部屋の隅を見る。簡素な作りの、ベルの寝床。そこで穏やかに眠る愛猫を見て、アリスはふっと微笑んだ。


「……この世界は、確かにちと予想どおりが過ぎる。それはお前とて例外ではない、ベル」


返事はない。あるのは一定のリズムの寝息だけだ。


だが構わずアリスは続ける。


「しかし、不思議なことにな。……お前と過ごす日々は、どんなに予想どおりで予定調和だろうと、楽しく感じるんだ」


返事はない。あるのは眠る猫と微笑む少女だけだ。


だが構わずアリスは続ける。


「……どうしてだろうな?」


返事はーーベルのしっぽがパタリと床を一度叩いた。それが返事のような感じがして、それがなんだか可笑しくて、アリスは微笑を笑顔に変えた。


その笑顔は、確かに年相応の少女のものだった。

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甘い紅茶をどうぞ うさぎもどき @Usagi_Modoki

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