二百ミリリットルの距離

@DEGwer

第1話

ブラインドの隙間から、街灯の光が差し込んでいた。昼間は渋滞する外の道路も今は車通りが少なく、時折轟音を残して通り抜けるトラックのヘッドライトが、薄明りの点いた室内のトレーニング機器を不釣り合いに照らしていた。

ルーム・ランから降りた男が、部屋を出る。隣のシャワー室へと向かい、擦りガラスの扉を閉める。

水道管の立てるウーッというくぐもった音と、水しぶきがぱらぱらと地面に当たる音が鳴り始め、止み、また鳴り始め、再び止んだ。数十秒後、青のトランクス姿の男が、黒と青のジャージと、濡れた白のシャツを小脇に抱え、更衣室から現れた。

男は先程通った道を戻り、トレーニング・ルームに入る。先程まで自分がいた空間であるというのに、改めて見ると薄汚れが目立ち、汗臭さに耐え切れなくなってくる。入り口付近の冷蔵庫を小さく開け、白い液体で満たされたガラスの容器を手のひらにおさめ、すぐに冷蔵庫を閉める。足早に立ち去る。この時間帯にはほかに誰もいないので、男がトランクス姿であるということを、咎める人はいない。


男は、トレーニング後の瓶牛乳を日課にしていた。瓶であることが重要なのだ。手のひらにぴったりと収まる心地よさ。明らかに採算の取れなさそうな容器の、得も言われぬ重厚感。口をつけたときの、透明な感触。その全てが、男を安心させた。近年すっかり絶滅危惧種となってしまった瓶牛乳を、ジムの近所のコンビニで見つけたときは、値段も見ずにまとめ買いしてしまったことを思い出す。

男はガラスの容器を回し、上部のビニールテープを器用にはがす。円形の紙の板を外し、裏返して丁寧に脇の机に置く。そうそう、この紙の板を、子供の頃は集めていたんだっけ。

腰に手を当てて、二回瞬きをする。高級感、というものを漂わせるものを飲むには、それ相応の覚悟、そして思い切りが必要だ、と男は思っていた。もう一度目を瞑り、首と腕を同時に、勢いよく後ろに動かす。喉を数回動かし、そして数秒待って元の体勢に戻る。目を開けて、薄く白い膜のはった瓶底に、黒い鏡文字が見えるのを確認する。


先程の話の続きをしよう。瓶牛乳を発見して有頂天になった男は、ジムの冷蔵庫を牛乳で埋め尽くした。翌日、スポーツドリンクを飲もうと冷蔵庫を開けた同僚が、冷蔵庫の棚という棚を埋め尽くす牛乳を見て絶句したのは、言うまでもない。

その大量の牛乳が減り、賞味期限がそろそろ切れるかという頃になって、再び牛乳が現れた。同じことが、三度繰り返された。

見かねた昼間受付の若い女性は、常連の彼のために、毎日瓶牛乳を冷蔵庫に入れておくことにした。男が自分のものだとわかるように、瓶底に黒マジックで男の名前を書いて。男が来るのは深夜なので、男は彼女に会ったことがない。

男は感謝した。何か紙を探したが、一つしか見つからなかった。牛乳瓶の蓋の丸い板に、青のボールペンで感謝の言葉をしたため、受付においておいた。

それ以来、牛乳瓶を介した奇妙な文通が始まった。瓶底と、蓋の板。限られた面積には、書けることはごくわずかだった。今なお、互いのことはあまり知らない。それでも、毎日の小さなやり取りを、男は楽しみにしていた。


このやり取りは、いつまで続くのだろうか。男は夢想しながら、服を着る。いつの日か、本当の知り合いになって、どこかのカフェでお茶を啜る、そんな日が来るのかもしれない。はたまた自分が転勤になったり、彼女が別の仕事を見つけたりして、突然終わりになってしまうのかもしれない。でも、このままがいいな、そう男は思った。もしかするとこれで最後かもしれない、という心地よい緊張感を胸に、男は机に戻り、鞄からボールペンを取り出した。












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