他人のとんかつ

小早敷 彰良

相席の生姜焼き

 とんかつが好きだ。特に衣が固すぎず薄すぎない、少し柔らかいとんかつに醤油をかけて食べるのが堪らない。取り皿の醤油につけるのではなく、直接衣に醤油を染み込ませて食べるのが特に気に入っている。

 友人から、それは衣の食感を殺す邪道だと批判されたことがある。邪道だなんて失礼な、食感の重要性は理解している。醤油をかけた直後なら食感も醤油感も損なうことなく食べることができるから問題はない。

 醤油感とは何だ。友人からはそう問われた、醤油を感じられるかが醤油感があるかどうかの基準だ。醤油感が強ければ強いほど美味しいと思う。今気づいたが、私は醤油が一番好きだ。

 そういう訳で、この瞬間みたいに、とんかつに醤油をかけたら一刻も早く口に運ばなければならない。とんかつで味付けされた醤油を早く味わわないといけない。

「混み合ってきましたので、相席お願いてもよろしいですか? 」

 だからその食堂の店員が話しかけてきたとき、人生で一二を争うタイミングの悪さだった。仕事だから仕方ないのは承知だけれど、今まさに口に運ばんとしている、そんな瞬間に話しかけなくとも!

「ええ、どうぞ。」

 仕方なく、邪魔にならないよう荷物を肩にかけて姿勢を正す。

 あまり席数がないけれど美味しい定食屋はいつの間にか満席になっていた。

 この時間帯はいつもこのような状態だ。私のような疲れた社会人が昼の一服をしにこの食堂にやってきて混み合っている。おかげで早めに昼食を取るときか外回りの時しか来られない。

「ありがとうございます。お客様、こちらへどうぞ。」

「いや、すまない。本当にこの食堂はいつも繁盛していますね。」

 そう言いながらやってきたのは初老の男性だった。オールバックにされた総白髪は艶があり、服装も隅々までアイロンのかけられたスーツ姿で小慣れた着こなしをしている。チェーンやベスト、スーツの柄などが普通の勤め人としては少々派手で人目を引く。経営者か何かだろうか。

「どうも。ここの定食は美味しいですからね。」

「全くだ。…生姜焼きを一つ頼むよ。」

 ここの生姜焼きは平たい一枚の肉を生姜で焼いたものではなく、細切れ肉を丁寧に生姜で和えて漬けて焼いたもので、白ご飯によく味が絡まる逸品だ。それだけ手間暇かけているせいか、昼食メニューには記載されておらず、壁の隅にかかったメニュー札にしか書かれておらず、裏メニューに近い。

 この男性も常連なのだろうか。ということは近所に事務所でもあるのだろう。

「ここの生姜焼きはご飯とよく合って良いね。」

「同感です。」

「君はとんかつですか。そちらも美味しそうだね。」

「これもご飯とよく合いますからね。」

 ご飯と合わないものはこの食堂に無いわけだが。

「その通りですね。あぁ、とんかつにしとけば良かったかな、油ものの気分ではなかったはずなのに。」

「そういうことありますよね。選択に満足し切っていたはずなのに、他の人が羨ましくなること。」

 私も生姜焼きにすれば良かったと後悔しそうだ。彼の生姜焼きが美味しそうなだけでなく、一口目の出鼻を挫かれたのも関係している。

 萎えそうな食欲を叱咤激励し、とんかつを齧る。期待していたほどの味はもはや得られなかった。

「ご職業は何を? 」

 唐突に紳士が問いかける。

「いや失礼、お若いのにしっかりなさっているからつい気になってしまって。」

「構いませんよ。営業のようなものをやっております。しっかりだなんて、まだまだ先輩には怒られてばかりですよ。」

「怒られるうちが華ではありませんか、期待されているのですね。」

 期待している、就職してから何回聞いた言葉だろう。この言葉さえ言えば、こき使っても全て経験の為、新人のためなのだから仕方ない、と先輩方は勘違いしている。こちらとしては堪ったものではない。

「営業ですか、どんな製品を扱ってらっしゃるのですか。」

「製品というより代行業のようなものでしょうか、説明が難しいのですが。戦略コンサルティングに近い業種です。」

「なんと、奇遇ですね。私もコンサルティング業を営んでいるのですよ。」

「へぇ。」

 それは何とも胡散臭い。内心で呟きながら問いかける。

「顧客はどういった方が多いですか? こちらは個人でいらっしゃる案件が多いですが。」

 そう、私の会社の顧客は口コミで来たという個人客が多い。業種の性質上仕方ないこととはいえ、マトモじゃない人と話すのはしんどいものだ。おかげで外回りに行くたびにこうしてサボってしまう。今日だって、仕事自体は午前の十分で終わっているのに、この時間まで街を彷徨いてしまった。

「ふむ、恐らく貴方と同じような方ですよ。飛び込み営業や口コミで何とかやっていっております。」

「そうですか。」

 それは大変ですね、と言って良いものだろうか。同じような毎日の私は水を口に含む。

「こちら、生姜焼きです。お水はセルフサービスとなります。」

「おお、ありがとう。」

「汲んできますよ。」

 丁度自分の分の水もなくなるところだった。汲んで戻ってくると紳士は生姜焼きにも手をつけず、真面目な顔をしている。

「そうか、そうか。」

 仕事の電話でもかかってきたのだろうか。お礼の一つくらい言ってくれても良いのに。

「ああ、君、すまないね。一ついいかな? 」

「ええ、何なりと。」

 どうせ二度と会わない他人だ。

「どうして君はそんな仕事をしているのかね。」

「はい? 」

 さっぱり意味がわからなかった。

 わからないついでに、このまま席を立っても不自然ではないかどうかを考える。

 心当たりがない訳ではない。私の仕事は世間から見れば仕事だろう。ただ、それをこの老紳士が知っているのは不自然だ。

「こうして話していても貴方の性格は悪いように感じられない。他人の私の話も合わせてくれるし、親切だ。」

「そりゃどうも。」

「だというのに、髪はぼさぼさで隈を作って、あんな仕事で。そんなにその会社は面白いのかね? 」

「面白いかって言われましても。」

 会社は思ったより面白くも楽でもない、普通のことだ。だから、何故そんな糾弾するような目を向けられているのかがわからない。

「偶然もあるけれど、私は貴方が仕事でしていることがわかってしまったのだよ。」

「はぁ。」

 別に特段隠してはいないので、こんな反応になった。

「誰がやっているのかは今まで知らなかったけれど、会って話して解った。」

 逸らしていた視線をこちらに引き戻すかのように、老紳士は言葉を続ける。どうして、と問うてほしいのだろうか。

「どうしてか、気になるかね? 」

 ほらきた。

「興味はありますが、生姜焼き、冷めてしまいますよ。」

「この話が終わったら頂くとしましょう。」

 いつの間にか外れた敬語が気になる。私の方はそこまで正体に拘っていないというのに、何をそこまで威圧するのだろう。まるで同業他社を相手にするようだ。

「私が合席した時、最初に気になったのは君の視線だった。不可思議なことは職業柄気になってしまってね。

 ただの合席相手を、今まさに口をつけようとしていたとんかつを放っておいて、そこまでじっと観察するかね、と。

 こちらも観てみると、椅子には浅く直ぐにでも走れるような姿勢で座っているし、大きな鞄を床に置かず肩から提げたまま。これはあからさまに怪しい。

 職業を聞くと営業と答える。上手くすり替えたようだが、これは職業が初対面に話すには難しいことを示している。

 ならば危険な、例えば自由業なのだろうか。それにしては身なりは綺麗だ、周りに溶け込めるほど草臥れた、普通のサラリーマンみたいに。

 製品はない? 戦略コンサル? こんな気取った会社員は沢山いるだろうけれど、水を汲みに行ったときの独特の歩き方。自然に集団に溶け込んで歩こうとして、人に先を歩かせたがる。もうこれは職業病だね。

 君は探偵事務所に勤めているのだろう?

 その、肩にかけて離さない大きな鞄には変装道具が詰まっているんじゃないかな。」

「その通りです。ごちそうさまでした。」

 私は大学を卒業して、探偵事務所に勤めている。珍しい就職先かもしれないが友人たちには周知の事実だし、特に後ろ暗いことはない。

 だから老紳士が私の職業を当てたその瞬間に、私はとんかつの最後の一切れを食べ終えることが出来た。緊張感で食事に手をつけられないということはない。

 後はこのをどう上手くまくかが問題だ。

「実をいうとこんな狭い業界だ、噂を知っていたのだよ。期待の新人現るってね。」

 本当だとしたら暇なのだろうか、私はこんなに忙しいのに。午後は事務所に戻って報告書作成と受注登録を行わなくてはならない。

「普通に仕事をしているだけです、そんなに睨まないでくださいよぅ。」

 そう、どうしてこの初老の男性から逃げたいのか。それはこの燃える様な目から逃れたいからだ。

 その目は紳士的な態度をかなぐり捨てた敵意に満ちていた。

「誤魔化すのは止めろ。」

「そんなことを仰っても。私がしているのは素行調査や浮気調査だとか、あと珍しいのは失踪人探しでしょうか。けれどどれも一般的な探偵事務所の業務です。」

「仕事だからって、それをしたらどうなるか考えたことはないのかね? 」

 は、

 一瞬息が詰まる。

「君、彼等がどんな思いで経歴を隠したり、失踪したか、分かっているのかね。」

 そんなこと。

「仕事だから仕方ない? 泣き叫ぶ男をストーカーに引き合わせることが、全て相手の為にと動いた女性の嘘を暴くことがかね。

 しかもその謎解きを、こんな隈を作ってつまらなさそうに行うなんて、言語道断だ。

 仕事には責任がついて回るのだよ。恥を知り給え。」

「それは半年前悩んだことですね。」

 二杯目の水を飲みながら、私は続ける。もう、マシンガントークを聞くのは飽きた。

「もしかしたらこの謎を解いてしまったらその人たちはより不幸になるかもしれない。」

「その通り、実際不幸になってるよ。」

「就職前に考えているような楽しいことは起きない、辛いことが多すぎる。」

「そうだね。」

「その人の人生全てを賭けたような行為を一部だけ解き明かしただけで、全てを解決出来るわけがない。」

「そう、マイナスのことばっかりなのだから辞めれば良いのではないかね。きっと君なら何処でも大丈夫だよ。」

「だから私は営業として、その案件の背景まで引き受けて、現場の探偵に引き渡すことにしたのです。

 男とストーカーは元はと言えば男の自業自得、女性たちは犯罪者の傷の舐め合い。

 全て暴くのに値すると判断してから案件として探偵に引き渡す。それが私の仕事です。馬鹿にしないで頂きたい。」

 だから睡眠時間も身嗜みの時間も無くなるわけだが。

 紳士は、初老の男は歯を食いしばって、低い声で言った。

「我が社が、私が丹念に失踪させたものを見つけてくれやがって、しかもそれを、受注するに値する案件だったから、だと。 ふざけるな! 」

「それは、それは。」

 なんて愉快なのだろうか。

 やっぱり来た。自分が利害関係にあることを隠して、一般論として批判してくる輩が。

 犯罪コンサルティング。これも戦略コンサルに入るのだろうか、兎も角半ば都市伝説と化していた職業にお会い出来るとは。

 それとなく求人も出していたりするのだろうか、と感慨に耽っていると初老の男は一瞬がくりと頭を落とす。まるで眠気に耐えているかのようだ。

「何が探偵だ、どっちがより悪事を働いているのかわかっているのかね、クスリを盛るだなんて。」

「仕事ですからね。」

 さっき汲んだ水に睡眠剤を仕込んだのが漸く効いてきたらしい。

 先輩から言い含められていた、犯罪コンサルティングへの対処法の一つだ。

 事務所には彼等に会いたがっている人が多い。だからこうして連れて行くのも、雑務の一つといって良いだろう。

 新人は雑務をこなして社内の人間関係を構築するのも仕事というが、些かハードじゃないだろうか。

「お客様、大丈夫ですか。」

「いえ、おかまいなく。私、彼の事務所を知っているので送っていきますね。」

 突然居眠りを始めた客を見つけてやってきた店員に朗らかに笑ってみせる。人畜無害そうな青年の笑顔に、店員は戸惑いながらも見送ってくれた。これだから少しも派手な格好は出来ない、いざという時の信用度が違う。

 私は手付かずの生姜焼きをちらりと見て、我慢出来ずに一口摘む。

 とんかつで満腹だったの上冷めていたけれど、その生姜焼きは勝利の美味がした。

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他人のとんかつ 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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