ダンプ野郎のrock 'n' roll

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第0話

 春爛漫、サクラの花びらが舞う中、小沢家の郵便ポストに海外から良い報せが届いた。

 家主の小沢吉美は、郵便ポストから取り出した封書に五島の社章を見つける。

「おや、婿殿か……」

 英字の並んだ封筒でも社章の一つで誰からの頼りからはわかる。手にとって頬の緩みが抑えられないまま家へと戻った。

 居間に座して中身を取り出すと二枚の写真と婿殿の几帳面な文字で綴られた手紙が便箋三枚ほど添えられていた。

 思えば愛する一人娘が婿殿を連れてきたのもこの季節であったと吉美は思い出す。

 一枚目の写真は、小さな孫を抱いた愛娘の写真。目を細くして物言わぬ写真の中の娘と孫に心の中で語りかけ、別の一枚を見た瞬間、

小沢吉美は、思わず立ち上がって感嘆の声を上げた。

「おぉ! ついに完成したか!」

 写真に写るのは、人の背丈を大きく上回るタイヤを装着したダンプトラックと作業着をキチッと身につけた娘婿とのツーショット。

 車体重量は恐らく二〇〇tを越えるだろう。二階建ての一軒家に負けない重ダンプを五島重機は開発せしめたということだ。

 吉美は、娘の写真よりも長い間、その重ダンプの写真を仔細に眺め活躍の様子を想い描いたあと空を見上げて呟いた。

「僕もあと二〇歳、若ければなぁ……」


 小沢吉美とダンプとの出会いは一九六〇年代にまで遡る。当時は戦中に計画自体が止まっていた大規模工事が目白押しで街中や山奥を問わずトラックが往来していた。


 そんな時代のとある時、小沢吉美青年はバスの車中にチマッとしていた。

 舗装の悪い道を戦時下を潜り抜けたような年代モノのバスが山奥へ山奥へと進んでいく。

 乗客は吉美をいれてたったの三人。派手なシャツの矢島という中年男と未成年の小沢吉美、化粧っ気がまるでく、今まで一言も喋らない若い女の三人だった。

「前の便は結構混み合ってたけどね。お客さん貸し切りでラッキーじゃない」

 運転手は無口だが愛想のいい車掌が切符を切りに来るついでにそんな事を言っていた。

 切符の支払いは、矢島という男が三人分、支払った。

「日雇いの連中と一緒のバスなんざ俺はごめんだね。だから前詰めさせて後からゆったり優雅に現場に向かうのさ。シシシ」

 最後尾のベンチシートに一人で座る矢島が前髪を整えながら喋って、笑った。

 更にバスは山道を走っていたが、最後の停留所で三人を下ろして町へと引き返す。

「あの、ここから歩くんですか?」

 荷物は多くないが、不安そうに吉美が尋ねると矢島がタバコに火を点けながら

「お兄ちゃんせっかちだねぇ、もうすぐ迎えがくるよ……」

「あッ……ジープのエンジン音」

 吉美はそこで初めて女の人の声を聞いた。それはちょっと高めで町においてきた恋人の声を思い出させる。

「へぇ、お姉さんは耳がいいね。ジープが来るならお迎えは、大吉さんか……おっかねぇなぁ……シシシ」

 大げさに首をすくめみせる矢島たちの視界に車が見えたかと思うとあっという間にそれは近づき、果たしてジープが停車した。

「ちっと遅くなったな。悪ぃ」

 ジープを運転してきた男はエンジンを切らぬまま乗れという仕草をみせる。

 矢島は腰を低くして助手席に乗り込み

「アンタらは荷台に乗ってくれ、えーっと」

「小沢です。小沢吉美」

「吉川……中です」

 名前を告げると運転席の大吉さんはギョッとし矢島をギロリと睨みつける。

「ひゃあ! だ、大吉さん……話は事務所についてからにしましょうよ」

 揉み手の矢島を無視して大吉がエンジンを止めて降車する。

 大吉という男は、立ち上がると六尺はあろうかという偉丈夫だった。吉美や矢島よりも頭一つ半は高い。歳は四〇を過ぎたあたりで浅黒い肌に短く刈り上げた頭髪は、働き盛りを体現していた。

「吉川さんと言ったかな? アンタがトラックの乗り手に応募してきたんだな?」

 吉川が姿勢正しく返事を返す。

「はい! アタルというのは「まんなか」と書いてですね……」

 頭を抱えた大吉が、地鳴りのように低い声で矢島を呼びつける。

「矢島ぁ君、最終バスはまだあったよな?」

「だ、大吉さんちょっと聞いてくださいよ」

「矢島ぁ! ……帰って貰いなさい」

 取り付く島がないとはこの事で場の温度が一気に氷点下まで落ちた。

「ソッチの兄ちゃん、免許はあるか?」

 大吉に睨まれて今度は吉美が凍りつく

「じ、自分は十七歳でまだ……」

 閻魔様の形相で大吉が何かを言いかけた刹那、それまで黙っていた吉川がポーチから紙片を取り出して大きな声を出す。

「あります! 大型免許! 持ってます二〇歳になってすぐ取りましたッ!」

 現代のものより二回りほど大きな免許証を印籠のように大吉の前に突きつける吉川は、男二人が怯える中、大柄な大吉の前に立ちはだかった。

「アンタは問題外だ。女にゃ務まらなぇよ。わからねぇか?」

 額に青筋を浮かべた大吉が今にも相手を喰い殺しかねない表情で睨みつける。

「……イコール・コンディションって言葉、知っていますか?」

「あ?」

 吉川が、何やら魔法の呪文を呟く。

 大吉も気勢を殺がれポカンとした表情だ。

「男だろうが女だろうが、技術さえ持っていたら乗る資格を与えられるのが免許ですよね? 若くても歳をとっていても! 背の高さだってトラックに乗ったら関係ないじゃないですか!」

「……荷あげや荷下ろしはどーすんだ?」

「やってみせますッ!」

 見下ろす大吉と見上げる吉川、互いに引く様子がない。

「大吉さん、ここは穏便に……」

 矢島が小さな声で二人をなだめる。

 ちょっとした沈黙の後、何を考えたか頭を掻いて大吉が目をそらした。

「……このジープにのってみな」

「エッ? いいんですか?」

 元々は軍用車両であっただろう無骨なジープを見る吉川の瞳が、明らかに乙女のそれに変わっていく。

 大吉は、助手席から矢島をつまみ出して自分がそこへドカリと座った。

「いきなり商売道具を傷つけられたら目も当てられん。こいつは俺の私物だが、傷なんぞつけてみろ? 手塩にかけてんだ。たたおかねぇ……ぞ?」

 吉川は、左ハンドルの運転席に滑り込むとパネル周りや変速機の確認に夢中で大吉の話がまるで耳に入っていない様子だった。

「おい! 聞いてるか? コイツは……」

「大丈夫です! イケますッ」

 頬を紅潮させながら吉川は力強く答えた。

 荷台から首を伸ばしていた矢島が感嘆する。

 鍵を回してエンジンに点火。クラッチの踏み心地を確認すると大吉の所有物である軍払い下げのジープは小柄な女性の手でスルスルと動き出した。

 路肩から綺麗に弧を描き向かうべき方向へ前輪を向ける時の吉川は、小さな身体を一杯に使いハンドルを回して見せた。

「ほう……随分と手馴れてるな」

 思わずといった感じで大吉がうなる。

「ありがとうございます。ずっと父の運転をみてきたので」

 吉川が横の大吉に振り向いて礼を言うが、

「前を見ろ前を。この先は未舗装だからキックバックに気をつけろよ」

「はいッ」

 吉川の運転ぶりに大吉は幾分、機嫌が直ったらしい。荷台の矢島に声をかけると、

「残るはこのお兄ちゃんだが……免許も持ってないヤツを連れてくるたぁどういう了見なのかね。別の工区の人足か?」

「あ、あの僕は……」

 口の利き方で再び大吉の機嫌を損ねるのを恐れた矢島は、吉美を抑えて言葉を返す。

「このお兄ちゃんコックの卵でして……」

 車内に再び妙な空気が醸される。が、大吉は案外、穏やかに口を開いた。

「……後は事務所に戻ってからにしよう」

 その後、事務所に着くまでは大吉の手短な指示以外、車内はエンジン音が支配した。


 通勤困難な場所での大規模工事の為に設置された建物が、飯場。今は寮とか寄宿舎と呼ばれている施設だ……そこへ矢島に半ば騙されてきたのが吉川中と小沢吉美だった。

 事務所で一行を出迎えたのは、本社から出向している経理の海井とこの食堂の一切を取り仕切る小池という中年の女性だった。

「オザワヨシミなんていうからアタシャてっきり女性だと思ってたんだけどねぇ」

 ため息混じり小池さんが呟くと海井さんが言葉をつなぐ。

「私だってヨシカワアタルなんて名前だからてっきり男の人だと思ってOKしたのに」

 困惑する二人。腕組みしていた大吉が面倒そうに口を開く。

「矢島君? お前ェわざと黙ってたろ」

「ひゃあ! だ、だって正直に話したら許可なんて出ないじゃないですか」

「白状したなこの野郎」

 大吉がこぶしを振り上げると海井さんが慌てて止めに入る。

「大森さん、ここは軍隊じゃないんですから物騒なのは止してくださいよ」

 矛先がそれた途端、矢島の苦しい弁明。

「大型免許を持ってる奴を探せだなんて大吉さんの注文にも無茶がありますよ。子会社とかにいないんですかねぇ」

「バカ野郎! いねえからお前ぇに連れて来いって言ったんだ! だからって女を連れてくるたぁ何事だ! 幸い、運転が達者なようだからコイツにゃ飯炊きを手伝わせる合間に町への遣いにでも出すことにするぞ」

 大吉は、それだけ言うと今度は吉美の方に向き直って言葉を続ける。

「お兄ちゃんはコックの卵だっけ? こんな山奥に何しにきやがった?」

「な、何って厨房の人手が足りないって矢島さんから聞いて……そのッ」

 大吉の迫力に圧倒されながら何とか自分のことを説明する吉美だったがここで大吉に言葉を遮られる。

「お前さんなぁ、男の職場にお洒落な洋食なんて要らねぇんだ。一升二升の飯を手早く炊けてドラム缶みてぇな鍋で味噌汁を作る。後は漬け物が切り分けられたら上等なんだ」

 話し終えると大吉はどうだと言わんばかりに腰に手を当ててみせる。

「ドラム缶の味噌汁? アタシゃソコまでのもんは出した覚えが無いよ」

「え?」

「大森さん、何度も言いますが軍隊じゃないんです。男女平等、安全第一でッ」

「あ……」

小池と海井のちょっとした地雷を踏んで怯む大吉だか、ここまで連れてきた矢島は、大吉に睨まれないように首をすくめたままだ。

 気の弱い吉美だが、この理不尽な状況に段々と怒りが湧いてきた。

「おこ、お言葉ですが厨房だって男の戦場ですよ! こんな山奥に連れてこられて帰れってのはどうなんですかね?」

「バカ野郎! 免許無しで山奥からどーやって買い出しに行くんだよッ?」

「免許取りたくても僕は十七歳なんですッ」

 ここで一旦、大吉のテンションがガクンと緩む。更にダメ押しの一言が吉川の口から。

「あの……アタシまるで出来ないんです。料理が」

 大吉は油の切れたロボットのようになるのだが吉川中は笑って愛想を見せるだけだ。

「だってお前ぇ、女だよな?」

「機械は得意なんですけどねぇ……エヘッ」

 静かにその場を離れようとする矢島の首に大吉の太い腕が巻きつく。

「矢島ァ! とんでもないガキどもを連れてきてくれたじゃねーか」

「グハッ! め。面目次第もゲホッ!」

 大吉は笑顔で地味な腹部への殴打を何度も何度も加える。

「大森さん!ぼ、暴力はよしましょう」

「はぁ……矢島君の調子のよさは死んでも治らないんだから落ち着きなよ。末吉」

 我を忘れていた大吉が賄い方の小池の一言にピタリと止まる。同時に吉美と吉川の頭に浮かんだ疑問が一つ。

「大吉さんって末吉さんだったんですか?」

「小池の婆ァさん、そう呼ぶなって何度言えばわかってくれるんだよ? 俺ぁ……」

 そう言いかけて傍らを見ればアホの子供のように口をあけた吉川と吉美が立っている。

「俺の名前ぇは大森末吉だけど現場じゃ誰もそうは呼ばせてねぇ。頭と尻の一文字ずつとって大吉だ。間違えやがったらこの現場から叩き出してやる」

 大吉の言葉にアホ面の二人が正気に戻る。

「や、雇って貰えるんですかッ」

「おっと! 条件はあるぞ? お前ら二人で一人前だ。わかったな?」

 大吉は強面の表情を崩すことはなかったが事情の飲み込めない二人は再びアホの子の顔つきに戻っていた……。


 山奥の現場に住み込んで十数日が経った。吉川中も小沢吉美も想定外の仕事を課せられ不得意分野に辟易気味だ。それは採用を決めた大吉の言葉にすると以下の通り。

『中、お前さんは女だからしばらくは飯場の飯炊き見習いをしろ。昼間は俺の遣いをやってもらうぞ。それと小吉!』

 吉美は左右を見回すが大吉の視線はキッチリ自分をロックオンしていた。

『女みてぇな名前を一々、俺に言わせるつもりか? ここにいる間、お前ェは小吉だ! そんでお前ェは中に米の研ぎ方から野菜の切り方まで炊事の一通り仕込め。買出しの時には付いて行って荷を運ぶんだ』

 突然、ハードルの高い要求をされて表情が土気色になっていく中と小吉だが、大吉の話は更に続く。

『それから中よ、お前さんは車の運転を小吉に教えてやるんだ。いいな?

小吉は十八の誕生日に普通免許を取って来い。中は食える物を作れるようになれ。お前らは二人揃って一人前の扱いだ。覚えとけ』

『アタシお母さんに送金する為なら何でもやります!』」

 先に力強い返事を返したのは中だった。

 小吉も小さな声だが決意は同じらしい。

『ぼ、僕だって町に残してきた恋人のために稼がないとダメなんです』

『ふーん、暫くは様子を見てやる』

 話はそこで打ち切られ大吉は、矢島を引きずって事務所から出て行ってしまった。

『じゃ、じゃあ私は事務的な手続きをするので小池さん、後はお願いできますか?』

『あいよ。アンタたち、今から夕飯の仕込みだからね。ついてといで』


 その日から中と小吉は、朝晩は小池姐さんの指示で飯炊きに追われ、昼間はこの工区で顔役の大吉さんから様々なお遣いを言い渡されて西へ東へと彼のジープで走り回る日々が始まった。

 料理のまるで出来ない中は指先に巻く絆創膏が日々増えていき、数日後には衛生上の問題から小池さんに傷口が塞がるまでは炊事場への出禁を言い渡されてしまった。

 一方の小吉は、工区の中に限っては中からハンドルを任されて慣れぬ運転に心身ともに疲労し、夜の座学に至っては教本を枕に寝てしまうので、中から立ったままで勉強するように言い渡される。

 ある夜、小吉の座学に利用している食堂で片肘をついた中が小吉に言った。

「小吉君って理詰めが得意だから筆記は覚えがいいのよね。運転なんて慣れよ?」

 人見知りする小吉だが、彼女にはだいぶ慣れた。

「中さんは、基礎がないのに勘所で料理をするから出来不出来の波があるんですよ」

 小吉の言葉にカチンときた中が軽く彼を睨みつける。

 小吉は小吉で心中、中を睨んでいるつもりだが反射的に目をそらす。

「小吉君の屁理屈屋。運転なんて……」

 若干の沈黙を経て二人同時に深いため息をついた。

「もーちょっとお母さんの手伝いとかしておけば良かったのかなぁ?」

 短い沈黙の後、中がそう呟いた。

「やってこなかったことを悔やんでも仕方ありませんよ。頑張りましょう」

 中が畳みにひっくり返ったのを見て小吉も床に腰を下ろして足を揉みだす。

「小吉君は繊細すぎるのよねぇ」

 中の言葉は的確だった。そして小吉もよく中の事を観察していた。

「中さんは、ワイルド過ぎですよ」

 ムクリと起き上がった中は腕を組んで悩んでいたが、数秒後には二度目のダウン。

 小吉も睡魔に抗えず、動けない。中さんを部屋に送って自分も寝所に戻らねばと思うのだが、五分だけと自分を甘やかしそのまま朝まで寝こける小吉だった。


 朝一番にやってきた小池さんに小突かれて二人は目を覚ました。結婚前の男女が何事かと散々説教を喰った。

 飯場の朝は早い。食事の仕度は更に早い。

五〇人単位の作業従事者が時間を決めて四回から五回、入れ替わる。釜が空いたら洗米済みの釜を二人がかりでセットして別の人が釜を洗って再び米研ぎのくり返しだ。

 味噌汁だけは同じサイズの鍋が幾つもあるので一度に全員分を作れるが、漬け物の類は切った端からなくなっていく。

 一汁一菜の質素な食事だが、厨房は戦場さながら。要領を得るまでは小吉ですら青息吐息だったのだから中の苦労は想像に易い。

(何とか作業工程を一つ二つ減らせないか)

 小吉は最近その事ばかり考えていた。

 昼の仕事は小池さんの差配で幾分、楽になるがそれは大吉さんの仕事をする為であって休憩できるわけではない。

 一食分の予算は限られている。それを最大限活用して皆が満足する献立で楽に出来るもの。

「小吉君、そろそろ抜けさせてもらわないと大吉さんにまた怒られるわよ」

 無言で作業する厨房で中の声がすると小池さんが無言で行けと出口を指し示す。

 中と小吉は失礼しますと一礼して厨房から早足で出て行った。

 中の運転するジープは、可及的速やかに大吉の待つ工区に到着したが、彼の機嫌は残念なくらいに悪かった。

「遅ぇぞ小吉!」

「そんなこと言ったって運転してたのは中さんで……ンガッ」

 小吉の減らず口が終わる前に石を投げつける程度にはイライラしている。

「中ゥ! ふもとの資材置き場から書類にある資材を貰って来い。それと小吉ィお前ちょっとこっちに来いや」

 小吉は、身に覚えが無い呼び出しに顔が青ざめるが、中が肘でグイと小突く

「男の子でしょうが!」

押された勢いで大吉の元へと向かう。

「大吉さん、僕は何も悪……グエッ」

 口答えのたびに殺傷力の低いゲンコツが落ちてくるのには辟易したが、大吉の不機嫌が自分以外の処にあると想像した。

 大吉はチラと中をみやるが、彼女は大吉たちの話が済むまで自分の仕事をするらしい。

「小池の婆ぁさんにも相談したんだが、お手上げだ。ここんとこ、飯場の連中の食が細くなってるのに気付いてたか?」

 小吉も意外な話題に大吉以上に声を潜める。

「いや、まぁ新参ですが一応……」

「そうか……別に飯が不味いわけじゃねぇ。この季節にゃ恒例の食細りだ」

 新緑の季節から夏へと向かっていた。厨房で極端な湿度と気温に慣らされた小吉や中はともかく屋外作業員は、疲労の頂点だ。

 小吉が真先に思いついたのは、カレーだった。香辛料の効いた食事なら皆が食べるだろうと提案した。

「婆ぁさんと似たような返事かよ。がっかりだ」

「何でですか」

 今度はゲンコツがとんで来なかった。

「まずが肉は高い。それにライス・カレーってのは汁かけ飯だろ? 嫌がる奴が多い」

「肉はともかくカレーが駄目?」

「こういう現場じゃ汁かけ飯は縁起が悪い。ウチみたいなダム建設ならなお更だ」

 実際の話、炭坑や鉱山では白い飯の上に惣菜をのせる食べ方は落盤を想起させるので忌み嫌われていた。

「え、ココってダムを作っ……痛ぇ!」

 今度は予想通りにゲンコツがとんできた。大吉は小額紙幣を一枚取り出して言う。

「手前ェ、毎日何を見てんだ……と、言っても釜の飯と街への買出しじゃムリも無ぇか。ともかくお前ェ、街で飯のすすみそうな物を探して来い。わかったな」

 小吉は、飯場と資材置き場とを往復する毎日なんだから素人にはわかりませんよと言い返したかったがゲンコツが怖くて止した。

 弱々しく大吉に頷いて踵を返す小吉の背中に大吉は頼むぜと声をかけた。


 日々、賄いを作っていた小吉は、料理の基礎は身体に浸み込んでいるものの、以前に働いていた洋食屋ではお客に出す為の豊富な食材があった。そこから店には出せない部位があって初めて賄いの料理は出来る。

 わずかな予算で何を用意するか小吉は、頭をフルに回転させていた。が……

「痛ッ」

「小吉君、手が止まってるわよ」

「すみませんって……でも中さんいきなり手が出るって大吉さんに似て……グエ」

「アタシは何度も声をかけましたッ」

「さいですか。すみません」

 小吉は思う。吉川中という人は、自分なんかよりもよほど男っぽいと。


 中の遣いが済んだ後、わけを話して市場へ向かう。一本道の両側に並ぶ様々な食材を前に小吉の考えはまとまるどころか混乱した。

 これは外洋航海に出る船舶にもつきまとう悩ましい問題だ。二〇〇人からの食事を効率よく用意する為に仕込みは最小限にしなければならない。そして食材は長期保存がきくものなれば、香辛料主体の料理が一番だ。

「あんまり遅いと大吉さんに叱られるわよ」

 三〇分も経たずに中がイライラし始める。

 そんな時、市場の出口からフワリと良い匂いが漂ってきた。市場の外周に設営された屋台が昼時を見計らって商売を始めたのだ。

 器を必要としない焼き物が中心だが、ウドンのような椀物もあれば炒め物も少なくない。

「なにあれ!」

 屋台の一つを指差して中が声を上げた。

「ちまきですよ。知らないんですか?」

 笹の葉で包まれたちまきは、大きな蒸篭で蒸され湯気と共に甘い香りを漂わせていた。

 説明しようとした小吉だが、ヨダレを垂らさんばかりに屋台のちまきを凝視する中の姿に呆れてながら彼女の為に一つ買い求めた。

「えッ!いいのッ!」

 中が子供のように目を輝かせる。小吉は慣れた手つきで笹を剥き、中に手渡した

「はいはい。少し時間がかかりそうなんで大吉さんに怒られた時には口ぞえ頼みますよ」

 未体験の食べ物を前に中は小吉の言葉を聞いている様子もなくちまきを齧った。

「この炊き込みご飯!すごい美味しい!」

「えーっと、中さん?」

 料理をしない人はこんなものなのか? と小吉は呆れた。ちまきはもち米を葉に包んで蒸したものであって断じて炊いてはいない。

「あの中さ……」

 説明の前に小吉の言葉が途絶えた。自分に課せられた課題が一気に解決したのだ。

「小吉……くん?」

「食材買って来るんで待ってて下さい」

 キョトンとした表情の中を置いて小吉は、市場へ引き返していた。

 夕暮れ時、仕事を終えて飯場に戻る大吉は、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 現場に戻ったのは中一人、聞けば小吉は試作を作るために厨房へ送り届けたとのこと。しかも小吉が何を買い込んだかを訊ねても料理オンチの説明では一向に要領を得ない。

「カレーの匂いじゃねぇか」

 他の誰よりも早く飯場に戻ると漂ってくるのは間違えるはずも無いカレーの匂い。大吉は、額に青筋を浮かべて厨房へと向かう。

「小吉ッ! 手前ぇ何を……」

 飯炊きの小池と経理の海井、矢島が小さな器に盛られた金色の飯に舌鼓を打っていた。

「あぁ、大森さん、これ美味しいですよ」

 海井さんが顔をほころばせると、

「末ちゃん! いい子拾ってきたねぇ」

 今度は、小池さんが誉めそやす。

「末ちゃんて婆ぁ……それより小吉よソイツは何だ?」

「汁物は良くないって言うのでカレー粉を混ぜて炊いてみました」

 小吉は、大吉の分を試食用の器に盛りながら少し得意げに答えた。それは、現代から見れば粗末なピラフだが、大吉の要求通りの品だった。曰く、食が進む安価な食事。

 受け取った大吉は、鼻腔をくすぐる刺激的な香りに無言で箸をつける。そしても気が付けば小さな器だけに食べ終っていた。

 それを見た小吉は、ホッとした。調合を済ませたカレー粉を缶売りするものが主流だった時代は、匙加減だけで辛味の調節に苦労は無かっのだ。

 ばつが悪いのは大吉だ。言いつけにそむいてカレーを作ったであろう小吉を叱り飛ばす勢いで厨房に来たはずが、皿まで舐める勢いで試食を平らげたのだから。

「まぁ何だ。風変わりな炊き込みだな……って小吉よ! ありゃ何だ?」

 大吉の視線の先には明らかに動物の骨が積まれていたのだ。

「手前ぇ肉は高いからとあれほど……」

「ちょ……ありゃトリガラさ! 大吉さん」

 そう矢島に言われて仔細に見れば肉片は付着しているが成る程。骨だ。

「大吉さん良かったらこのスープも飲んでみてください」

 小吉に言われるままに受け取った椀の中は、澄まし汁の様で細かく刻まれた色とりどりの野菜が浮いていた。

「炊き込みご飯の為にトリガラを使って洋風の出し汁を作ったのでスープも作りました」

 一口啜ると薄い味ながら鶏の旨味も効いていて確かに滋養もありそうだと大吉は思った。

「これ全部で幾らかかったんだ?」

 大吉が、顔がほころびそうになるのを我慢しながら渋い顔で問う。

「ガラは肉屋のオジサンからタダで貰ってきたのでカレー粉の代金だけです。野菜はある物の中から香味の物を選んで使いました」

「大森さん、何度試算しても計上していた予算が少し浮くんですよ」

「……や、やるじゃねぇか小吉」

 雇われた日から厄介者だった小沢吉美が大吉に初めて褒められたのがこの時だった。

「末吉さん今日の晩から皆に出すわよ?」

「婆ぁさん、末吉って言うんじゃねぇ! 時に小吉よ、渡した金は?」

「実際に配膳できるのでそれは私が……」

 経理の海井が言いかけた刹那……

「小吉くーん! あの屋台のちまきの分だけ加勢に来たよーッ」

 能天気な中の一言に小吉が凍りつき大吉の怒りに火がついた。

「だ、大吉さ……コッ」

「使い込みたぁ上等だぁぁ!」

 その日、小沢吉美は生まれて初めて大吉に認められ……そして気絶させられた。


 その日は、激しい雨が降っていた。

『大工殺すにゃ刃物は入らぬ。雨の三日も降ればよい』

 そんな言葉も昔はあったが、三〇〇キロ四方を人の力で造成する技術を手にした人間には、天候に関係なく仕事がある。大吉は、自慢のジープにホロを張り、中と小吉を連れ回していた。

「つまり、俺たちの現場はこんな感じだ」

 大吉の言葉を聞くでもなく新参の二人は、車窓に張り付く。低地では青いシートが道具を覆い、高地ではブルドーザーやトラックが静かに雨に打たれている。

 公道を走る事が許されていない車両も展開している中、小吉と中は想う。

 飛ぶ鳥の目には、これら特殊車両も蟻のごととく映るのだろう……と。

「ところで中ゥ、小吉は免許を取れるか?」

 大吉が突然に爆弾を放り込んできた。

「小吉君は、駄目かもですねぇ」

 中は、即座に短く答えた。

「……何が駄目だ?」

 中は小吉の運転を頭の中でリプレイしているような感じでゆっくりと、つたない言葉を紡ぐ。

「小吉君は、頭で考えちゃうみたいで……何ていうか……右手と右足がこう、一緒に出ちゃうような運転なんです」

 大吉は、そう答える中をバックミラーで見やりながら言葉をつなげた。

「そらぁまた……随分とやっかいだな。じゃあ、小吉よ……中の料理の首尾はどうだ?」

「そ、そうですね……米の研ぎ方は任せても良くなりました。中さんは勘所がいいので経験を積めばもっと上手になると思います」

 外通り聞き終えた大吉が口を開く。

「成程……わかかった」

「……えっ」

 叱られると思った小吉が大吉を見る。大吉は無表情で意図が読み取れない。

「……おや? 今日だったか」

 沈黙を破ったのは大吉だ。

「大事な用を忘れていた。事務所に戻るぞ」

 中と小吉は、大吉が何を目見たのかと車窓に張り付く。

「……あっ!」

 高台を走行するジープから見下ろす景色に中が見つけたのは数台のトラックだった。そのうちの一台が事務所に向かっている。

「本社からの遣いだ。忘れていたぜ」

 そう言って大吉は事務所に向けてハンドルを切った。

 大吉が事務所に戻ると応接用のソファに腰掛けていた男性が、立ち上がって出迎えた。

「大吉さん、ご無沙汰しています」

「おう、不二さん自らとは驚きだ」

 不二と呼ばれた男は、社章の入った作業着を背広のように着こなす紳士然とした男性だが雰囲気で言うと経理の海井とは少し違う。それよりも野蛮な香りのする紳士だった。

「分解しても貨物列車で運べない難物なのでトラック隊を率いてきましたよ」

 素っ気はないが、旧知の大吉と話す不二は目が子供のように輝いている。

 興味津々の大吉が場を仕切る。

「おし。見学させて貰おうか。五島重機初の重ダンプとやらを」

 公道の途切れた場所に設置された屋根の高い整備場は、まるで巨大な体育館だった。普通車両は勿論、法律で公道を走ることのできない特殊車両の組み立てや整備することもできる。

 中に入れば成人男性の手首ほどもある鎖が天井から垂らされ、その先端にはダンプを象徴する荷台が吊るされていた。

「荷台の設置と油圧の調節に入ります」

 整備班の声が背後で飛び交う中、大吉は一部始終を不二と共に見学していた。

「大吉さん、これが五島の重ダンプですよ」

「どれくらい積める?」

 大吉の問いに不二がニヤリと笑う。

「二〇t。空重量もバカみたいですが、使えると思います」

「フン! 一〇tトラック五台で運んでも組み立てりゃあ二台とはねぇ」

 鼻を鳴らす大吉に不二が苦笑する。

「重量がありすぎて国鉄も輸送を引き受けてくれなかった怪物を運んできたんですから少しは評価してください。それより……」

 ここで不二が一段、声をひそめる。

「一度だけ実験したんですが、水深が一m程度なら渡河も可能です」

「……その実験、会社は知ってんのかよ」

「いやぁ、試験走行中に偶然ですね……」

 そこまで言われたら誰でも察しはつく。

「はぁぁぁ……技術屋ってのは、どうも子供じみたところがあっていけねぇな」

 短く刈りあげたゴマ塩頭を掻きながら大吉がため息をつくと不二は、それを見て嬉しそうに目を細めた。

 その後も大吉は時間の許す限り組み立ての様子を黙って眺めていた。


 次の日も雨は続いていた。大吉が朝食の為に食堂へ入ると中が犬のように駆け寄る。

「大吉さん! 新しいダンプはどうでした? アタシも早く見たいですよッ」

 大吉は、急いで中に答えず配膳された食事に手をあわせ。箸を手に取る。

「……ありゃあお前ェの玩具じゃねぇ」

「えーッ!」

「あ、おはようございます大吉さん。今朝の食事、味加減はどうですか?」

 騒ぐ中に気付いた小吉がやってきてそんな質問を大吉に訊ねる。問われた大吉は、改めて膳の中から汁椀を取り上げ一口啜る。

「どうってお前ぇ……普通に美味いぜ?」

 大吉の言葉に中の表情が明るくなる。

「今日の味噌汁、小池さんに任されて出汁から中さんが作ったんです」

 汁物は炊飯と違って味噌汁は大抵一つか二の寸胴で出来上がる。小吉なら造作も無いだろうが、初心者の中はさぞ難儀しただろうと大吉は思う。

「小吉、昼の仕度にどれだけかかる?」

「えっ? ……今日は、大吉さんからの言いつけもありませんし十一時には多分」

 小吉の言葉を受けて思案せず大吉が言う。

「よし。お前ぇ等、婆ぁの仕事を急いで済ませて握り飯を三〇個。事務所に持ってこい。整備場に連れて行ってやる」

 ここで中と小吉は真逆の反応を見せる。

「! やった!」

「えっ……僕は……」

「言っておくが、小吉よ……お前ぇも来なけりゃ、この話はナシだぜ」

 大吉の言葉に中が慌てて説得に回る。

「ちょ! 小吉君~アタシ達は二人で一人前扱いなんだから行こうッ!」

「……」

 食べ終わった大吉は、無言で席を立った。

『中よ……二人揃って一人前だと思うならもう少し小吉を助けてやれ』

 外の雨に目を細めながら大吉は思った。


「なんだこりゃ?」

 整備場についた三人を出迎えたのは、人ではなく組み立ての完成したダンプが発する異音だった。

 場の空気を読めずに新品の重ダンプに魅了され整備員に混ざろうとする中の襟首を大吉が引っつかんで止めていると整備員たちの絶望煮的な会話が聞こえてきた。

「全部取り替えたのに何で動かない?」

「わからん!」

 完成したはずの重ダンプの周囲に場内の整備員が半分も群がっていた。

「不二さん、何があった?」

 離れて傍観する責任者に大吉は声をかけた。

「それが……」

 大吉の問いかけに説明しようとして不二は言葉を探し損ねた。

「原因がさっぱりわからんのです」

「はぁ? 不二さん何だよそりゃあ?」

 不二の説明によると、エンジンを始動させる部品に不良を発見して部品を交換したが、一向に動かない。自然と他の場所にも点検の範囲を広げるが動く気配が無いようだ。

「最終点検のはずなのに……一体何が?」

 黙って聞いていた大吉が、動き出す。

「……」

 ダンプの前に立てば車載済みの蓄電池が電流をエンジンに送り続けて『動け』と悲鳴を上げていた。

「おぅ! ちょっと場所をあけてくれ」

 騒音著しい整備場で、少し大き目の声で大吉が言うとダンプに群がっていた整備員たちが一斉に手を止めた。

 大吉は、ボンネットに陣取っていたベテラン整備員からその場を譲られると術式を開始する外科医のように工具を要求してエンジンを構成する部品の一つ一つを点検し始めた。

「すごい……大吉さんって車の組み立てもできるんだ」

「ホント。どこで覚えたのかしら」

 遠巻きに見学していた中と小吉が初めて言葉を交わした。

「おぅ、ボサッと突っ立ってねぇで手の空いてる連中に差し入れ配っとけ」

 エンジンルームに頭を突っ込んだの大吉の声に二人は慌てて給仕を始める。


「あぁ、皆に行き渡ったんだね」

 小吉が、お握りの最後の一つを不二の前に置くと彼は嬉しそうに言った。

 本来なら役職が上の人間から食べそうなものだが、不二は小吉たちがいくら勧めてもお握りに手をつけようとはしなかった。

「中さん、お茶碗ってまだあります?」

 お茶を入れた真鍮製の大きなヤカンを手に呼ばれるままに走り回る吉川中に小吉の声は届いていない。

「不二さん、ちょっと待っていてください」

 小吉が、返事を待たずに中を追いかけようとした瞬間、力強いエンジン音が整備場を振るわせた。

 直後、整備員の誰もが歓声をあげた。そしてその中心には満足げな表情の大吉の姿。

「大吉さんって……やっぱり凄いね中さん」

 不二の為のお茶を貰うのも忘れ空の茶碗を手に小吉が中に話しかける。

「……」

「中さん?」

 さっきまでお茶のお代わりを注ぐのに忙殺されていた中が、動きを止めたままダンプを注視していた。当然、小吉の言葉は耳に届いていない……。


「不二さんよぉ、この現場に来る前からどんだけ寝てなかった?」

 エンジンの始動を確認して戻った大吉は、口を開くなり不二に尋ねた。

「……いやぁ、面目もない」

 不二は、言葉の端に悔しさを滲ませた。

「俺ぁ……整備士としちゃロートルだから整備方に口を出すつもりは毛頭、無ぇが」

 ここで間をとった大吉が言葉を続ける。

「トップがマイナス頭になっちまったら部隊はおかしな方向に突っ走って自滅するぜ? 俺は大陸でいくらもソレを見てきたんだ」

 マイナス頭とはこの時代特有の言葉かもしれない。判断力が著しく低下した状態を指すのだが、大吉は自分を一段下げた上で経験則を不二に言って聞かせた。

 柔らかく諭す口調に不二の表情が一瞬だけ強張った。しかし、直後に不二は精一杯、大吉に笑ってみせる。

「はっはっは! 大吉さんはいつも僕の弱っているツボをグイッと押してくれますね。目先にとらわれて全体が見渡せないなんて僕は相変わらず未熟者だ」

「そこまで言っちゃいないが……まぁいいさ。これで納品に……」

「まだですッ! 大吉さん、まだ駄目です」

 場内に女の声が上がる。

 整備場にいる女性は即ち吉川中を意味していた。彼女は、傾けすぎてタパタパと床に流れるお茶にも気が付いていない。

「中ぅ一体、どういうこった?」

 一口だけ啜った茶碗を机に置いて大吉は、中を真っ直ぐに見据えて問うた。

「えっと、音が……音がまだおかしいです」

「ほぅ? 俺はこれでもお前さんがこの世に落っこちてくる前から色んなエンジンを整備してきたんだがな?」

「だから……何ですか?」

「その俺の仕事にお前さんはケチつけようってんだな? 中ぅ」

「……でも私の耳は、エンジン意外に問題があるっていってます」

 立ち上がった大吉は、中を見据えたまま彼女の目の前に立った。

「……あっ」

 小吉は、思わず小さく声を漏らした。

 見下ろす大吉と見上げる中、互いに引く様子がない。この光景を小吉は以前も見ていた。それは、最初に三人が顔を合わせた時だ。

「あっ……あのぉ……ンガッ」

 大吉は、恐る恐る声を出した小吉を問答無用でゲンコツで小突いた。

「なんでぇ小吉? 俺ぁ今、ワリと機嫌が悪いから下手なことぬかすなよ?」

 頭上からの激痛にうずくまる小吉だが、復活は早く大吉に立ち向かう。

「耳ッ! 中さんは、耳がいいんですッ」

「あん?」

 大吉にギロリと睨まれて小吉の心はゴマ粒ほどの心根が萎縮するが、グイと踏ん張り言葉をつなぐ。

「初めて大吉さんと会ったとき……中さんは、音だけでジープだって言い当てました。」

「……で?」

 大吉の対応はあくまでも冷たい。しかし、小吉の言葉はそれに反して饒舌になり周囲の反応に関係なく雄弁になっていく。

「だ、大吉さんッ! 料理をするのにも耳の良さは大切なんですッ」

「あ? おぉう」

「つ、つまり……煮炊きするときには目よりも耳が大切ですし、だから……」

「あー! もいい! 小吉よ」

 ここで大吉が珍しく折れた。今まで自分に逆らうことが無かった相手が言葉を詰まらせながら意見するのには、耳を傾ける価値があるのかもしれないが、料理を例えに出されてもまるで理解は深まらない。

 大吉は、改めて中に向き直る。

「で……中よ。お前さんはどうするのが一番だというんだ?」

「エンジンよりも奥の……そう、駆動系の再点検をするべきだと思います」

「今からキャブを外すのかね?」

 不二がたまらず口を挟む。キャブとは運転席まわりを包む外殻そのものだ。

 そこで大吉が声を発した。

「おぅ! 全員一旦、手を止めてくれ」

 整備場の誰もが大吉の言葉に従って作業の手を止めた。昼夜を問わず喧騒に包まれている場内に突然の静寂。

 大吉は、整備員を二人選んで組み上げたダンプのエンジンを交互にかけさせる。

 腕組みしたままエンジンの音に耳を傾けていた大吉が、おもむろに口を開く。

「……急な話だが今から全員一時間の休憩をとるぞその場で適当に寝てくれ」

「だ、大吉さん……」

 不二は、大吉が次に何を言うかわかっていた。だがそれは、時間の浪費に繋がる。

「不二さんアンタも寝てくれ。休憩が終ったら二台目のダンプ……ちょいとキャブを外して再点検するぞ。わかったな?」

 戸惑いの空気が場に漂うが、それでも整備士たちは、不平など言わない。全員が短く『おう』と応えてその場に身体を横たえた。

 外の雨音だけが整備場に流れていた。


「……こいつぁ一体、どうゆうこった?」

 一時間と少しの休息後、疲れの取れた整備士たちが手際よくダンプ前部のフレームを外してクレーンで吊り上げる。

 象に群がるアリのような人海戦術で点検を始めると小さなミスが次々と見つかった。

「おい! この分だと燃料系の五番から十二番も確認しといたほうが良さそうだな」

「はいッ」

 大吉と不二は作業全体を見渡せる場所で手書きの手引き書とにらみ合っていた。

「初めての車体だしミスがあるのは仕方ないとしても……これほどとは」

 監督していた不二も思わず絶句する。

「不二さんよぉ、原因は何だと思うね?」

「……」

 不二は、しばらく逡巡していたがまるで言葉が出てこない。

「簡単なことさ……不眠不休ってやつがコイツらの仕事の質を下げてたんだ」

「……すみません」

 絞り出すような声で不二が詫びる。

「よせやい、アンタの指示じゃねぇだろう? 『あと少し』とか『頑張らなきゃ』っていう気持が皆に伝染した結果さね」

「大吉さんには何でもお見通しですか……。しかし、私の指示でないにせよ彼らの体調管理を怠ったことには違いが無い」

「まぁ、そうゆうこった」

 作業が正常に回り始めたところで、大吉は中と小吉を呼びつけた。

「これだけの怪物ダンプの整備なんてお前ら見るのは初めてだろう? 作業の邪魔にならないようにシッカリと見学して来い」

 中は、最後まで話しを聞かず安全帽を手に駆け出していた。慌てて後を追おうとする小吉に大吉が声をかける。

「いい機会だ。中に車ってのがどんな仕組みで動いているのか説明して貰いな」

「はいッ!」

 大吉は思う。理詰めの得意な小吉のことだから実車の構造を知れば運転技術も多少は向上するだろう……と。

「大吉さんに意見したあの娘さん、大した耳を持ってますね」

「あぁ。あれで運転も中々のもんだ。アイツが男だったら即採用なんだがな……」

「もう一人の……彼は?」

「アイツはまだ十七で普通自動車の免許すら持ってねぇよ。小心者の調理師志望だ」

 一通り大吉の説明を聞いていた不二がニヤニヤし始める。

「はぁはぁ……それで大吉さんは、最終的に二人をどうするおつもりで?」

 問われた大吉は、ただ頭を掻くばかり。

「わかんねぇよ。とりあえず今はお試しだ……そういや、そろそろ一ヶ月か? 」

 見れば中が躾けの悪い犬のように小吉を引き回している。騒音で聞こえないが二人の会話が聞こえてきそうだ。

「いつまでも試用期間とは言えませんよ」

「……わかってらぁ」

 不二の言葉に大吉が小さく答えた……。


十一

 梅雨が終わりを告げる頃、小吉と中にも初の給料日がやってきた。二人とも日払いをすることが無かったので封筒には幾らかの厚みがあった。

 給料を貰った日、二人は購買部でささやかな買い物をした。

 小吉は、石鹸や髭剃りなどの消耗品の他に真新しいシャツと手拭を買った。中の方は消耗品を買うだけにとどまった。

「中さんそれしか買わないんですか?」

「お母さんに送金してから使い道を考えようと思ってるの。それにここじゃ女の人が使う物も無いしねぇ」

「おう、お前らを探してたんだ」

 野太い声に振り向くと大吉が立っていた。手には厚みのある封筒を持っていた。

「大吉さん、何です?」

 大吉は、手にしていた封筒を小吉に預け、

「午後から元請の偉いさんが来るんで俺は動けなくなった。ジープでこの前連れて行った事務所にこの封筒を届けてくれ」

「わかりました。あの大吉さん……」

「それからな、足を伸ばして街に行っても構わないぞ。ただし遅くなるなよ二人とも」

 大吉は知っていた。中は母親への送金、小吉は貯金をしたがっていると。だから適当な理由をつけて街に出してやったのだ。

 二人は声を揃えて礼をいい走り出す。

「ぶつけんじゃねーぞ」

 大吉は、二人の背中に声をかけると訪れる予定も無い本社のお偉いさんではなく小池姐さんに会うために食堂へと向かった。


 大吉のお遣いを済ませた二人は、中の提案でパーラーへ向かいパフェを楽しんでいた。

「すごいね……コレ」

「ですねぇ……僕も初めて食べました」

 スイーツ自体が初体験の中は、生クリームとアイスに驚き、完全に語彙を失った。

 パフェグラスにスプーンを突き立てて中が一旦、口元を拭う。

「そういえばさ、小吉君って何で洋食屋さんをクビになったの?」

 中の歯に衣きせぬ物言いに小吉は匙を置いて説明をした。

「……要するに店の子に手を出すなんて小吉君ったらやるじゃない」

 周囲を見回して小吉が焦る。

「人聞きが悪いッ。ぼ、僕たちは清いままですよッ! な、何言ってるんですか」

「ムキにならないの。君が小心者なのは良くわかってるから」

 小吉は上着のポケットから葉書を取り出す。住む場所が決まったら真先に彼女に出そうと思って買っていた物だ。

「これ食べたら郵便局に行くんですよね?」

「彼女さんに? 用意がいいこと……そうねアタシもお母さんに送金したいしね」

 そう決まると中も小吉も残りのパフェを急いで楽しむ。

 郵便局では、中が母親への送金を済ませ

小吉は葉書の投函と貯金をした。それが済むと特にやる事も無い二人は、街を流すでもなく帰路に着いた。

「工区に入ったら小吉君が運転するんだからちゃんとお手本を見ておくのよ」

「うへぇ! 中さんは厳しいなぁ」

「当たり前よ! アタシ達の命運は小吉君に係ってるんですからねッ」

 スパルタ教育の中だが、最近は密かに小吉に期待をしていた。料理の教え方の的確さ、そして重ダンプの整備を見学したことで青少年の車への理解は確実に深まり、練習用の車両は大吉の愛車、じゃじゃ馬だ。それでも乗れるようになってきている。

 褒めて伸ばすことを知らない中だが、緊張しなくなるまで小吉が運転に慣れてくれたらと願うのだった。


十二

 給料日を過ぎて一週間、待てど暮らせど彼女からの返事が無いせいで小吉は著しく集中力を欠いていた。

「……こいつは非常に具合が悪い」

 遠巻きに小吉を観察していた大吉が誰に言うでもなく呟く。

「あ、大吉さん……」

 声の主は玉ねぎを運んできた中だ。

「珍しいですね。イの一番に大吉さんが朝の食堂へ来るなんて」

 食堂の古参、小池の声が小吉に飛ぶ。

「ちょいと吉美くーん! 吉美君ったらぁ」

「……あ! こ、小池さん何ですか?」

「ボーッとしちゃってさ。アンタ明日の分まで刻むつもりかい?」

 そう言われて手元を見れば、二〇〇食をゆうに超える野菜が刻まれていた。

「うわぁ……すみません」

「仕方ないから冷蔵庫に入れときな。同じオカズが続くと男衆はうるさいから」

「最近、現場が忙しくてお前ぇらをほったらかしてたからな。こいつは俺の監督不行届きってヤツだが……中よ何かイイ手は無ぇか」

 一方、大吉に言われて知恵を絞る中だが、

「アタシは、車の整備で気分転換できます」

「うん……訊ねた俺が馬鹿だった」


 大吉と中からは良い案が出ぬまま、小吉が免許の合宿に向かう朝が来た。

「まぁ、金のことは気にするな。こう見えても俺ぁ、社長様だからヨ」

「だ、大吉さんって……そうなんですか?」

 中も小吉も驚きすぎて呆けた顔をする。

 大きく見栄を張った大吉だが、要はダム工事に関わる上で元請けの一つである五島建設から仕事を依頼されている個人事業主ということだ。

「お前ぇらいつまでアホ見てぇに口を空けていやがる。社会の仕組みを知らねぇ奴らだな……まぁいい。中はジープ取って来い」

「はいっ!」

 中が、小走りにジープへ向かうと大吉は小吉に囁いた。

「小吉よ、免許なんざ最短で取って来い」

「ががが、頑張ります」

「馬鹿! 今から緊張してどーすんだよ。最短で取れたら……丸一日の休暇をやるゼ。ついでに俺のジープを使わせてやろう」

「……え?」

 言葉の意味を解せない小吉がアホ面に戻る。

「馬鹿だね、お前って奴は……好いた女に会いに行けるだろうが」

 それまで淀んでいた小吉の瞳にみるみる生気が戻ってきた。

「ぼ、僕ッ頑張りますッ!」

 気合いの入った小吉の前に中の運転するジープが横付けされた。

「中ぅ、公道に出るまでは、運転をかわってやんな」

 大吉に言われるまま席を譲る中だがこの短時間に何があったのかといぶかしむ。

「大吉さんッ! 行ってきますッ」

 今まで何度となく練習した行程をキビキビと済ませジープは走り出した……。


 果たして小吉は、大吉と約束した通り、二〇日とかからず普通免許証を手に凱旋した。折りしもその日は、小吉の十八歳の誕生日……。

 成果の報告に大吉を訪ねると普段は鬼瓦のような顔の大吉が満面の笑みで迎える。

「でかした小吉よ!」

「あ、ありがとうございますッ」

「とりあえず荷物を……っと、その前にお前宛ての手紙が届いてるぜ。ホレ」

 大吉に渡された白い封筒、小吉はその宛名に恋人の名前を見つける。

「コラコラ小吉、そういうもんは部屋に戻ってゆっくり読むもんだ。行ってこい」

「はいッ!」

 元気良く駆け出した小吉の背中を微笑ましく見ていた大吉だがやがて作業に戻った。そして一仕事、二仕事と済ませても小吉は戻ってこなかった。

 怪しんだ大吉が、中を遣いに出す。五分とかからずに戻った中だが、表情が硬い。

「大吉さんが預かっていた手紙、お別れの手紙だったそうですよ」

 聞けば、親の決めた縁談がまとまりアパートを引き払って帰郷したそうだ。大吉が悪いわけではないが、なんともいえない居心地の悪さが胃のあたりに溜まっていく。

「返事が遅れたのは転送が原因ですね」

「なるほどな……まぁ、今日のところはソーッとしておいてやるか」

 大吉が呟くと二人は、無言でそれぞれの仕事へと戻った。


 十三

 初夏の爽やかな風はどこへやら……うだるような暑さ、夏が本気を出し始めた。

 工事というのは、自然を相手にするので暑さ寒さとの戦いでもある。作業員たちは、休憩ごとに水を摂り塩を舐め作業服の背中一面に汗染みを作る。

「……ふぅ」

 午前中の仕事を終えた大吉たちが、手拭い片手に食堂へ入ってくる。冷房設備は無かったが屋根があるだけ幾分、涼しい。

 ヒョイと大吉が厨房を覗くと次々と訪れる作業員たちの為に小吉が手際よく配膳の用意をしていた。

「……」

 大吉は眉根を寄せて小吉を観察していたが、やがて自分の席へ着き用意されていた食事を食べ始めた。

「あ、大吉さん行ってきましたよ」

 食事を終えた大吉が、食堂を出ようとしたところへ遣いに出していた中が戻った。

「丁度いいからお前ぇチョッ来い」

「な、何ですかアタシ食事が……」

 厨房にも声は聞こえたはずだが、小吉は黙々と作業を続けた……。


 大吉は、連れ出した中に問うてみた。

「小吉のことなんだが……最近どうだ?」

「それは、小池さんの方が詳しいですよ」

「あの婆ぁ様は不都合が無けりゃ何も言っゃこねぇ。って事は小吉の奴が過不足無く働いてるのはわかってる」

「じゃあ、何でアタシに?」

「例の件を知ってるのが俺とお前ぇさんだけだからに決まってるじゃねぇか」

 例の件とは、先月の自分の誕生日に小吉が彼女にふられたことだ。愛しの彼女のために金を稼ぎにきた男が、わずか二ヶ月で目標を失うのは辛いだろう。

 大吉は、そんな繊細な青少年の扱いにほとほと、困り果てていた。

「あ、成程。アタシも先月までより別行動が多いから報告するようなことは……ただ、」

「何だ? 言ってみろ」

「ただ、前までのように一々騒がなくったのがツマラないんです」

 大吉は、ため息混じりに頭を掻く。

「大人になりゃ寡黙になる奴もいるが、あいつの場合は違うよなぁ……」

「今の小吉君の目って……釣りげて三日経ったの魚の目だと思いません?」

「違ぇねぇ……ベソベソ泣いていた方がよっぽどアイツらしいってもんだ」

 大吉は思う。いっそヘマの一つでもしてくれたらゲンコツの一撃で小吉の目を覚まさせてやるのだが……と。

「中ぅ、今度の休みを小吉と合わせてやるから気分転換にどっかへ連れて行ってやれ」

「えーッ! 何でアタシが?」

「そらお前ぇ……お前ぇら二人で一人前なんだからそれくらいは面倒を見てやってだな……って何だよ」

 中の表情が急に意地悪くなった。大吉は悪寒をおぼえて言葉を引っ込める。

「アタシ知ってるんですよぉ……飯場の連中を集めて大吉さんがやってた賭け事」

「なッ……」

「小吉少年が何日で免許を持って帰ってくるか……一人勝ちだったんですって?」

 女は怖い。本ッ当に怖ろしい。中は、必要になるまで大吉を泳がせていたことになる。

 罵倒が喉まで出かかったが、大吉は、その賭け事で小吉の免許取得の為の金をほぼ回収していた。おまけにあの出費は正式な経費として落ちるはずだ。

「この野郎ぉ……伊藤先生お二人様だ。文句あるめぇコンチキショウ」

 大吉の言う伊藤先生とは、伊藤博文の事で千円の紙幣に印刷されていた。珈琲一杯六〇円、映画を観ても一人二〇〇円の時代だ。若い二人が一日遊んでも遣い切れるような金額ではない。

「いやったぁ! アタシ頑張りますッ!」

 受け取った紙幣を胸に押し抱き、中が嬉しそうに小躍りする。

 それを睨むように見ていた大吉だが、最後の最後には口元が緩んでいた。


十四

 ある夜、大吉が報告書を携えて事務所へ行くとバツが悪そうに矢島が待っていた。

「なんだよ。まだみつからねぇのか?」

 矢島は所謂、人繰りだ。スカウトマンと言えば聞こえはいいが、業種に見合った人間を会社や下請けの親方に紹介して金を稼ぐ割りとグレーな職業だ。

「大吉さんだってわかってるクセにぃ。今の世ん中、建設ラッシュだ。有資格者は引く手あまたなんですよぅ」

「馬鹿! 口動かす前に手足を動かせ! 特に足を」

 建設現場で働く作業員は、季節労働者がその大半を占めてはいるので一定期間、まとまった労働力を担保できるが病気や怪我などの欠員は日常的に起こる。矢島のような人間が欠かせないのはその為だ。

「大小あわせて七〇台以上の特殊車両が工事現場で動いてんだ。要のトラック乗りに欠員出すわけにいかんだろう」

「ひえっ! わかってますよッ」

 ゴツイ体躯の矢島だが、大吉には滅法弱い。弱いが、無い袖は振れないのも道理だ。大吉もそれは承知している。だから困るのだ。

『中の奴を乗せてみるか……』

 三ヶ月は試用期間と思っていた大吉だが……二、三日のうちに矢島の方で人が確保できないなら……と。

「大吉さん……ちょっといいですか?」

 眉根を寄せて悩む大吉を訪ねて事務所に中が現れた。小吉絡みとは思うが今度は何だと無性に腹が立った。

「ごめんなさい……大吉さん」

 小さく謝って中が差し出したのは、先日、渡した遊行費だった。

「何でェ……どういうこった?」

「ここ数日、手を変え品を変え小吉君を誘ったんですけど予定があるの一点張りで……」

「あの野郎……俺ァもう知らなぇぞ」

 奥歯の隙間から搾り出すような声で呟くと大吉は、報告書を所長の机に放り投げ大股で事務所を出て行った。


 昨日はついカッとなったが、大吉とて小吉は気になる。朝夕、食堂に入ればどうしても厨房を首を伸ばして覗きたくなるのだ。

「末吉さんも案外と過保護だねぇ」

 厨房を預かる小池さんは、茶目っ気大盛りでわざと大吉の背後から声をかけた。

 大吉の方は、饅頭を喉に詰まらせた供物泥棒のように目を白黒させている。

「ククク……小吉くんね、もう大丈夫よ」

「え?婆ぁさん、そら本当かい? なぁ、小池さんよぉ」

「これでも焼夷弾が落ちる中、五人の子供を育ててきたんだ。アタシャ保証するよ」

 普段は小言のわずらわしい厨房の主だかこうゆう物言いは、説得力もあり大吉は、勇気づけられた。

「ところで小池さんよぉ、ちょいと相談があるんだが……いいかね?」

「何よ、さっきっから『さん』って気色の悪い……」

 平常心に戻った大吉に小池もさっそくやり返す。食堂は、賑わっていて二人の会話を気にする者は誰もいない。

 小池さんの方が一瞬表情を曇らせたが、大吉が両手で拝んで見せると一瞬の後、破顔する……そんな会話だったが、配膳に忙殺されつつある小吉はそれを知る由も無い。


 その後、人づてに中を呼びつけた大吉だが、現れた彼女の心もとなさそうな態度に思わず笑いそうになった。

「……やっぱり、アタシが女としての魅力が無かったんでしょうか」

 背丈のない中が、この時ばかりは二回りほど縮こまっていた。

 大吉の方は、笑いを堪えるのに精一杯で不自然に口角が上がった笑顔になる。

「その話じゃあねぇよ」

「……えっ?」

「中ぅ、急な話だけどな……ダンプに乗れ」

 あまり動じない中だが、この時ばかりは天にも届けと驚きの声をあげた。


十五

 翌日、小吉は大吉の運転する一〇tトラックの助手席に乗っていた。これは当時、公道を走行できるトラックの最大級に相当する。

「きょ、今日はダンプじゃないんですね」

 小吉が、ソワソワと車内を見回す。考えてみたら大吉の運転で小吉は助手席に乗った記憶が無かった。

「ダンプと街中を走れるトラックくれぇは見分けがつくようになったか免許持ち」

 短い言葉は交わしていたものの「対話」が途絶えて久しかった二人の会話は、どことなくぎこちない。

「や、やめてくださいよ大吉さん」

 ひとしきり笑った大吉が言う。

「大体、ダンプに積む砕石物なら荷台を傾けりゃ勝手に転がり落ちるんだからお前ぇさんの手伝いなんかいらねぇよ」

「資材の荷あげでしょ?わかってますよ。中さんじゃ、頼りないですものね」

「馬ぁ鹿、荷おろしもだ」

 勘弁しろとばかりに『うへぇ』と小吉が呟いてから暫く会話が止まった。車内に流れるのは、大吉が滑るように走らせるトラックの走行音と元祖メロディーロードの奏でる短く定期的な路面段差を踏む音だけになった。

 ここで大吉が切り出した。

「お前ぇさん……もう大丈夫なのか?」

「えっ? あぁ……」

「はっきりしろい!」

 大吉がチラと横目で盗み見ると小吉は、ロダンの彫刻「考える人」の格好でいた。しかし、ここで訪ねなければ小吉を連れ出した意味が無くなる。

「まぁ……そうてすね大丈夫ですよ。ご迷惑をおかけしました」

「馬鹿野郎! 迷惑だなんてイツ言ったよ」

「あ……はぁ」

 ちょっとした沈黙の後、大吉は再び切り出す。

「……で、どうすんだよ?」

「どうするって?」

 質問を質問で返されてしまい、大して口の上手くない大吉も言葉に詰まる。

 空気というか、そんなものを察して小吉から言葉が漏れた。

「どうも何も……今まで通りですよ。お世話になります」

「そ、そうか……」

 思えば、小さな荷物一つで現れた小吉だ。貯金などあるはずも無く気持ちを切り替える以外の方法は無かったのだろう……というのが、大吉が精一杯思考を巡らせた結論だった。

「金を溜めたら資格を取ろうと思います……何の資格かとか、決めてませんが、稼いで資格を取ってまた稼いで……た、楽しみです」

「ちょ、お前ぇ」

 運転の合間に大吉がチラと見れば、小沢吉美はボロボロと涙を流していた。

「……おい、目から鼻水を垂らすな。現場に着いたら真先に便所に行って来い」

 精一杯の言葉をかける大吉だが女々しい小吉は、大粒の涙を止めることができなくて『切ないッス』を繰り返す。

「うるせぇ馬鹿! 知らねぇヨ」

 終いには、大吉が怒鳴りだし今までの鬱憤を晴らすように無茶苦茶な説教が始まる。


 大吉たちが現場に戻ると『牽引車が間に合わない』だの『トラッククレーンじゃ絶対無理だ』など何やら周囲が騒がしい。

「おい! 何があった?」

 大吉が大きな声で訪ねると作業員の一人が叫ぶように言葉を返す。

「事故ですよ! 例の女の子が……」

 それだけ聞くと大吉は、走り出す。小吉の襟首をガッチリと引っ掴んで。

「だだだ、大吉さ……ンガッ!」

「舌を噛むぞ! 中のとこへ急ぐんだ!」

 一テンポ遅い大吉の忠告に小吉が減らない口をたたき返す。

「行って何ができるって言う……ンガッ」

 今度は、いつものように殴られる。

「引っ張るんなら俺の馬鹿でかいダンプの他に何があるってんだ」

「あっ……」

 小吉は、思い出した。五島が誇る、そして不二さんたちと整備場で組み上げを見学した巨大なダンプの雄姿を……。

 合点のいった小吉が自ら走り始める。この時代、トルクと登坂力に特化した最強のダンプに向かって全力疾走で……。


十六

 ……そんな昔の話を小沢吉美は、自宅の縁側で思い出していた。この後にも『吉川中の酒乱事件』やら『大吉の隠し子』『人命救助で決死の渡河』『中年、矢島の最後の恋』などの日常を現場で体験して小吉こと小沢吉美は、儀理と人情と男気と、汗と涙と青春を混ぜ込んで建設業に首まで浸かる。その間、年々積載量が増して巨大化するダンプと共に生きてきたのだ……。

 ガチャリと玄関の開く音がする。

『小吉君ただいまー。あらあら、縁側で珍しく黄昏ているじゃない……』

 長年連れ添ってきた小吉の女房殿が戻ってきた。そのあとは愛娘夫婦からの……いや、娘婿からの四角四面な手紙を肴に酒も無いのに盛り上がる。 

 昔話は、霧散したのでまたいずれ……。


〔おしまい〕

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ダンプ野郎のrock 'n' roll s286 @s286

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