三章 ふたりきり、逃亡の一夜
天剣峯は氷竜山脈を構成する山のひとつだ。
ユーリアはその山道を登りながら、ずっと先を行くヴァルディールの背をまぶしげに見やった。
「ヴァルディールさま、馬に乗れたんですね」
つい失礼なことを口走った。あわてて「王都でも
「それはもちろん、馬くらいは貴族のたしなみってやつだよ。それに外に出なくてもお体は
たしかに! と思いながら、あらためて前方をながめた。
巡幸礼におもむくヴァルディールの行列は、ユーリアのいる
オーバーラント公を示す『山脈と氷竜』の旗が
正装に身をつつみ、まっすぐに前を見すえた堂々たる騎乗姿は、優美でありながら
ヴァルディールを警護する『白銀の騎士団』もまた、モールや
ただし、ヴァルディールより一回り小さい馬にまたがる騎士団長エルンストをのぞき、かれらは徒歩だった。山道をぞろぞろと騎馬隊が登るのは、それこそなにかが起きたときに危険だからだ。
ヴァルディールと騎士団を前と後ろから
ユーリアたち最後方は、従僕やメイド、
「最初はクライデック神殿か。このようすなら昼まえには着くな。天気がよくてよかった」
「そうですね。これが続けばいいんですけど」
巡幸礼は中止どころか延期にも代理にもならなかった。
ヴァルディールが意識を取り
顔を
「ほら、そんな顔しない。無理をさせてるんじゃないかとは僕も思うけど、困難なルートを通るわけじゃないし、高山病の
医師もいるし薬もあるし、とシモンは言う。
そうですねとは
ユーリアが望むのは、〝島流し王子〟がきちんと領主としての務めを果たしてくれること。ヴァルディールにも言ったが、死んでほしいわけではない。
生きて、オーバーラントの主として
(そう、もう二度とあんな恐ろしいことが起こらないように……)
ぼんやり考えながら山を見上げていると、「そういえば」とシモンが切りだした。
「きみ、ヒンギス神官長とやりあったんだって?」
「え? ……ああ、あれはやりあったというわけではなくて」
あわてて否定したけれど、たしかに〝やりあった〟のかもしれないとも思う。
「ガレ・ウーリ族たちが
ユーリアは
「……たぶん彼らのイメージとは、すこしちがいます。ヒンギスさまの文書におかしな点があったので、そのことで」
ユーリアはちょうどいい機会だと思い、ヒンギスの文書にあった二種類の
「ここは
整備計画が出されたのは、ユーリアが
「それと
寒がりのヴァルディールを
しかしこちらは予算が足りなかったのか、城の宝物庫にあった女性ものの
「それで、ヒンギスさまはなんて?」
「わけのわからないいちゃもんをつけるな、決裁がすんでいるのだからさっさと処理しろ、と」
「なるほど、筆跡の件もご存じだってわけか」
こういう不可解な金が動くときは利権がからんでいることが多い。もしかしたら、ヒンギスは
「それでどうしたの?」
「どうにもできませんでした。ヒンギスさまが、ご自分で処理すると言って書類を持っていかれましたので」
「ふうん。ふたつの筆跡、とん挫した避暑地計画に、やたら多い薪かぁ」
シモンはうなった。
ユーリアは天剣峯のはるかなる頂を見上げた。氷河におおわれた、ましろの頂。
オーバーラントの夏は短い。これからすぐに秋が
こんなのんびりしている場合じゃない。ユーリアは自分を
(冬がくる前に、ヴァルディールさまにはご自身の責務をわかっていただかないと)
冬は恐ろしい。とくに放牧にたよる高地民族にとって、ほんのささいな天候不順が死をまねく。
ユーリアの
そして
氷河を割った深い深いクレバスからあふれる
どっとあぶら
「ユーリア、きみだいじょうぶ?」
「だいじょうぶです。ちょっと、暑くなってきちゃって」
あたたかくて、気持ちがいい。ほんとうは指先まで
丸投げなんて許されない。城代であるヒンギスに任せきりにしているから、こういうことになる。
税を納める人々が、税によって守られる。その正しいかたちを整えるには、責任を受け止めたヴァルディールがしっかりと領政と向き合うしかない。
彼は先代のように
(この、ぼんくら〝島流し王子〟。しっかりしなさいよ)
ユーリアはヴァルディールの背中をにらみつけた。
四つの
まるでサファイアブルーの
「むずかしい顔をしてるね。なにか問題でも?」
体があたたまってきたのか
「ちょっと、列が間延びしすぎだとは思いませんか?」
いまもまだ空は
「ああ、神官たちはもとから体力がないから、
シモンが声を上げ、前を歩く神官たちに列を
けれどいくら詰めても、
「私のせいかもしれません。けさ、天気がくずれそうだと報告したので……」
夏とはいえ、山の朝は冷え込むものだ。それがけさは生暖かさを感じるくらいで、山風も逆から
「それで急いでいるのか。まあ、神官たちが遅れたところで、ヴァルディールさまの身辺警護には問題はないけど」
ふたりが話していると、なにやら前方の神官たちが空を指さして見上げはじめた。楽しそうなその表情につられてユーリアも空を見上げ、ぎょっとした。
──
ユーリアの行動は早かった。
レイックスに積まれた荷の
「ユーリア!」
「天気が急変します! シモンさんは神官たちに外套の用意をさせてください! 私はツヴィングリー
「わかった!」
雨? こんなに天気がいいのに? といぶかしげにする神官たちとちがい、シモンの返答ははやくて助かった。朝の虹は天気急変の予兆だ。すぐに雨が降る。
(このさきしばらくは急な
ユーリアはレイックスの
「おまえを連れてきてよかった」
ソリで
「ツヴィングリー卿、あと一刻足らずで雨が降ります! いちど神殿へ引きかえすことを提案します!」
「全体、止まれぇ!!」
エルンストの号令とともに
「
「はい。騎乗のままで失礼します。おりたら私の足では滑落してしまうので」
「ああ、そのままでかまわない。──その方が確実に
は? と問いかえそうとした声は、かき消されることとなった。
エルンストが騎士たちへと向きなおり、
「全体、斜面
わあっと騎士たちの声が上がり、
事態を一瞬のみこめなかったユーリアは、やや後方、大岩の陰から駆けおりてくる武装した男たちをみつけて
(襲撃!? いったい、なんで……)
ぎゅっと胃が縮みあがった。
さすがの反応を見せた『白銀の騎士団』とちがい、神官や使用人たちはせまい山道を押し合いへし合い、逃げ出そうと
(まずい、このままだと滑落者が出てしまう!)
ユーリアは、まず退路を
まるでそこだけ時間の流れがちがうかのように、ゆっくりと目には映った。
護衛の騎士たちがヴァルディールをかばうように守り、
だれもが斜面の上ばかりに気を取られている、その陰に。
馬上のヴァルディールの手を引き、バランスを
「ヴァルディールさま!!」
考える
暗殺者の背を
「自力でお
自分でも
「矢が来ます、落石も! そのまま頭を下げてお摑まりください!」
返事を待たず、ユーリアはヴァルディールを乗せたまま、レイックスを全力で駆けさせた。
続きは本編でお楽しみください。
氷竜王と六花の姫/小野はるか 角川ビーンズ文庫 @beans
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