二章 いまだ消えない寵姫のうわさ_4



 その後ヴァルディールはすっかり回復し、ふたたび書斎までは足を運ぶようになった。

 けれど一向にしつ室をおとずれる気配がない。ユーリアはくやしさにふるえていた。やはりあのときがゆいいつ絶好のチャンスだったのだ。医師を同席させたうえで朝までこんこんと説教すればよかった。

 悔しいと思うもう一つは、エルンストにある。あれ以来ヴァルディールとともに書斎にこもっているのだ。

 もともと彼はきんねた護衛だから、それは本来のあるべき姿だけれど、シモンがこそっと言っていた。エルンストがずっと執務室でダラダラしていたのは、どうやら警護のいつかんだったようだ、と。

 ようするに、この部屋にはかぎがおりているとはいえ書斎へつづくとびらがあり、そこで働くユーリアとシモンのふたりを危険視して見張っていたのではないかというのだ。それがしように今もべつのが部屋のすみにかげのごとく立っていた。

 なんて心外な、と思う。暗殺する気があるなら、お成り道でまみえたときにブスリとやっている。

 しかも、だ。それらのいらちや悔しさを逆なでするかのように、やたらと主張の強いヴァイオリンの音色がひびいてくるのだ。ゆうでもなんでもなく、ほんと、やたら主張が強い。

 音源がしよさいなのも、よけいに腹がたつ。なんでもヴァルディール殿でんはさいきんヴァイオリンにハマりだしたそうな。

 さきほどヒンギスのいる神殿まで往復してきたが、外にまで聞こえていてびっくりした。神官たちは「すてきな演奏で」などと口走っていたが、お世辞を抜きにするとみみざわりだからぜひともどっか遠くでやってほしいとしか言えそうにない。いやその前に執務はどうした!

 ああもう、と頭をかきながら書類に目を通していたユーリアは、ふとその手を止めた。

 ヴァイオリンのいてくれ、聴いてくれ、という主張に集中を乱されて仕事が進まず、一枚の書類をなんどもなんども目でたどっていた時だった。

 内容がぜんぜん頭に入ってこないかわりに、まったく関係のないことに目が留まったのだ。

よごれ? ……ちがう。あ、こっちにもある。こっちも。ヒンギスさまのこれ、くせかしら)

 神官長ヒンギスの文書には、サラサラとりゆうれいな字でサインをしたあと、「よし終わった!」とでもいうような、ポンッとペン先を置いた小さな小さなあとが見られるのだ。

 だがそれがあるものと、ないものとがある。

 はじめはただの気分のちがいによるものかと思った。くせだって毎回かならず出るものとは限らない。

 ところがそれをきっかけにして、よくよくそれがあるものとないものとを見比べてみると、そのふたつではひつせきにもみようなちがいがあることに気がついた。

(どういうこと……? だれかがヒンギスさまの筆跡をまねして、公文書の決裁をしている?)

 それは許されざることだ。だが、同時に妙だとも思った。

 公文書をヒンギスから受けとるさい、ユーリアはかならず件数と内容を口頭でかくにんしていた。

 さっとではあるものの、まったくの他人が決裁したものが交じっていたら、ヒンギスだって気がつくのではないだろうか。

(ヒンギスさまも承知のうえだっていうこと? だれかに手伝ってもらってるとか?)

 しかし『城代』としての権限をあたえられているのはヒンギスひとりだ。だれかが手伝ったにしても、最後に確認のうえサインをするのはヒンギス自身でなくてはならない。

 どういうことだろう。しよくにつながるものだろうか。そういえば、神殿への臨時給付金の承認をしていたのもヒンギスだ。

(……まさか)

「お、どうやらヴァイオリンの独奏会が終わったみたいだね」

 ヴァイオリンの音がやむと、やれやれと言いたげにシモンが机から顔を上げた。どうやら彼もこのごしゆにたいへんめいわくしていたらしい。

「はい失礼ー」

 とつぜん内扉が開き、そこからエルンストがやってきた。かと思うと、ぴらりと一枚の紙を取りだした。

「これ、ふたりで目を通して、終わったらだんで焼くように」

 受けとり、いぶかしそうに目を通したシモンの顔がおどろきに染まった。なにごとだろうとユーリアも席を立ち、シモンの手元をのぞきこむ。

「──うそ、でしょう? 中止ではないの?」

 そこに書かれていたのは、じゆんこうれいの日程と警備計画だった。





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