二章 いまだ消えない寵姫のうわさ_3
ヴァルディールの寝室は
「遅かったな。もっとそばへ来よ」
まだ体調がととのわないのか、気だるい声だった。
寝室には、ユーリアとヴァルディールのふたりきり。ふざけたことに、ユーリアが寝室へと足を
そのときの「俺って気がきく!」とでもいわんばかりのさわやかな笑顔を思いだし、ユーリアはこぶしをにぎりしめた。あとで見ていろ。
ユーリアはそばへという命令をしれっと無視して、寝台から四歩
「公の寝室をお訪ねするのにふさわしいよう
暗殺未遂という現実を
「あわせて、今回の件、まるでお役にたてなかったことをお
となりの部屋にいたのに、気がつかなかった。内扉からヴァルディールがあらわれたときも、顔色の悪さに気がつきながら、すぐに医師を手配できなかった。
ユーリアが謝罪すると、ヴァルディールは弱々しく
「おぬしは
「はい。眉間のシワは、
「
むっ、とユーリアの眉間のシワはさらに深くなった。
「うわさをご存じだったのですね。でしたらなぜ否定してくださらないのです。ヴァルディールさまにとっても
「なるほど。だから男装か」
ヴァルディールはあらためてユーリアの服をながめた。地味なダークグレーの上下は城の衛兵の制服──ユーリアにとって、これこそが〝ふさわしい着替え〟だった。
「ここに来るところをうっかりだれかに
火のないところにたっているうわさに、
ところが、てっきり「そうだな」と同意が返ってくると思っていたのに、ヴァルディールは不満顔で毛布を……ではなく、毛布のようにのしかかっている
「気にいらぬな。周囲はうらやんでいるというのに、当のおぬしはなぜそのように
「思いません」
「……なんとかわいくない」
「はい。かわいくない女がうわさだけでも寵姫ではご迷惑極まりないでしょう。心が痛みます」
自分がたてたうわさではないが、申しわけない。そう思って言ったのに、ヴァルディールのご機嫌はかんぜんに
「このようなあしらいをされたのははじめてだ」
「ええと、では以後気をつけます……。それよりも、公。私にどのような
エルンストは元気だから寝室に呼んだんだろうなどと言っていたが、どうみても回復していないのはあきらかだった。そのうえで呼びつけたのだから、よほど急で大事な用件があるのだろう。
少し
「またの機会にせよ、と言ったであろう。それが今だ。存分に時間を取らす。話すがよい」
は、と返事をしたものの、なんのこっちゃとユーリアはしばし考えた。
ヴァルディールのさあ、さあ、という視線を受けながら
「今、ですか?」
正直なところ、待ちに待った機会だった。
そもそもはお成り道で書状を
──だが。
「どうした、なにを悩んでいる?」
「……申しあげたいことがあまりにもたくさんありすぎて、夜を
考えた末にそう口にすると、ヴァルディールは
「なるほど。朝帰りともなれば、『
「そうではありません!」
ぴしゃり、と否定すると、ヴァルディールは驚いたようにユーリアを見上げた。
「お体のご心配を申しあげているのです!
さらにヴァルディールの目が丸くなる。そんなに心配されたのが意外なのか。私は
「私とて正直なところ、つらつらと申しあげたいことは山ほどございます。ご存じですか? オーバーラントの領民は税を
(あのときも、そうだった……!)
恐ろしい記憶に
がり、という
「いったい、なんのための税でしょう? 〝島流し王子〟とそこに取りいるクソどものための血税ですか? 私はそれを変えたくて、あの日、あなたの行列のまえに立ったのです」
代々の〝島流し王子〟は、領民を向いていない。それはこの城が証明しているように見える。
まるで王都クレモリッツの王宮を
城での暮らしもそうだ。王宮での
彼らの心情もわからなくはない。
華やかな水の都クレモリッツを、みずからの意思にまるで関係なく追われ、おいやられたのが貧しい辺境のオーバーラントだ。
だが、だからといって、領民は無視されたままで許されるのだろうか。
「いまでも、その気持ちは変わりません。ですから、
ユーリアは一度ゆっくりと息をついた。
感情に任せてまくしたてたが、驚くべきことに、ヴァルディールはその間ひと言も口をはさまず、ただ静かにユーリアの話に耳をかたむけていた。
「とはいえ、ですね。あなたの死を望んでいるわけではありません。まずは
「──まて」
礼をとり、部屋を出ようとしたところで、呼び止められた。
なんでしょう、と問おうとした声は、行きどころをなくして消えた。
「ヴァ、ヴァルディールさま……?」
ふり返ろうとするのと同時に、おもいっきり引っぱられる。
(なっ!?)
頭がパニックになった。反射的に足をふんばる。
「────あ」
ヴァルディールは逆に引きずられ、寝台からずり落ちかけていた。
「…………落ちてケガをしたらどうする。おぬしも支えよ」
「いやです」
全力拒否した瞬間、白狼がくわえていた夜着を
ヴァルディールをとっさに引っぱりあげて支えると、そのままユーリアの
熱っぽいヴァルディールの体温、そして
「ひいぃっ!」
「なんだ、その悲鳴は。もっと色めいた反応はできぬのか。
なんつう命令だ。ユーリアはずりずりとヴァルディールを運び、なんとか寝台に寝かし直す。
「もうっ、
そして治ったら説教を受け入れてさっさと仕事をしてほしい。
「もしや、おぬし男
「そ、そんなことはありません……と、思いますが」
歯切れ悪く言うと、はっきりせよと
「男の人には、あまりいい思い出がありません」
男と聞いてはじめに思い浮かべるのは、集落でユーリアを「やーい女装男!」とはやす男の子たちだ。あとは「デカー」とか「カマー」とか言われた気がする。許すまじ。
「男と言えば、たいがい
「…………ずいぶん子どもの
おぬしいったい何歳なのだと言わんばかりの生温かい目を向けられて、うっと
「でも、恋をしたことがないわけではないです」
「ほう?」
「すてきな男の子に会ったことがあります。とてもやさしくて、
そしてさみしそうに笑う
「ツェルトの子どもか?」
「いえ。子どもの頃、ひと冬だけ集落にいた他族の少年です。『兄さま』と呼んで
血は
背がすらりと高いのが『大兄さま』。小柄で、やつれているといえるほどにやせぎすだったのが初恋の相手、『兄さま』だ。
思いだすと、いまでもほっこりと胸があたたかい。顔も名前も覚えていないのに、ふしぎなくらい。
「だから男嫌いというわけではないのだ、とは思います。たぶん」
「ではその話を
ヴァルディールはにやりと笑ってとんでもないことを言う。いやいや、だれが好き好んでそんな恥ずかしいことをするものか。
ユーリアは一方的に折り目正しく辞去のあいさつを述べ、あとは聞こえないふりで寝室を後にした。
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