戮 我即ち人に非ず
血が、溢れていた。
自分のものではない。
大葉が、碧川が、木乃香が、知り合った人たちが。仲間たちが倒れ伏している下から、血が溢れて赤に染まっていく。
そのうつろな眼窩は椚に向いて、恨めしそうな表情で――
「ち、俺としたことが」
椚はひとつ毒づいた。
自分以外で立っているのは、今までに椚が戦った最強の妖魔だけ。
「どうしたもんかね」
表情のない顔で刃をこちらに向けるミタチに、椚は語り掛けた。
しかし、ミタチは答えない。大葉たちを一刀のもとに斬り伏せた刃は血に塗れ、今にもそれを椚に突き立てようとしている。
椚は動かない。体が動かないのだ。
「なるほど、こうやって人の心を攻めるわけか」
それにしても、と溜息をひとつ。
見える範囲には知り合った人々の骸が山のように積み上がっている。ところが。
「この中に親父とおふくろの顔がねえってのは、やっぱり大事に想えていないって証拠なのかねえ」
癸亥山で今も修業を続けているはずの、父母の姿はそこにはなかった。
両親がいつ、癸亥山で修業を始めたのかを聞いたことはない。しかし、少なくとも椚が生まれた時には修行者であったという。
椚は物心つく前から両親とは引き離され、癸亥山の子として育てられた。
両親が誰であるかを知ったのは興味本位で調べたからであり、愛情に飢えていたからではなかった。
椚にとって家族とは癸亥山で共に育った同年代の者たちと、師匠である陸杉大将や樟大老師を始めとした仙人たちだけである。
「趣味が悪いな、獏よ」
声を上げても答えはない。ミタチも感情のない表情のままに椚に向かって歩を進めてくる。
「やれやれ、面倒くせえ」
椚は意識を集中した。動けないが、だが右手に掴んでいるものの存在感だけは、先ほどから変わらず残っている。
ミタチが刃を振りかぶった。椚は右手だけに意識を集中する。
躊躇なく振り下ろされた刃は、椚を脳天から真っ二つにしようと――
「ぐぶっ」
――したところで、ミタチの体がくの字に折れる。
刃は椚の目の前をかすめて通り過ぎていった。
同時に、体が自由を取り戻す。
「まったく、俺としたことが幻術にかかるとはな。まだまだ修行不足ということかねえ」
「な、何故だ」
ミタチの口から疑問の言葉が漏れる。しかし、その声はいつも聞いている美声ではなく、低くかすれたものだった。
椚の手には、いつの間にか仙樹棍が握られている。その先端に腹部を打ち抜かれたミタチの姿が、徐々に獏の姿と被って映る。
「我の術は完璧である! 現実と夢幻の境界は曖昧となり、疑うことも抗うこともできないはずだ!」
「完璧じゃあねえんだな、これが」
椚は平然と首を振った。
倒れている仲間たちの姿は少しずつ薄れていく。
「わ、我の姿は、貴様が最も残虐であると信じる者の姿である! 何故だ、何故貴様の意識はそれを拒める!?」
「ああ、
「ならば何故⁉」
「矛盾はなあ、こっちの死んでる連中だ。俺の大事に想っているやつらを並べたんだろうが、ひとりだけ、こうして転がっているはずがないやつがいるんだ」
「何?」
「大葉、つってな。才能はあるんだが不器用で、まだまだ未熟者ではあるんだがよう」
大葉が体を断ち斬られている姿は、違和感の塊であったのだ。
「死なないんだわ、こいつ。外傷の類では絶対に死なない」
「馬鹿な、そんな人間、いるはずが――」
「すべての臓腑から筋肉から、大葉の体は鉄より硬く、それでいて柔軟だ。そういう術式だけを鍛えに鍛えた。たとえ御太刀の刃であっても、絶対に斬れない。俺はその点については一切の疑念なくそう信じている」
何しろ、まだ未熟であると断じつつも、陸杉大将が送り出したのだ。たとえ酸の雨が降り、灼熱の炎に焼かれても。大葉は傷ひとつつけられることなく椚の封を解き放てると、そう信じられていたからだ。
ミタチに勝てる力はなくても、決してミタチに殺されることはないというのが大葉という男だ。
癸亥山の仙人たちがいなかったのは、さすがに矛盾が過ぎるからだろう。彼らはミタチを独力で討ち果たせる。
「な、ならばもう一度!」
「させるわけがねえだろう」
辺りは完全な闇に包まれていた。仲間たちの姿は既に消え、椚と獏の姿だけが奇妙に浮き上がって見えている。
獏の仕業か、あるいは椚の意識の一部がまだ侵食されているのか。
「く、くぅっ!」
焦った様子の獏がその姿を変える。記憶の片隅に残っていた母の顔になった獏を椚は全力で叩き伏せた。
「ぎゃあっ!」
「この場に絶対いるはずがない奴の顔をされてもな」
「馬鹿な、馬鹿な馬鹿な! 母を、母の顔をした者を平然と打ち据えるなど」
「修行中には何度もしたしな」
親と子の間柄だと知る前から、実戦形式の修行で何度となく父母とは打ち合ったことがある。
むしろ今の椚の一撃を避けることも防ぐこともできないような修行者は、癸亥山にはいない。
とは言え、この一撃で倒せないとなると、やはりこの獏は中々に強力な個体だ。
「ま、待て仙人!」
追撃を加えようとしたところで、堪らず獏が声をかけてきた。
「我は人を殺しているわけではない! 夢を現実にして、その湧き上がる夢を食べているだけではないか! 我は貴様に殺される
「あの腕輪を使ったやつについてはまあ、いいさ。だが、そいつらが満足な大きさになるために巻き込んだ人々は、お前に利用される必要などない人々だった」
「お、お前だって人食いの妖魔を飼っているではないか!」
獏は言いながら後ずさる。椚はゆっくりとそれを追う。
飼っているわけでは断じてないのだが、それを言ったところで意味はないだろう。
「人を殺して食う貴様の妖魔と、人を生かして食う我と! どちらが正しい!? 我の方ではないかっ!」
「相手の自由意志を略奪している時点で、そう変わらねえよ」
椚は溜息をひとつついた。自分の所業を棚上げするつもりはないが、妖魔がそこを突っ込んでくるとは思わなかったからだ。
人を食うことは人の視点から見るならば間違いなく悪だが、自然というひとつの現象の中で見るならばそれは決して稀なものではない。
妖魔という生物の本能を、椚は頭から否定するつもりはないのだった。
「な、ならば人はどうなのだ! 自らが食らうものをわざわざ育て、殺し! 食らっているではないか。あれとて自由意志を略奪しているではないかぁ!」
「そりゃあ、そうだな」
獏が驚きに目を見開いた。
まさか自分の言葉を椚が肯定するとは思わなかったのだろう。
そして自分の言葉を相手が受け入れたことで、交渉の余地ありと見たか。一気にまくしたててきた。
「我がしたことは、それと変わらん! 我を否定することは、人の営みをも否定すること! お前たちに我を否定することは出来んのだ! 我を許せ! 感情面から許せぬというならばせめて見逃せ! な、なっ!?」
「うるせえよ」
かなり力を込めて、獏の横っ面を張り飛ばす。
獏はごろごろと転がって、それでもがばりと身を起こした。
「な、何故だ!? 我は、貴様らと――」
「たとえ人がほかの生物を飼育することで、いつか飼育している奴らから報復を受けようと、奴らがそれを受け入れて許していようと」
「ひっ!?」
椚の殺意がまったく変わっていないことに気づいたのだろう、獏がこちらの目を見て悲鳴を上げる。
顔の形は完全に変形していたが、まだまだずいぶんと元気だ。さすがに食べたい放題食べただけあって、タフなものだ。
「お前が人を飼育していい理由にも、俺がお前を許す理由にもならねえよ」
蠢く肉色の壁に手をついて、荒い息を吐く獏。
「理解できない! 貴様は自分たちの行状を棚に上げて、我を否定するのか!」
「瀛州に仙山あり。癸亥山と号す。我が名は椚。癸亥七仙樹がひとつ、不死椚の名を与えられし闘仙なれば」
寿命もなく、人ならざる術を使い。
その存在が人の枠に囚われないというのならば、最早。
「
椚は仙樹棍を持つ手に力を込めた。
獏はなおも言葉を重ねてくる。言葉ではもう決着できないと伝えているつもりなのだが。
「人と妖魔の区別なく。俺は邪智奸計を許さねえよ」
「お前は、お前が飼っている妖魔は――」
「生きているものを見境なく斬り殺すような妖魔よりかはマシだろ?」
椚は笑みを浮かべた。
思えばミタチも随分と丸くなったものだ。少なくとも、目の前にいる獏と残酷さを比較できる程度にまで。
「さあ、そろそろ覚悟を決めるんだな。俺の方針に変わりはない。死に物狂いを見せねえのなら、ここで終わりだ」
椚は仙樹棍を構えた。右肩に担ぐようにすると、まるで椚の意を察しているかのように短く、先端が太く節くれ立つ。
「今のうちに言っておくが痛いぜ。山ひとつ叩き割る威力だからな」
「く、くそっ!」
獏の姿が変貌を始める。
人の体に獣の頭だったものが、全身巨大な獣へと変わっていくのだ。
何本もの脚が絡み合ってわさわさと伸びているさまは、表で見た怪物たちに共通するところがある。
「人では我に勝てない! なぜならば、人の思う最強の姿を、我は取ることができるからだ!」
「俺は別にそんな姿を最強とは思わないぜ?」
「黙れ! これこそは我が最強の姿! 頭から貪り食って、貴様の法力を我が糧にしてやるわっ!」
「――闘仙流奥義」
すでに話を聞く段階は過ぎていた。獏の言葉を聞き流し――そもそも獏の姿は最強とも恐ろしいとも思えなかった――奥義を放つ動作に入る。
椚の全身が脈動する。これまでに鍛えに鍛えた法力と体力を全て込めて、最も無駄なく最速で叩き込むだけのシンプルな一撃。しかし、それこそが。
「破山震天」
振り抜いた全力の一撃が。見上げるほどまで巨大化した獏の突進と、衝突した。
***
「早かったね、タイジュ」
椚が広間に戻ってくると、そこに待っていたのはミタチだった。
「おう。大葉たちは?」
「僧侶が力尽きたからね、先に帰したよ」
「そうか、それは助かった。ありがとよ」
ミタチがその言葉を聞いて、ぶるりと震える。心なしか、顔が赤らんでいる。
なんとなくその様子に心当たりのある椚だったが、確認を先にする。
「弓削はどうした?」
「ああ、そこに落ちてるだろ」
「うぉ」
思わず軽く引いてしまうような、弓削の死体が地面に転がっている。危うく踏んでしまうところだった。
何がどうなったらこうなるのか、腐敗が急速に進行しているせいかよく分からないが、ミタチが上手くやったのだろう。
「自分の呪詛を魂に受けてね」
「ああ」
「口に含んだところで吐き出しちゃったよ。呪われた魂ってまずいんだねえ」
「いや、それは俺には分からねえよ」
特に魂に味があるかどうかなど。
ともあれ、それではミタチの様子に心当たりがなくなる。
みしみしと、屋敷が破滅的な音を立て始めた。
「そしたらとっとと出るか。って、おい?」
「その前に、さ。タイジュぅ」
鼻にかかる声を上げるミタチが、椚の袖を摘まんだ。
「口直ししたいんだ」
「口直し、だぁ?」
「うん。それに、久しぶりにタイジュのその姿を見ていたら、我慢なんて」
言いながら、ミタチが逆の手で服の表をはだけた。
普段は体の一部でもあるその服にしっかりと押さえつけられている、大きなふたつの膨らみがまろびでる。
「お前、もしかしてここでかぁ?」
「もう我慢できないんだよぉ、タイジュぅ」
椚の顔を柔らかい胸元に掻き抱いたミタチが、耳元に囁いてくる。
「ね、タイジュ。相手してくれないと、タイジュの大事なひとたちの魂を食べちゃうよ……?」
「ったく、しょうがねえな」
それが嘘であることは百も承知だったが。そこまで挑発されて応じないのも男が廃る。
椚はミタチの足に腕を回し、軽々と抱え上げるのだった。
ぱらぱらと破片が舞い落ちてくる中、二人の姿は何とも荒々しく絡み合って――
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