陸 妖魔の街、旧宿
杖を持ち上げると、法力の壁が消失する。椚はひとつ息をついた。
周囲を見回すと、怯えた様子の聴衆、落ち着き払った木乃香と大葉、そして痛ましいものを見るような顔でこちらを見る碧川。
碧川が当たり前のようにこちらに歩いてきて、乾いてしまった紫熊童子の傍にしゃがむ。
「南無――」
念仏を唱え始める彼の姿は、やはり神々しいものだった。
椚が紫熊童子から目線を切った、その刹那。
がばりと起き上がった紫熊童子が牙を剥いて、碧川の喉笛に食いつこうと――
「無粋」
――したところで椚の銀杖が紫熊童子の首に叩き込まれた。
そのまま地面に押し付けられる紫熊童子。周囲から悲鳴が上がるが、椚は顔色ひとつ変えずにぼそりと告げる。
「お前の為に唱えられた、お前の為のお経だぜ。心静かに聞くんだな」
そして、その状況を知ってか知らずか。瞳を閉じた碧川は、ただ一心に念仏を唱え続ける。
もはや声も上げられず、紫熊童子の体が端のほうから砕けていく。
それは念仏によるものではなく、椚との戦闘によるダメージなのだが、見ているだけだとまるで御仏の奇跡のように見えなくもない。
「どうぞ、安らかに」
唱え終わった時には、ばらばらに砕けちった欠片が、地面に散乱しているだけだった。これを見ても、元が鬼だったとはだれも思わないだろう。
「お疲れ様、助教」
「来てくれてありがとうございます、椚君。いかがでした?」
「いやあ、中々にスリリングな講演でしたね。でもまあ、説得力はあったんじゃありませんか」
碧川は椚の体が年相応に成長していることにも動じている様子はない。ようやく自分たちが安全になったと理解したらしい聴衆らは、今度は椚の方を見てざわざわと何やら話している。
碧川の目は聴衆ではなく、今もまだ紫熊童子に向けられている。悲しそうな顔なのは、鬼であっても救えるかぎり救うべきだという仏僧としての思いからか。
「救えたかもしれません」
「それはちょっと無理でしょうね」
碧川の呟きを、椚はしかし冷徹に切って捨てた。
「何故ですか! 彼らとて命ある者、きっと」
「ま、その辺りはまたいずれ。今はまず、生きているあちらを安心させましょ」
椚が視線をやれば、そこには怖々とこちらを伺う視線、視線、視線。
取り敢えず落ち着かせた方が良いだろう。左手をかざし、静かに声を上げれば、紫熊童子が投げ捨てたマイクが、ふわふわと空中に浮かんで椚の手元に収まる。今度はおぉ、とどよめきが起きた。
「えぇ、と。国家神秘対策室所管、
ここで感情を昂らせれば、鬼気に反応して鬼に成りやすくなるためだ。
「え、瀛州癸亥山の椚!? ではまさか、あの闘仙殿ですか!」
「あの、というのがどれを指すのかは存じませんが、そう呼ばれておりますね」
仏僧には見えない聴衆の一人が、何やら興奮がちに聞いてくる。落ち着けというのに。
まあ、この程度なら問題ないかと頷くが、今度は見知った顔――碧川の講義を受けている学友たち――が目を輝かせているのが目に付く。
椚は溜息をつくと、大葉に視線を振った。
「大葉ぁ」
「っ!? は、はい! 只今っ!」
マイクがなくても、流石に付き合いが長いだけあって大葉は反応が早かった。
ぴしりとこちらに指を突きつけ、複雑な印を空中に示す。
「禁!」
全身を強い脱力感が襲い、視界が低くなっていく。
一瞬だけ、大地から何本もの鎖が椚の体に巻き付いている光景が誰の目にも映る。
さあっと、鎖が発光し、見ていた者たちの目を焼く。
彼らの目が慣れたころには、椚は普段どおりの小さい身長に戻っていた。
「はぁ」
いつものことだが、この瞬間の憂鬱さはひどい。
何が悲しくて、十九にもなって中学生時分の身長まで縮められなければいけないのか。普段なら大葉にあれこれ抵抗するのだが、今回は学友たちからの質問攻勢を避ける方が大事だ。
ミイラ化して崩れた紫熊童子の、角の部分だけを拾い上げる。
「木乃香ぁ、箒」
「はいっ! 大葉君、これ!」
「了解!」
ぱたぱたと駆けてきた二人が、手際よく箒とちり取りで紫熊童子の残骸を掃き集める。
その間に椚は体を伸ばし、違和感のある体の動きを整える。
「椚様! 完了です!」
「よし、撤収」
最後に、マイクを碧川に手渡して。
椚たちは壇上に上がってそのまま舞台袖に向かう。
自分が質問を投げかけようと互いに牽制し合っていた学友たちが、慌ててこちらに手を振ってくるがもう遅い。
と、立ち去ろうとした椚に、碧川がマイクを使って声をかけてきた。
「椚君」
「はい?」
「君は……君も、私を甘いと思いますか。現実を見ていないと、妖魔を滅するのに役立つ研究をしろと」
「そうですね」
椚は足を止めて、頭を掻いた。
ざわめいていた館内が、静まり返る。
「甘いでしょう。ですが、助教は甘いままでいいんじゃないですか。そのまま変わらず、甘い理想を追い続けるのが良いですよ」
「それは」
「少なくとも、俺は好きですよ。助教の講義」
「っ。ありがとう、椚君」
声を震わせる碧川にぷらぷらと手を振ってから、椚は今度こそその場を立ち去るのだった。この場所はいま碧川の場所であって、仙道が長々と居座ってよい場所ではない。
搬入口から出た一行は、大葉の運転する車に乗って大学を後にしたのだった。
「ほとぼり冷めるまで、しばらく自主休学だなぁ」
***
再び
「何のことだい、御前。俺は依頼された通り、紫熊童子をもう復活できないようにしてきただけだぜ」
そして椚はその謝罪を受け入れなかった。
御前に落ち度はなく、椚は自分の果たすべき仕事を果たしただけだと思っていたからだ。
「それでもね、ボウヤ。形はどうあれ、ボウヤを疑ったのは事実だからさ。それについては謝らせてもらうよ」
「そうかい。御前の気がそれで済むなら」
仕方なしに頷いて、椚は苦笑いを浮かべた。
御前から直接に詫びをもらったなどと聞いたら、神秘対策室のお役人たちは何と言うだろうか。
その辺りの懸念を棚上げして、ひとまず確認をしておく。
「愛熊童女はどうなった?」
御前は牙を剥いて笑う。
「鬼を騙したものは食われる。仲間を騙したものは舌を抜かれる。主君を騙したものは八つ裂きにされる」
「つまりは、全部って事か」
「いや。そうする前に斬妖が寸刻みにしていったよ」
「あら」
あり得る。
ミタチのことだ、一切の呵責なく文字通りの寸刻みにしていったのだろう。
「で、その本人は?」
「ねぐらに戻るってさ。後はボウヤに任せるとか何とか」
「あんにゃろぅ」
ミタチのねぐらの場所は分かっている。しかし、椚は顔をしかめた。
「御前、調べものの方はこのまま頼んで構わないかい?」
「もちろんだよ。分かったら連絡……ああ、そういうことかい」
ようやく御前も椚の表情の理由に察しがついたようだ。
「斬妖のねぐらは旧宿だっけ。ここ以上の無法地帯だっていうね、あの街は」
「
「ああ、そういうことかい。あいつはボウヤを招きたいのか」
「面倒くせえな」
ぼやきながら、椚はこきこきと首を鳴らした。
旧宿に行きたくない理由はいくつかあるのだが、それをここで言っても仕方がない。
「そしたら御前、こいつを」
椚はポケットから、四本の尖った骨状のものを取り出した。
角だ。
「大熊と小熊、紫熊に卑熊の角だ。扱いは御前に任せるよ」
「こりゃ手間だったね。大熊と小熊の角はどうしたんだい?」
「うちの木乃香の趣味だっただけさ。あいつ、鬼の角や鵺の目玉やらを収集するのが好きって変わり者でなあ」
「そりゃ本当に変わり者だね」
「ま、それを没収してきた。何やら仙薬の調合がどうとか騒いでいたけどな」
御前に角を渡すと、御前はそれを平然と握り潰した。
そのまま力を込めれば、指の隙間から粉になった角がさらさらとこぼれ落ちる。
「悪かったね。そこらで飼ってる熊鬼のもので良ければ持って帰るといいさ。あいつらのは時々生え変わるから」
「そいつはどうも」
満足げに笑う御前に、椚はふと紫熊童子の最期を思い出していた。
紫熊童子は自分のことを鬼より怖いなどと言っていたが、御前の方が明らかに怖いと思うのだ。
***
旧宿は完全な無法地帯になっている。
北区と違って完全に隔離されていないのは、人もそれなりに住んでいることと、人食いの妖魔が少ないことが理由だ。
人と取引する程度の社会性を持ち合わせている妖魔たち。しかし、彼らが堂々と棲みついているこの街では、人の法が意味を為さないことも意味していた。
今も――
「ひぃ、助けてくれ! 何でだよ! この街にくれば捕まらないってぇ!?」
「そりゃあ目端の利くやつはそうさ。でもまあ、役に立たないやつらも口を利けなくなるだけで、この街で元気に生きているとも」
「痛っ! やめて、やめてくれよ! 何するんだ、何する気だよぉ!?」
「そうだなあ。両腕と両足は別にいらないから北区の鬼どもに売るだろ? 五臓六腑は医者に売れるんだよな。首から上は好事家に売るか、脳を欲しがっている連中は結構いるし……」
「ヒッ!?」
「おっと、暴れるなよ。生き血だって売り先には困らないんだ、大丈夫だよ、痛みが少ないように解体してやるから」
「助けてくれ! なあ、そこの坊主! 助けてくれ、助けてくれよ! 金なら出すからよう!」
六本腕の妖魔に絡みつかれた男が、血を流しながらこちらに助けを求めてくる。
こういった手合いはどうせ、こちらを妖魔に売り飛ばして自分は逃げようという考えなのだろう。
無視して行こうと思ったところで、妖魔の方が反応してきた。
「おやおや? こいつぁ闘仙のダンナじゃありませんか。こりゃ珍しいですね。ダンナがこの街に顔を出すなんて」
「見覚えがねえが、俺を知ってるのか」
「俺はコンクリ櫓の住人でしてね。三年前に斬妖のやつとダンナがやり合った時に見物していたんでさぁ」
「ああ、櫓の。あの時はこの
「何を仰います。この街じゃ姿形ごときで相手を見誤っているようじゃ生きていけませんや。闘仙のダンナの変わり身なんて可愛いもんです」
「そういうもんかね。じゃあな、旧宿以外でそういうことすんなよ?」
椚は頭を掻きつつそちらに手を挙げて、そのまま立ち去ろうとする。
と、いよいよ泣きが入った血まみれが、こちらに悲鳴じみた声を上げた。
「た、助けてくれるんじゃないのかよ⁉」
「お前、俺をこいつに押し付けて逃げる気だろ?」
「っ⁉」
「やだなあダンナ。ダンナがやめろって言ったらすぐにでもやめますよ?」
「な! なっ⁉ 助けてくれよっ!」
妖魔はにやにやと、青い唇を笑みの形に歪めて言う。
こちらが何を言うのか、想像がついているのだろう。椚は腰を落としもせず、男を見下ろして聞いた。
「お前、なんでこんなところに来たんだ?」
「そ、そりゃ道に迷って」
「じゃあな」
「待て! 待ってくれ! ……強盗、強盗だよ! だから金はあるんだ! なぁ、頼むよ、頼むからさああっ!」
これを逃せば逃げられないと理解したのか、男が正直に吠える。
「警察から逃げる先としてここを選んだのか。確かにここに入ってくる命知らずの刑事は少ねえわな」
「そうだ。それに、知った仲のやつから聞いたんだ。ここならやりたい放題だってな」
「へえ」
「それがこんな、こんなよう! ここは化け物だらけで、くそっ!」
「なあ、櫓の。こいつ、何やらかしたんだ?」
「よくぞ聞いてくれました。食い逃げですよ。しかも、あの『鳳鳴亭』で」
「あぁ」
椚は頬を引きつらせた。鳳鳴亭は旧宿で最も美味い店で、食い逃げはそこで最もやってはいけないことだ。
「鳳鳴亭の大将とは知らない仲じゃないが」
人への商売は道楽だ、と言い張る太鼓腹の料理人の顔を思い浮かべる。
人とのかかわりのなかで美食に目覚めたある妖魔が、妖魔たちに美味い飯を提供するために開いた店が鳳鳴亭だ。
「あそこは金がないって正直に言えばタダで飯を食わせてくれる店だが、食い逃げだけはご法度でなあ」
「そんな! おかしいだろ、そんなのおかしいだろぉ!?」
言いたいことは分かる。だが、物々交換が基本の妖魔だ。銭でやりとりする料理は道楽なので、店主にとって銭は人間向けの食材を仕入れるためだけのものだという。
「だってよぉ、何も言わずに前の客は出て行ったんだぜ? 俺だけじゃないのに、なんで俺ばかり」
「ほう」
「ええ、うちの御大でしょうね。ダンナと一緒で、あそこの支払い免除されている方は多くはないので」
「まあ、その。なんだ」
椚は力なく首を振った。
どちらにしても、妖魔の街でルールを破ったのは確かなのだ。前の客が何も言わずに出たからと言って、自分もそうしていい理由などどこにもない。それは人の街でも変わらない。
「ツイてなかったと諦めるんだな」
「てめぇ! ぐぁっ!」
「はいはい、もう口周りは要らないかなぁ」
妖魔が爪を伸ばし、男の体に突き立てた。
解体が始まるのだ。見物するほど悪趣味ではない椚は、もう一度ぷらぷらと手を振ってその場から足早に歩き去る。
声にならない悲鳴を背に浴びて、旧宿のさらに奥へと向かうのだった。
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