伍 闘仙クヌギは鬼よりこわい
椚の顔を見た紫熊童子は、自分の攻撃を止めた銀杖を掴んで振り払おうとしてきた。が、銀杖はびくともしない。
驚いた顔を見せる紫熊童子に、椚は右側の口角を上げて告げた。
「要らないものは脱いだ方がいいんじゃないか?
「
「
みち、びちと何かが弾けるような音が聞こえてくる。
紫熊童子の形相が変貌を始めていた。客席の方からは椚の名を呼ぶ声。学友たちか。
「この匂い。仙人か、お前」
「ああ」
「仙人が御仏の加護だと? 笑わせる」
「勉強が足りないな。この国には仙人が開いたって寺もあるんだぜ。俺がここにいるのもきっと、御仏の加護だろうさ」
椚は鬼の形相にも一切ひるまず、杖にかかる圧力を防ぎ続ける。
紫熊童子の衣服が内側からの圧力に負けて弾け飛んだ。そして、膨れ上がった筋肉を包む皮が、ひどく突っ張って見える。
「その皮は在津のものかい。徳はねえが祓い師としては上等だったんだがな」
「誰のものかは知らんね。中身はなかなか美味かった。まあいい、お前の胆も踊り食いにしてやるよ」
ばつり、と音を立てて、肌色の皮が破れた。中から紫色の地肌が現れる。
同時に紫熊童子の肉体が見る間に大きくなっていく。客席から声が上がった。
「椚様! 確定取れました、本山からの許可下りてます!」
「おう。やっぱり皮を被ってやがったな、
「準備出来ております!
逃げる様子もなく座っている木乃香と、彼女を守るように立っていた大葉。大葉が椚の言葉に頷いて叫ぶ。
椚もまた、その言葉を受けるや銀杖を振るって紫熊童子を弾き飛ばした。
「さあて、久しぶりに名乗るとしようか。お前はついてるぜ
「
椚の体が光に包まれ、椚自身は全身を覆う心地よい熱量に身を任せる。
みるみる視線の高さが上がり、椚は満足の吐息を漏らしつつ名乗りを上げた。
「瀛州に仙山あり。癸亥山と号す。我が名は椚。癸亥七仙樹がひとつ、不死椚の名を与えられし闘仙なり」
全身に充実する法力を拳に集め、椚は銀杖を地面に突き立てた。刺さったわけでもないのに直立した杖が、紫熊童子と椚の周囲に法力の壁を作る。
「この
「術自慢の仙人ごときが、我等と殴り合おうというのか!」
「そうだよ」
「死んで悔やめ、若造が!」
激昂して振り抜かれた紫熊童子の拳を額で受ける。
微動だにしない椚。
「分かってねえなあ」
「なっ!?」
「お前ごときに術なぞ使う必要がない、って言っているんだよ」
法力を込めた
それだけで鬼の巨体は吹き飛ばされ、法力で作られた壁に激突する。
「うぎぁぁぁぁっ!?」
「ああ、法力だから当たると焼けるぞ。って遅かったか」
椚はすたすたと歩み寄ると、紫熊童子の頬を踏みつけて壁にじっくりと押し付ける。
「あっが、ぎああああっ」
「騒ぐんじゃねえよ。どうせ大して痛みなんて感じねえだろうが」
じゅうじゅうと炙られて苦しげな悲鳴を上げる紫熊童子だったが、椚の言葉にぴたりと声を止めた。
恨めしそうな目でこちらを見てくるが、椚は取り合わない。
「ったく、高僧や仙人の生き胆なんぞ食らったところで、
「試してみなければ、分からないだろう」
「散々試してるじゃねえか。で、不死身にならねえと分かったら徳が足りねえの量が少ねえのと言いやがる。こっちはいい迷惑だ」
吐き捨てると、椚は懐からスマートフォンを取り出した。
「さて、と」
「何を」
「なあに、お前たちの本来の企みを知りたいと思ってな」
通話をスピーカーモードにして、繋げた先は――
『やあタイジュ。私の支度は万端だよ。そちらの様子はどうだい?』
「ああ、悪いな御太刀。こっちも準備できたところだ」
電話口のミタチに応えるが、ミタチは何やら別のことに反応したようだった。
『た、タイジュ!? 声が低いけど、まさか――』
「ああ、ちょっと封を解いたもんでな」
『そりゃあない、そりゃあないよタイジュ! 私がいない時にそんなことを』
「お前は何を言っているんだ。で、御前は? いるなら代わってくれ」
『ここにいるよ。後でじっくり話を聞かせてもらうからね』
ぶちぶちと不平を漏らしながら、ミタチが電話の向こうで誰かに代わる。
『ちょっと、椚のボウヤ! いったい何事だい!?』
「いやあ、済まなかったね御前」
『斬妖のやつはあんたの言いつけだって聞きゃしないし、メグが何をしたって言うんだい!?』
「おっと、
『斬妖に散々追いかけられてね、あたしの後ろで怯えてるよ!』
「ああ、まだ御太刀のやつは斬ってはないんだね、重畳重畳」
『ボウヤ! あんたまで何を!?』
怒号を上げる御前に対し、椚は柔らかい口調で――だが断定的に――告げた。
「御前から聞いてもらってもいいんだけど、
***
日本に存在するという仙境のことであるが、今では
真に才を持つ修行者のみが、異界にあるという癸亥山の総本山を見ることができるというが、実際にそれを見たという者は十指に満たない。
癸亥山の本部、その深奥。
十指に満たない本物の仙人のうちのふたりが、気安い様子で話をしていた。
「まったく、
「そうは言うがのう、杉よ」
豊かな髭を撫でつけながら、柔らかい笑みを浮かべた樟大老師は噛みついてくる同僚の
「あの子は特別じゃよ。あの偏屈者の不死椚が認めたことも、たった十五という幼さで癸亥の石蘭を摘んだ才も。あの子の技と心を鍛えたのはお主じゃろう? もう少し弟子を信じてやったらどうじゃな」
「認めてるさ」
ふう、と息を吐き出して陸杉は表を見た。
上古の時代同様に妖魔が湧き出したいま、その対処が出来る者は社会から大いに必要とされるだろう。しかし。
「坊主はここで生まれ育った。そういう輩は今でこそ増えたが、昔はそれほどでもなかったよな。ここに来るのは余程の変人か、事情で世を棄てた落伍者どもばかりだった。こんなご時世だ、あいつが封を解くってことは、俗世の闇に触れることでもある」
「甘いのう」
「うっせ」
先ほど言ったばかりの言葉を返されて、陸杉は頬を赤らめた。
樟はにやにやと笑うばかりだ。
「弟子をいつまでも弟子扱いするもんじゃない。もう少し信じてやれい。あの子は俗世を笑いながら蹴飛ばしてくるじゃろうよ」
「俺はまだ老師ほど老成してないよ」
齢を二千から数えるのを止めたと語る『樹仙』樟大老師と、まだ八百歳を超えた程度の『業仙』陸杉大将では心の仕上がり具合が違う。
ことここに至り、陸杉もようやく平静を取り戻したようだった。
「まあ、鬼祓い程度ならそれほど気にすることもないか」
「うむうむ。なあに、やり過ぎたとしても街がひとつ吹き飛ぶくらいじゃろ」
「ああ、最悪は戻ってこさせれば良いかね」
いたく物騒なことを口にすると、陸杉大将は腰を上げた。
樟は何を、とは聞かない。陸杉のことだ、不甲斐ない弟子たちの尻を叩きに行くのだろう。その中に椚の両親がいることは、きっと無関係ではないのだ。
樟は微笑ましい後輩たちに精進せえよと心の中でつぶやきつつ、日課としている瞑想に入るのだった。
***
御前は驚いたようだった。
椚の言葉が聞こえた瞬間、背にかばっていた愛熊童女が何らかの反応をしたのだろう。
それはつまり、椚の推測が的を射ていたことになるのだから。
『どういう意味だい、ボウヤ』
御前の声は、当代の鬼の棟梁としての威厳に満ちたものだった。
「四熊童子は大きなひとつの命を共有していて、愛熊童女が生きていればほかの三匹を産みなおせるって話だったよな」
『ああ』
「ちょっと演出過剰だったってことさ、御前。俺は一部の例外を除いて、鬼の涙ほど胡散臭いものはないと思っていてね」
紫熊童子が信じられないものを見るような目で、こちらを見ている。
「大嶽丸か酒呑辺りか? 霊験あらたかな輩の胆を食らってまで産みなおしたい輩とすると、大体この辺りだと思うんだが」
『つまり、こいつらは』
「元々兄弟を産みなおすのに負担なんてないはずさ。かたちが違うだけで、元は同じものなんだからな」
椚を紫熊童子に当てさせたのは、実力のある仙人の生き胆をより早く紫熊童子に届けるため。失敗したならしたで、御前が愛熊童女の呪を解こうと集中している最中に兄を産み出して襲わせることも考えていたのではないか。
「四熊童子の中核は、元々が愛熊童女だ。大熊と小熊を産みなおしていないのは、三匹とも死なないと産みなおせないのか、別の理由か」
『ちぃ、やりすぎちまったかい』
『メグ、お前は』
随分と口調が変わった。これが愛熊童女の本性か。
椚はポケットをまさぐると、紫熊童子の眼前にぶら下げて見せた。紫熊童子が驚きに目を見開く。
『お人よしの鈴鹿の姫よ、あんたが作ったこの鬼多区はね。この屋敷の連中には楽な居場所さ。だがね、あたいらには耐えられない』
「姉者!」
『おお、可愛い紫。あたいは駄目だ、斬妖と鈴鹿の姫がいる場所じゃ、残念だが逃げられない。紫よ、どうにかして逃げおおせて――』
「ちがう、ちがうんだ、姉者――」
『どうした、紫?』
「こいつ、この仙人、やりやがった、この角、兄者が、
愛熊童女が声にならない悲鳴を上げた。
椚は笑みを浮かべると、種明かしをする。
「四熊童子と愛熊童女、ってとこかね? お前らは誰かが生き残っていれば、その誰かから生まれ直すことができる。愛熊童女を四熊童子の一匹とすることで、最後の保険にしたのだろ? だから言ったじゃないか、演出過剰だったと」
「どういう意味だ!?」
「木乃香――うちの占儀官は腕が良くてよ。
「あ、あ、あ、あ」
「卑熊童子どのは高潔で、立派に戦われたよ。お前らに幽閉されていた恨み言など一言も漏らさなかった。さあて、御太刀、御前。そちらはお好きにやってくれ」
『ああ。斬妖、手伝え』
『はいはい。鬼は斬り飽きたのだけどねえ』
『ひっ、嫌じゃ、嫌じゃああああああああああああ!』
肉を斬り刻む音と、悲鳴が聞こえてくる。
椚は紫熊童子を踏みつけにしたまま、悲鳴が完全に途絶えるまで通話を切ることはなかった。
「やれやれ、御前も随分と頭に来ていたのだな。鬼が悲鳴を上げる責め苦とはどれ程のものか」
「……殺してやる」
椚は足を外した。
法力の壁は音も光も完全に遮断するから、この中の様子が表の人々に伝わることはない。
ゆっくりと立ち上がる紫鬼童子の双眸には、怒りと憎しみと、何より恐れが浮かんでいた。
「殺してやるぞ、仙人ッ!」
「出来もしないことを言うものじゃねえな」
叩きつけられる拳。
岩をも砕きそうな威力のそれを受けても、椚の体は身じろぎひとつしない。
立て続けに振るわれる拳を避けもせず、椚はゆっくりと拳を後ろに引く。
「ふんっ!」
鋭く振り抜かれた拳は、紫熊童子の顎に。硬いものが壊れる感触と、ぐるりと揺れる頭。
しかし紫熊童子は怯まない。勢いを衰えさせずに拳を振るい続ける。
人間ならば疲れも出るだろうが、鬼の場合はそういうこともない。致命的な終わりの瞬間まで暴れ続けるのだ。
椚はゆっくりと腕を引いて、鋭く振り抜くという動きを淡々と繰り返す。
「ぐぎっ、殺す! うがっ、ごろっ! があっ、があああっ!」
最後の一撃は、喉笛に打ち込んだ拳だった。
「あがっ――」
全身に張り詰めていた力が突然途絶え、紫熊童子は膝から崩れ落ちた。
椚はぐるぐると腕を回すと、紫熊童子を見下ろした。
「粘ったもんだな」
「く、くく。我等の願いは潰えた。何もかも、終わりだ」
「誰を甦らせようとしていたのかは、今更聞かねえよ」
乾いた笑いを漏らす紫熊童子の体が、じわじわと萎びていく。
鬼の最期のひとつだ。骨と皮になり果てて終わる。
「お前は、おそろしい男だ」
笑顔で鬼は言う。
「闘仙、椚。お前は、俺たちよりも、よほどおそろしいやつだ――」
何とも楽しそうに言い放って、最後の四熊童子は乾き果てたのだった。
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