肆 大講堂の怪異

 鈴鹿御殿を後にした椚は、さっそくスマホを取り出した。

 登録してある数少ない相手のひとりを選び、通話ボタンを押す。


『はい、どうされました? 椚様』

「ああ、木乃香。悪いが至急、やつがいる」

『あ、はい。御前様のご依頼ですか』

「そうだ。『紫熊しぐま童子』を探してくれ」

『四熊童子ですか!? でも、椚様がこの前』

「あいつらの元締めだとさ。四つの熊じゃあなくて、紫に熊で紫熊童子だそうだ。恐らく鬼多区にはいないだろうと思っている。済まねえが至急だ」

『わ、分かりました!』


 通話を終えたところで、椚はふらふらとした足取りでついてくるミタチを振り返った。


「御太刀。頼みがある」


 その言葉に、ミタチが艶然と微笑んだ。


***


「そうか。分かった」


 青いパーカーを着た青年が、スマホをぽいと放り捨てた。


「悪かったな、ありがとよ」

「え、えへ。えへへへへへへへへへへへ」


 路地裏。虚ろな顔で笑い声を漏らす男。――その、生首。

 不気味なことに、首だけの状態になりながらも笑い続けている。

 青年はポケットを探ると、中からくしゃくしゃのチケットを取り出した。生首の前でひらひらと振ってみせる。


「なあ。聞いたことのない名前だけど、こいつは高僧なのか?」

「えへへへへへへ。あははははははは」

「使えない奴だ」


 生首は反応しなかった。質問に答えなければ最早用はない。

 ぐしゃりと。何の感慨もなく踏み潰してから、フードを深めに被る。


「ち。新しい皮だっていうのに汚れちまった。


 舌打ちしながら汚れた靴を周囲になすりつけて、青年は路地裏を後にした。

 踏み潰された首から転がり落ちた目玉が、その後ろ姿を恨めしげに眺めていた。


***


 碧川秀積は、僧侶としてはともかく仏理学者としては世界的に名の知られた人物である。

 上層部に遠慮してか、彼に講演の依頼をする者は決して多くないのだが、稀に是非にと依頼してくる物好きもいる。

 瑛協大学は上層部の圧力で路頭に迷っていた碧川を助教として雇用するほど碧川に心酔し、評価していたので、三月に一度のペースで講演会を開くのは学内の定例行事となっていた。

 実践仏理学の講義の翌日。碧川は大講堂で二時間後に迫った講演の打ち合わせをしていた。


「今回の講演内容は先日学会に提出しました、『妖魔に対する撃滅を目的とした場合における、法力効果の減衰』の論文に関するものでよろしいですか」

「はい、そちらで是非。しかし、調伏でなく撃滅を目的とした場合に、途端に効率が下がるというのは仏理学独特の要素ですよね?」

「ええ。私はそれが仏理学の限界ではないかと考えています。本義は衆生救済にこそあり、妖魔撃滅は正道ではないのだと」

「成程、興味深い話です。西洋のエクソシストと比べ、仏僧の死亡率が高い理由もその辺りにあるのでしょうか」

「かもしれませんね。その辺りを仏理学的見地から、具体的にご説明しようかと思っております」

「よろしくお願いします!」


 碧川は司会との打ち合わせを終えて、設営が進んでいる講堂の様子を眺める。


「そういえば椚君は聞きにきてくれるでしょうか」


 昨日仕事が入ったと言っていたから、今回は聞きに来られないかもしれない。

 同じレベルで話をすることが出来る存在は貴重だ。年下で、講師と生徒という関係ではあるが、碧川は椚を友人のひとりのように思っていた。

 椚もそれなりにこちらを評価してくれているようで、こちらの課題には常に仙人としての見地から鋭い意見を返してきてくれている。

 学者としてステージを上がれたのは、彼の力があると碧川としては感謝していた。


「今回のレポートは、椚君の意見がなければ完成しなかったと言っても良い。来てくれると嬉しいのですが」


 とは言え、目当ての人物が来ないからといって、講義のように力を抜いて良いというものでもない。

 碧川は自分に気合を入れなおすと、今一度講演内容に不備がないかを確認すべく控室に戻るのだった。


***


 椚が木乃香からの連絡を受けて急行した路地には、当然ながら既に紫熊童子の痕跡はなかった。

 しかし、警察が縄張りをして何かを調べている様子であることから、ここで何者かが何かをしでかした後であることを察する。

 縄張りをくぐると、当然のように制服を着た女性が椚を止めようと立ちはだかってきた。


「おい、君。ここは立ち入り禁止だ――」

「国家神秘対策室所管、瀛州えいしゅう癸亥山きがいせんの椚です。占儀せんぎ官の卜占ぼくせんによってこの場所が示されました」


 国から提供されている身分証を示すと、表情をきつく固めた女性は一瞬動揺したような目を見せたが、気丈にも首を左右に振って答えた。


「椚捜査官殿、ですか。自分は及川と申します。我々は今、ここで起きた猟奇殺人事件の物証集めを行っています。そちらの調査はその後にしていただけると助かりますが」

「わかりました。では分かっている状況だけ説明していただけますか」

「しかしですね、捜査情報を自分の一存で漏洩するわけには」

「そうですか。妖魔――失礼、当局では神秘生物でしたね。連中による犯罪である場合、そちらの捜査能力では判別できないと思いますが」

「ええ、確かに状況は人間業ではありませんが、その」


 なおも言いよどむ及川の言葉には興味を払わず、椚は取り出した銀杖で地面を叩いた。


「あ、何を」

「倭仙術『戻り木霊』」


 波紋が地面を走り、周囲の音が消える。さざなみのように地面を走った波紋は、数多くの言葉を浚ってこちらに戻ってきた。


『徳の高い坊さんを探しているんだ。教えてくれないか』

『こ、断る! これでも俺はあばばばばばばばば』

「このダミ声、拝み屋の在津じゃねえか」

「え、こ、これは」


 椚も顔見知りの破戒僧の声が響く。この場に居る者たちにも声が聞こえており、及川の反応は大げさなほどだった。

 だが椚は耳を貸さない。声の量は膨大で、必要な言葉を拾うには集中しなくてはならないからだ。


『法力はあるが、大して胆は美味くないな』

『あは、あはははは、体、俺の体!』

『ふうん、あおかわ? 仏理学者、ねえ。なあ、聞いたことないけど、こいつは高僧なのか?』


 あおかわ。碧川へきせん。ぞわりと背筋を走る怖気。

 声に混じって、ぐしゃりという音。笑い声が止まる。


「嫌な偶然もあったもんだな」


 椚は銀杖を持ち上げると、現場から背を向けた。もうここに用はない。


「あ、あの?」

「ああ、失礼。こちらの用件は終わりましたので、あとはご自由に」

「えっ!? 今のは、ええと」

「我々流の捜査ですよ、及川刑事。物証は残りませんが、神秘生物相手にはこれで十分でしてね。それでは失礼」


 及川の疑問には取り合わず、椚は縄張りから離れた。

 背を向ける直前になって、一言だけ声をかける。


「今回の顛末については、後程神秘対策室からレポートを提出させます」


 それだけ告げると返答は待たずに、近くに停車していた車に乗り込む。

 呼び止めようとする及川には構わず、運転席の大葉に鋭い声で指示を出す。


「大葉、大学だ。碧川助教が狙われている」

「わかりました!」


 走り出す車を追う姿はなかった。シートを少しだけ倒して、瞑想に入る。

 女刑事のことはすぐに忘れた。


***


 瑛協大学大講堂。

 新進気鋭の仏理学者、碧川秀積の講演会は大盛況のうちに幕を閉じた。

 実践仏理学を専攻する学生たちの姿も多く見える。

 質問があれば、と司会が水を向けると、何本もの手が挙がる。


『――理論が検証によって真実であると証明された場合、対妖魔を前面に押し出す現在の主流派にとって――』

『――妖魔掃討は仏道においては邪道であるということでしょうか。ならば――』

『――法力をもって衆生を守るならば是、法力をもって衆生を害する妖魔を討つのは非であるとしますと、その線引きとは――』


 向けられる質問にひとつひとつ丁寧に答えていく。

 そして、挙がる手もまばらになったころ、青いパーカーを着た若い男がマイクを手にした。

 フードを取らないのはマナー違反ではある。しかし、碧川の講演は、彼を存在を快く思わない派閥の一員が顔を隠して聞きにくることも多い。そのためか、それほど奇妙とは受け取られなかったようだ。


『先生に質問です。もしここに人を食らう妖魔が現れた場合、先生はどのようにしてその身を護られるのでしょうか』


 随分と冷たい響きのする声だ。実に薄気味悪い。

 だが碧川は、その男に対しても真摯に答えた。


「まずは対話を。鬼子母神の故事もあります。私自身僧籍に身を置くとは言え、まだそれだけの慈悲が備わっているとは到底思えません。ですが、互いに心あるならばきっと人食いの業を捨てることもできるはずですから」

『そうですか。では、対話による解決ができなければどうでしょう』

「御仏の慈悲にすがることになるでしょう。私自身もまた法力を備える身ではありますが、その力は自身のためにではなく、人々を護るために使われるべきだと考えております」

『成程、なるほど。先生は確かに高潔です。では、ここに居る皆さんに御仏の加護を見せていただけますか』

「それは、どういう?」

『こういうことです』


 男はフードを取った。強烈な違和感を感じさせる風貌。

 それは額に生えている角のせいであったが、それだけではなかった。

 明らかに、頭の大きさと体のバランスがおかしいのだ。ゆるめのパーカーを身に着けているという理由だけでは納得できない。


「鬼ですか。あなた自身が、私の前にそうやってその姿を示されたこと。その意味を伺っても?」


 会場からは悲鳴が上がるが、碧川は動揺しなかった。

 男から慌てて距離を取る人々。誰かが転んだようで、怒号と悲鳴があちらこちらから聞こえてくる。


『そりゃもう。先生が高僧であるかどうかを確認したかったからですよ』

「私はまだ、それ程の者ではありません」

『いいえ、確かにあなたは素晴らしい。俺を前に怯えることもなく、前言を撤回することもない。あなたの生き胆は、とても素晴らしいものであるだろうさ』

「その業を捨てるつもりはないと」

『ないね。俺が食わなきゃ、だれかほかの鬼が食う。ならば俺が食った方がいいじゃないか。なあ、先生ぇぇぇぇっ!』


 叫び、走り出す男。マイクを放り捨て、満面に笑みを浮かべて椅子を薙ぎ倒す。

 先生を守れという叫び、助けてという悲鳴。客席は阿鼻叫喚のあり様だが、扉が開く様子はない。


「お前らは後だ! そこで見ていろ、先生の後に自分たちがどうなるかを!」


 どうやら男の仕業らしい。男は壇上の碧川に向かって跳んだ。

 碧川は目を逸らさない。眼前に迫るその手を、じっと見つめる。


「御仏の慈悲とやらはどうしたぁ!?」

「私のことは良い、あの方々を――」


 振り下ろされた腕が、碧川の目の前で止まる。

 遮っているのは、一本の銀色。


「何っ!?」

「悪いが、このお人はお前の胃袋に納めていいような御仁じゃねえんだ」

「君は!」


 銀杖で男――紫熊童子の右腕を押さえつけながら。


「何者だ、お前!?」

「どうも、御仏の慈悲です」


 椚は獰猛な笑みを浮かべた。

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