少食な俺と三十六億分の一の彼女

シキ

第1話 少食な俺と三十六億分の一の彼女

「なんかあんまり食べてなくない? 体調でも悪い?」


 パスタが半分残った皿を見て、会って一時間足らずの彼女はそう言った。


 こういった場面は何度となく経験してきたが、未だに上手い言い訳を持っていない。残ったパスタと彼女の妙に気合の入った化粧を見比べ、結局俺の口から出てきたのはその場しのぎの答えだった。


「いや、食べるのにあんまり興味なくて」

「えぇー、食べるのに興味ないってどういうことー? パスタ嫌いなのー?」


 舌っ足らずな声で話す彼女は質問を重ねてくる。とりあえず笑って誤魔化しながら彼女の名前を思い出そうとするけど、最初から覚えようともしなかった名前を思い出すことは難儀だった。この合コン開始時点、彼女が俺のことを気にしてくれたのはなんとなくわかっていたが、対する俺はまったく興味が湧かなかったからだ。


「パスタは好きだけど、食べること自体が好きじゃないっていうか」

「えー、もったいないー。ここのパスタすーっごい美味しいのにー」


 彼女は最後の一口分のパスタをくるくるとフォークに絡め、大きな口を開けて頬張る。口の端から、乳白色のソースがとろりと垂れる。隣に座っていた友人が、それをエロいと茶化し、俺の話題はすぐに流れていった。

 合コン自体は別に嫌いじゃない。俺に彼女がいなくて、それに協力的な友人がいるのもありがたいと思う。ただ、俺が好む相手はこういう洒落たパスタ店や、アルコールが異常に薄い居酒屋にいないことは確実だった。


 空の皿を下げに来た店員に、俺は冷めてしまったパスタの皿を渡す。店員はなにも言わず、一番上にその皿を重ねた。


※ ※ ※


「いやー、今日もハズレだったな」


 帰り道、合コン主催者である友人は酔いに任せて高らかに言った。


 月に一度は合コンに誘ってくれる友人は、その努力虚しくまだ実っていない。高い理想を捨てれば簡単に彼女が出来ると思うけど、とアドバイスをしたことがあるが、友人はその高い理想を引き当てるために合コンを開いているらしい。一度条件を聞いたことがあったが、項目が多すぎて全部聞くのを諦めた。

 友人と一言二言言葉を交わし、駅の前で別れる。俺はその背中を見送りながら、毎回申し訳なく思った。俺の偏食を気遣いながらも合コンに誘ってくれるし、大体その話題になるとフォローしてくれる。だからこそ、合コンを本気で楽しめないのは悪い気持ちになる。


 食べるのに興味がないっていうのは、半分嘘だ。いつの間にかとても少食になってしまっただけで、完全に興味がなくなってしまったわけじゃない。

 でも少食というのは意外にやっかいなもので、例えば定食屋で一人前が食べられない。大学の学食でも残ってしまう。その上、それ以上頑張って食べようとすると気分が悪くなる。

 こうなってから感じたけど、俺達は皆、子供の頃から残さず食べなさいと教育をされてきた。だから出されたものは全部食べなければ、さも当然のようにこう言うのだ。


『どうして食べないの?』

『体でも悪いの?』


 ただ、もういらないから。ただそれだけの事なのに、疑問に思われる。心配される。心療内科とやらも行ってみたけれど、原因は結局わからずじまい。


 俺自身も、どうすれば良いのか全然わからないまま毎日を過ごしていた。


※ ※ ※


 友人が初めて合コンを誘ってきた時の事を、俺はよく覚えている。


「世界に女は何人いると思う? 正解は三十六億人だ。三十六億だぞ、三十六億。まぁ、俺が出会える女の数は知れているさ。毎日合コンしたって平均三人掛ける三五六日でだいたい千人くらい。だけどさ、俺の求める女は、その千人の中に一人は絶対にいると思うんだよ。だって千人だぞ? いなきゃ逆に可笑しいだろ。千人も会って全く合う女がいなけりゃ、そりゃ少しは凹むかもしれないけど、それなら会うまで回数を増やせばいい。つまり合コンをしていれば、理想の女にいつか必ず出会えるってわけだ」


 俺はそのフザけた理論を流しながら聞いたが、頭の中ではわりと的を射ているのかもしれないと思った。もちろん、現実的に会える人数は千人よりもずっと少ないと思う。ただ、友人はその理論を信じて実行する力が備わっていた。人脈を作り、会場を押さえ、知らない女の子と会う。世の中の大半の男は、彼女を作りたいと思っても、いざ行動に移せる人は少ない。それはもちろん、俺も同じだ。


 ただ友人とは違って、たとえ千人と会ったとしても俺に合う彼女がいるとは思えなかった。もし彼女が出来ても、一緒にお昼をする時に俺は食べ物を残してしまうだろうし、きっと彼女も気になるだろう。その辺にあるカフェにだって気軽に行けないかもしれない。こんな面倒くさいやつを付き合ってくれる人なんて、それこそ三十六億人に会わなければ見つからないんじゃないかとさえ思っていた。


 しかし皮肉にも彼の理論を証明してしまったのは、俺だった。


 三対三での合コン、その日は珍しくレストランで、西欧風のコース料理だった。

 彼女の印象は、珍しく俺の中に残っていた。他の二人より、明らかに気の抜いた服装、まるで気のしれた友人としか会わない日に着ていくような、普通の服装で来たからだ。化粧気はあんまりなく、髪も普通に下ろしているだけ。細身で愛嬌のある顔だったけど、それより料理を見つめるきらきらとした眼が気になった。

 彼女は僕の正面に座っていて、自己紹介さえも適当で、相手を見定めるよりも料理を美味しそうに食べていた。きっと彼女は合コン自体にはあまり興味がなくて、人数合わせで連れてこられたんだろうなと俺は思っていた。


 前菜とスープである程度お腹が満たされた俺は、メインの鴨肉のコンフィに半分だけ手を付けて残した。

 いつの通り俺の皿に半分残されていた鴨肉のコンフィ、すでにお皿の中を空にした彼女は、俺と半分残った皿の中を見比べる。あぁ、またあの質問が来るな、今日はなんて答えようか。


「ねぇ、もういらないの?」

「あー、うん」


 ほらきた、と俺はその先なんて言えばいいかを考える。この先のデザートも少し口をつけようとは思うけど、全部食べ切れる気はしなかった。


「そう、じゃあもらうね」


 悩む俺を少しも気にせず、彼女はなんの躊躇もなくそう言うと、手に持ったフォークを残った鴨肉に突き刺した。そしてあっと言う間に彼女の口に収まる。


 呆然とする俺に、彼女の友達は引いていると思ったのか慌ててフォローした。


「ご、ごめんね。ナナ、食欲だけはあって……って食欲だけしかないんだけど」

「あぁ、大丈夫だけど……」


 フォローしているのか貶しているのかわからないが、彼女はまったく気にしていないようで、とても幸せそうな顔をしていた。俺はただ、目の前に置かれたソースの跡しか残っていない皿を見ていた。いつも残って下げられる皿の中になにも残っていないことが不思議に思えた。


「いやいや、残るなら食べるよ。作ってくれた人にも申し訳ないでしょ」


 彼女はいつの間に取ったのか、俺の分のパンを片手にそういった。ナナと呼ばれた彼女はしばしば友達に注意を受けていたが、やがて無駄だと思われたのか放置されるようになった。そして彼女は僕の分のアイスも貰っていいか尋ねる。


「あー、助かるよ。俺、あんまり食べれなくていつも残しちゃうから申し訳ないんだよね」


 アイスの入った皿を渡しながら、俺は彼女に自分から話しかけた。自然と出た言葉は、今まで友人にしか言っていなかった本音だ。


「美味しいものは必要な分だけ食べればいいんだよ。たぶん、君はその必要な分が、普通のより少ないだけで、私は多いだけなの」


 そう言ってアイスを頬張る彼女に、俺は初めて、自分から携帯電話を取り出した。


※ ※ ※


『ねぇ、今週末暇? 土曜日』


 電話からいきなり聞こえてきた声に、頭の中でカレンダーを捲る。


「今のところはなにも予定ないけど……」

『やった! じゃあちょっと付き合って! アミネプリンスホテル前に十二時に集合でよろしく!」


 俺が返事をする前に、電話はプツリと切れる。画面には『及川七海』という四文字だけが浮かんでいた。


 とりあえず俺は、アミネプリンスホテルを地図アプリで調べる。どうやら街中にあるホテルらしい。ラウンジは広く綺羅びやかに裝飾されていて、一泊するだけでも一人三万円程する、いわゆる高級ホテルであった。こんなところで待ち合わせしてなにをするのか、街中でメジャーな待ち合わせ場所なんていくらでもあるのに。少しずつ鼓動が早くなっていく中、次はそのホテルをインターネットで検索してみる。


「中にあるレストランが絶品のホテル……」


 あ、これか。きっとそうだ。彼女にとっては色気より食だということを、合コンでたっぷりと証明された。いきなりホテルなんて言われて驚いたけど、まさかね……。


 そう思いつつ、俺の鼓動の音はなかなか治まってくれなかった。


※ ※ ※


「やーやー、呼び出して悪いね」

「及川さん」

「七海でいーよー。というか今日はそう呼んでくれないと困るの」


 彼女は挨拶もほどほどに、いきなり俺の手を取りホテルの中へずんずんと歩きだす。友人からもらったアドバイスに、会った時は相手の服装をまず褒める! と言われていたが、そんな暇もなかった。


 彼女の目的地は、ホテル二階にある『ビュッフェレストラン アミネ』だった。すでに予約を入れていたらしく、店員に自分の名前を告げると。


「カップルメニューお願いします」


 と満面の笑みで注文をした。


「よし……えーと、君のことはなんて呼べば良いんだっけ?」

「なにが?」

「名前だよ、名前」


席に案内され座ったと思った途端、彼女はそう訪ねてくる。


「……じゃあ拓斗で」

「よし拓斗! ビュッフェは時間との勝負だよ! 配分はしっかり気にしてね。それではお料理を取りに行きましょー」


 彼女はスキップでもしそうな勢いで先に行ってしまった。……なんだかここまですっかり彼女のペースだ。というより、俺のことを少しは気にしているのかも怪しい。どう考えても俺を誘った理由が、カップルメニューを試したかったからとしか思えなかった。緊張して一時間前に待ち合わせ場所に来た俺が馬鹿みたいだ。


 とりあえず、せっかく来たんだから立ったままではいられない。俺も彼女に続いて料理を取りに行った。


 彼女が席に戻ってきたのは、俺よりも後だった。俺が皿に四、五品目を少しづつ乗せただけなのに対し、彼女は二枚の皿に隙間がないほど料理を乗せて帰ってきた。


「じゃあ、いただきまーす!」

「いただきます」


 ほんの少しを皿に乗せただけの俺の皿に、彼女は何か言ってくるかと少しの覚悟をしていたけれど、それは杞憂だった。目の前の料理に夢中のようでしっかりと手を合わせてから、お肉を頬張り、幸せの絶頂と言わんばかりの笑顔を浮かべた。

 彼女は俺が観察しているのもまったく気にしない様子で、この料理が美味しいやら、パン派かご飯派かなど、会話を織り交ぜて食事を進めた。

俺の食事自体はすぐに終わってしまったけど、彼女は二回もおかわりしに席を立ち、デザートのケーキも皿いっぱいに押せて戻ってきた。彼女の細い体のどこに料理が入っているのか、本当に不思議に思う。

 彼女が一口サイズのショートケーキを頬張ったその時、店員さんが小さなホールケーキを持ってきた。


「こちら、カップルコースの限定ケーキになります」

「きたきた! 今日はこのために来たんだよ!」


 店員に大袈裟すぎる礼を言って、彼女はフォークを手にする。すでに空腹も満たされ、コーヒーを啜っていた俺は、なんというか、まだ入るのかと少し呆れにも似た感情を持っていた。……限定ケーキを一口頬張り、幸せそうな笑顔を浮かべさせる彼女は、正直可愛かったけど。


 そんな俺の視線に気付いたのか、彼女は俺とケーキを見比べ、ケーキにフォークを深々を刺した。


「はい」


 そして伸びる彼女の手……もとい、一欠片のケーキが俺の目の前に差し出された。

 普通だったら、きっとこれは喜ぶべき状況なんだろう。なにせ女の子からのいわゆる『あーん』は誰だって一度は夢に見るシチュエーションだと思う。だけど、残念ながら俺は違った。


 その目の前に差しだされたのは、俺にとってまるでナイフのようにも思えた。唾を飲み込む、つい先程食べたものが、食道をせり上がる、思考が止まる……ほらやっぱり、無理だ。こんなケーキの一欠片でも食べることを体は拒否する。やっぱり彼女とこういう風に過ごすことは俺にはこれからも絶対無くて、彼女……七海にもきっと迷惑を掛けるだけなんだろう――


「拓斗、とりあえず笑って」

「ん?」

「とりあえず、わーらーうーのー」


 口元にあるケーキが消えたと思ったら、いつの間にか頬を痛いほどつねられ、上に引っ張られる。


「拓斗、今日料理を取りに行く時から、凄い顔してたよ」

「ほ、ひょう」


 頬を引っ張られているせいで、まともな受け答えは出来なかった。けど、言われた事は想像がつく。


「美味しいものを食べる時は、他のことを気にしなくてもいいんだよ。少食って言ってたけど、ケーキが嫌いってわけじゃないんでしょ?」


 コクコクを首を縦に振る。食べることは嫌いじゃない。俺だって食べれるのならもっといろいろ食べたい。


「だったら、大丈夫。残った分は私が全部食べてあげるから……ただ、私が好きなもののことも少しだけ、知って欲しいなって」


 頬からぱっと指が離れる。そして、またフォークが差しだされた。


「はい」


 さっきよりも、鼓動は安定している。特に体に以上はない……頬が痛いけど。そして鼻孔から生クリーム特有の甘い匂いがくすぐった。


 口をゆっくり開けて、そのケーキを口に含む。……何度か咀嚼をする。甘い、そのケーキはひたすらに甘い気がした。少しクドいくらい甘かったので、コーヒーを口に含むと甘さが苦味に流され、ちょうどよく美味しい。


「どう? 美味しいでしょ」


 彼女の問いは、なんの疑いもなくて、曇りのない期待に満ちていた。美味しいを共有すること、俺はそれを、ずいぶんと久しぶりに感じた気がした。


「あの……もう一口だけくれる?」


 俺がとても言いづらそうに頼むと、彼女は満面の笑みでケーキを差し出した。


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